パロディ。




 女がその細面を色の付いた筆でそっとめかすように、花を纏わぬ江戸彼岸の木の枝の物寂しさを隠すかの如く、真白の雪が積もっている。春の威厳は何処へやら、冬の今では木々はその頼りない枝を、気まぐれに降る雪のみでしか覆う事が出来ないでいる。窓から見える中庭のその様子から視線をふと外し、私は手元の文庫本に意識を遣ると、読んでいた頁に自然な動作で緋色のスピンを挟んだ。
 このサナトリウムに来てから、随分と長い時間が経ったように思う。自分の事なのに「思う」と云うのは私は何時からか暦を見るのを諦めたからで、今が何月何日で入院してから果たしてどれ程の月日が流れてしまったのかを、知ろうとする努力を辞めてしまったからだ。努力を止めた人間の能力等は実に低いものであり、私は看護士の述べる月日のデータをするりと表面で滑らせては直ぐに風化させている。事実ではなく感覚で述べさせて貰うのならば、地獄のように長くはあるが、それでも過ぎた刻を想えば存外短くあると云うのが率直な私見ではあった。
 大部屋には私を含め6人の患者が居るが、私はだんまりと本を読むだけだから、他の患者の事をよく知らないし彼等もまた私の事をよくは知らない。また、お互い知ろうとも思っていないだろう。馴れ合い等をして失う哀しみが増えるのを、少なからず無意識に防衛しているのかも知れないとも思う。
 私は以前読んだ青春文学の登場人物と同じくして、左上の葉肺門部に鶏卵大のカヴエルネを持っている。彼と同様肺摘の手術を受けるか否か、少し悩んでもいる。私には彼のような甘くも苦い青春等は一つもなかったし、今まで青春と云ったものとは無縁で生きてきた。そのような私が自殺にも似た(と云うよりは自殺そのもの)行為を行う意味を見出だせはしなかったし、然しだからこそ死なぬ意味もあるのだろうかと疑問にも思う。それともう一つ実は私には、判断を下すに於いて艱苦すべき要因があるのだった。

 時計の針を見ると、丁度二時を指すところであった。私は文庫本を持ったままもう一度窓へと視線を向けて、更にはそれでは飽き足らず、ベッドの上で身体を傾ける。窓の下では制服の上へインバネスを羽織った男子学生がサナトリウムへ向かって歩いており、彼の姿は何れ建物の中へ入って見えなくなる。私は短く切られた彼の髪をフラッシュを焚くカメラのようにしかと目に焼き付けると、毛布から下肢を出してベッドから下りた。音を立てて扉に向かい歩く私に興味を示す者はなく、私は一瞥も貰う事なしに扉を開く。この世の全ての闇をも飲み込んでしまいそうな通路を歩く間に私は何人かの患者と擦れ違ったが、知り合いは愚か見覚えのある者も居なかった。勿論それは看護士もその例に漏れない。
 通路を左折すると、患者服と白衣だらけの此処では些か目立つ黒色のインバネスが目に入る。恐らくは角帽であろう若き彼の手には鮮やかな色彩を放つ果物が、袋の中に所狭しと詰まっている。彼が患者でなくて見舞い人だと云う事は誰の目から見ても明らかであるが、私は彼が一体誰の見舞いに来ているのかを知らない。
 家族か、友人か、恋人か。
 こうも彼から熱心な見舞いを貰える相手が少し妬ましい。孤独な私には矢張り、そのような事をしてくれる相手等が居ない。
 顔を上げて私を見ようともしない彼の隣を通り過ぎる前に、カンバスから絵が飛び出すように彼の袋から果物が一つ私の足元へと転がり落ちて来た。私はその蜜柑に一瞬気圧されたが、気が付いたように直ぐに腰を屈めて蜜柑を拾う。彼に右手を差し出した瞬間彼と目が合って、私はその泣き黒子の上の聡明そうな目に暫しの瞬きを奪われた。

「…すみません。どうも」
「いえ、」

 道徳的理由からではない。単に私と彼は話した事もないのにと云う、人間的問題だ。故に彼を恋慕する等とは可笑しな話だと分っていながらも尚慕い続けたと云うに、私は無愛想にそうとしか返事をする事が出来なかった。そんな私に私は絶望とも云えよう感情が渦巻いて、自身を見放しながら彼から離れようとした。その時耳に酷く心地の好い彼のテノオルが響き渡り、私は意識する前に足を止めた。古刹の息子だとでも云うのだろうか、果物の香りではなくて麝香が玉響に私の鼻孔を擽った。

「手術をお受けになる?」
「……はい?」
「ああ失礼、他意は無いのですが、」

 そこで一句切りした彼が私の事を知っている筈はないし、増してや私の病状や心理も知る由はないだろう。では何故…、と私が彼の次に発するであろう言葉を佇んだままで待っていると、彼は酷く慇懃な態度で――、唇を動かした。

「貴方の顔に、愁嘆の色が見えたもので」


 私は驚きに小さく目を見開いて、天井灯に止まる蝿が蠕動したのにも全く気が付く事が出来ぬ程、彼の目から視線を動かす事が出来なかった。私を見る彼の忖度等は出来たものではないけれど、それから私は嫣然と微笑んで、恬然として気取ってみせた。

「ええ。実は、肺摘を」
「肺摘? 随分とまた大層な手術ですね」
「そうなのです。ですから――、」

 意味ありげに間を置いた私を、角帽は自棄に真面目腐った顔で見る。ニルアドミラリ風の彼は、これでいて存外慈悲深くあるのだろうか。対してあんなにも今まで決め兼ねていた事柄に漸くピリオドを打てた私は、云いようのない開放感で満ちていた。
 この手術が終わった頃を――、則ち雪が溶ける頃、冬が溶ける頃、私の空洞が溶けてなくなる頃を――想像してみては己のその愚劣さに笑いが込み上げる。そのような夢のような都合の良い話等、ある筈がなかろうに。

 貴方の麝香は、仏の手向けか。

「露命ではありますけれど、どうか武運長久をお祈り下さい」


 然し願うなら、どうか私にも遍照が届きますよう。



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某推理小説家の初の長編作品と同じ位、或はそれ以上に最初と最後の色が違って上げるのを躊躇った結果一ヶ月放置しておりましたが、貧乏性がとうとう発揮されました…。
小鳥遊の見舞う相手は勿論母親です。



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