僕はあんまり腹が立ったものだから彼女を刺したのです。僕の記憶が風化と云う作用と興奮と云う障害によって確固たるものでないものになっていないのであれば、確か包丁立てで右から三番目の、柄が黒色の些か鋭利なそれで刺したのだと考えます。
 刺した瞬間僕の頬にぴちゃっとした液体が張り付いたものですから、これは真っ赤な血であって、僕は今から彼女と云う死骸をどうにかこうにか片さなくてはならないだなんて至って冷たく冷静に思ったりもしたのですけれど、何と彼女の腹から出ていた液体は赤色でもなければ生臭い血なんぞでもなかったのです。
 それは林檎ジュースでした。林檎のふわりとしたそれだけでなくジュース独特の甘味が僕の鼻孔を擽ったものでしたから、僕は直ぐに林檎ジュースだと解ったのです。ああでもああ、人体から林檎ジュースが出るだなんて可笑しな話です。有り得ないです。当然混乱しました僕は何だか恐ろしくなって、悲鳴交じりに彼女の腹を斬りました。するとどうでしょう――内臓が見えて然るべきそこにあるは星のきらきらだったのです。横たわる彼女の周りをきらきらが妖精のワルツのように舞い、実に美しく非現実的に光るのです。訳が解らなくなった僕が涙目になって「あう」だとか「えあ」だとか意味を為さない言葉を掠れた声で出しますと、彼女がむくりと立ち上がって、口の端から林檎ジュースを垂らしながら、
「喉乾いたねえ、」
 等と鷹揚に宣いますと制服のポケットから銀色の蛇口を取り出して、何処か得意そうな顔で笑うとそれを自分のお腹にくっつけるのです。彼女は何時もの綺麗な目を僕に向けるとキッチン側を指差して、
「コップ取ってきて、」
「ええ?」
「良いから、」
 僕は何だか逆らえなくて、気付けば彼女に透明なコップを差し出していました。彼女は満足そうな顔で頷くと蛇口を捻り、コップに林檎ジュースを注ぎます。そうしてたぷたぷまで入れますと、実に美味しそうに呑むのです。林檎ジュースを呑んだ彼女はぷはあと一つ息を吐き、
「美味しいね。」
 僕は訳が解りません。



 それから僕は毎日彼女を刺しました。それでも彼女の身体から出るのは葡萄ジュースと無花果だったり、蜂蜜と石鹸だったり、豆乳と胡桃パンだったり。人体のありよう、否、生物のありようを無視した彼女に僕がもう好い加減にしてくれ――!だなんて理不尽に叫びたくなっていると、黒蜜を垂らした彼女は腕の切断部分から見える葛餅を器に盛って、
「どうぞ、」
「僕に人肉嗜好はないよ!」
「でもこれは葛餅だよ、」
「違うよ、生物としてそれは絶対臓腑と血なんだよ、そうじゃなきゃ可笑しいんだよ、」
「君は変にリアリストだねえ。でもね、論理的なのは時に視界を見えなくするんだよ。良いかい、」
 彼女はそう云うとスプーンで葛餅を掬い、簡単に僕の口に含ませます。僕は反射的に吐き気がしたけど口内に広がったのは確かな葛餅で、恐る恐る嚥下したそれも確かに葛餅です。見ると彼女は悪戯気に笑っていました。
「ほらあ、事実として葛餅だったろ? く、ず、も、ち。」



 その夕方、彼女は話をしました。中の内臓が鉱物で出来ている世にも奇妙で奇怪なヌートリアが居るのだと、まるで宮沢賢治の宇宙的な夢物語を僕に云ったのです。
「つぶらな瞳のヌートリアが孕むは紫色の鉱物なんだ。綺麗だと思わないかい、」
「変だよ、」
「そうかな? 少なくとも見た目グロテスクな臓腑よりは素敵だろう? それにまるでパンが肉のキリストのようだ。」
「あれは実際にパンが肉な訳じゃあ…、」
 彼女は僕の反論を都合良く無視すると、自分の腕を躊躇する事なくちぎってそれを食べ始めます。血が苺ジャムのそれは今宵はパンのようで、彼女は「まるでゲームに出て来たあれだね」だなんて呑気に云うのですが僕はそんなゲームに心当たりがありません。彼女は小学校の給食の時のような甘ったるくてミルク臭くて吐きたくなる香りを漂わせながら、僕の目からその美しき瞳を外す事なく云いました。
「ボクはヌートリアのようでヌートリアはキリストのようだ。詰まりボクはキリストなんだね、」
「無理矢理過ぎるよ、」
「ほざくは自由だろ、」
「なら君は磔刑したら死ぬのかい、」
 僕が真顔で云うと彼女は目を瞬かせましたけれど、次には鈴を鳴らすように愉快げにころころと笑います。歯痒い事に何が可笑しいのか僕には全然解らないのですけども、多分僕は見当違いな事を云ってしまったのでしょう。彼女はパンである腕をぐるぐるともう片方の左手で回しながら、
「ボクを殺すなんて無茶だぜ。アンパンで出来たヒーローを殺すようなもんだ。顔を洗って百年後に出直して来たまえよ、」
「僕が死んでるよ!」
「そりゃあそうだ。じゃあ聞くけど、君はどうしてそこまでボクを殺したいの、」
 怖くなる程静かな声色で尋ねられ、僕は怯むと同時返答に詰まってしまいます。あの時は激情に駆られて彼女を殺そうとしましたけれど、次には恐らく口封じの為に殺そうとした筈です。然し依然として生きながらえている彼女は毎日刺して来る僕を怖がりもしませんし、逃げもしませんし、警察にだって行きません。僕も何時しかムキになっていただけで、口封じだとか、怒りだとか、そのような狡猾だったり醜悪だったりの感情等はとうに抜けていた筈なのです。では後は、何の感情が残っているのでしょうか。
 恐怖? 執着? それとも――、
「殺戮願望がおありなら、君が死ねよ。自分で自分を殺すんだ。出来るだろ、それ位、」
 彼女はそう云うと、微笑んだまま僕に包丁を渡します。僕はそれを右手で受け取って、自分の綺麗な左手の手首を見下ろしました。生まれてから一筋の傷すらもない皮膚のそこ。僕はそこに包丁を当て、そうしてぐ、と力を込めました。切れたそこから出て来たのは、しゅわしゅわの炭酸水―――。
 …何て事はなくて、出て来たのは普通の赤色の血でした。僕は何だか騙された気分になって不機嫌な顔で彼女を見ましたが、彼女は相も変わらずご機嫌な顔で僕を見つめます。
 彼女は不死(恐らく)のくせして僕は至って普通の人間であり、加えて今そんな彼女の前で理由もなく死んでしまうのは大変不条理に思え、僕は息を一つ吐いて包丁を机に置きました。彼女はそんな僕を揶揄するように、
「何だよ。やめるのかい。殺人鬼のくせして変に臆病で弱虫でやる瀬がないじゃあないか。」

 僕は彼女の言葉を無視しました。



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某芸術家の作品より。


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