何時もと変わらぬ平日の事だ。下町の人間がやれだのそれだのと、真っ昼間から顔を興奮に赤くしてはしゃぎ立てている。或る女は甘酒売から甘酒を買って男のように豪勢に呑み出すし、或る男は鰻辻売にもう少し負けろと交渉する。
 その風景を見ながら、ああ 何時もの江戸だと若旦那風の恰好をした男は思った。男は懐袖をしながら辺りを見ていたが、その顔は何処か晴れ晴れとしている。空気を慈しむように吸い、太陽の光を愛おしむように甘受している。どちらかと云えば大柄なのに、男の表情は慈悲に溢れたものであり、従ってその雰囲気は落ち着いた着物の色とよく合っていた。
 男はご機嫌な顔のまま界隈な人混みを進んだが、やがて一つの稲荷鮨屋を見ると、すすすとそちらへ足を向けた。稲荷を広げた稲荷鮨屋は客である男を見ると相好を崩し、健康的な肌とは対称的な白色の歯を見せながら、

「おお、旦那あ。久しぶりですね」
「ああ。最近少しごたごたしていてね。こちらへ顔を出せなかった」
「食べていかれますかい」
「そうしよう。勿論此処の稲荷が食べられなかった時期は、頭から黴が生えるかと思ったよ」
「何です、それ。何時も通り三つで?」
「そうだね――ああ――否、矢張り五つ貰おう」

 その数字に稲荷鮨屋は少しだけ驚くも、「何か笹の葉の上にでも」と云われ、食べ歩きかと納得すると笹の葉に稲荷を載せて男に手渡した。男は引き替えに金を渡し、折り目正しく礼を述べると笑顔を絶やさぬままその場を後にする。久々に会ったものなのに随分他人行儀で素っ気ない――と稲荷鮨屋は思ったが、男の後ろ姿を見るだけで、その寂しさから来る小さな不満とは不思議に晴れるのだった。
 まあ、稲荷を笑顔で美味しそうに食べて、また来てくれるのなら何でも良い。否、元気でありさえすれば良い。そんな事を自然に思わせてくれるような、男は実に不思議な存在だったのだ。






「江戸よ、頬に米粒が付いとるぞ」

 男は後ろからそう云われ、稲荷を食べる手を止めた。そうして後ろを振り向くと、そこには長い髪を一つに縛った男が立っている。武士の出で立ちをした男を見て、江戸と呼ばれた男は稲荷を持ったままの右手を上げた。

「安土か。相変わらず堅そうだな」
「貴様は相変わらず抜けておるようだ」
「はは、そうかも知れない。安土、君も食べると良い。きっと気に入る」
「……成る程な、儂の為の余分な稲荷と云う事か」

 出された稲荷を安土と呼ばれた男はじっと見ていたが、やがて右手を差し出してその一つを摘むと口にぽんと含んだ。予想外に美味しく感じたらしく、安土は至極驚愕した顔をするともう一つ稲荷を右手で取る。江戸はその姿を微笑ましく眺めたが、安土は直ぐにぺろりと一口で平らげた。

「…で、君が来たと云う事は新入り君が来たと云う事かい?」
「うむ、そうだ。今から貴様に案内する為に儂が遣わされた」
「そうかあ。仲良く出来るかな」
「どうだろうな。まああまり関わる事もあるまいが――」

 芋売の声と風車の回る音が聞こえる中で、江戸の顔が若干曇ったのを見、安土は口をさりげなく噤む。江戸の黒色の双眸は寂しそうに笹の葉をじっと見て、捉えて離そうとはしなかった。安土は何も云わずに代わりに町人の様子を眺めたが、十秒経つか経たぬか程で、江戸は重たそうな口を開く。

「彼が来たら、こうして稲荷を食べられも出来なくなるんだなあ」
「…稲荷自体は恐らくなくならんだろうが、そうだな、きっと別のものをそうして喰うようになるだう」
「寂しいね」
「それが時代だ。もっと手が汚れぬものになり、もっと安価になり、もっと味の種類が増え、或は異文化を取り入れたものに」

 江戸も同意出来る事実に「そうだね」と云おうとしたが、江戸の口は圧力がかかったように開かなく、どころか視線も下がって行く。足取りも重く、顔色も暗くなり、あんなに快活な様子を見せていた江戸はあっという間に病人のような見目になった。安土はぎょっとすると江戸の背中を叩き、こら、と街道で声を張り上げる。然し幾ら声を大きくしようと他の町人は二人を気にも止めなかったし、自分達はより一層大きな声を出していた。要するにそんな街だったし、江戸はこの街を気に入っていたのだ。

「これ、しっかりせい。貴様は今から新入りの明治に街を案内したり色々な仕事を教える使命があるのだ」
「そうだね、そうだ」
「この為に此処数日貴様だって色々やらされたろう。交代まで後八年だが良いか、八年なんて寝て起きたら直ぐだ…」
「ああ全く、本当にその通り」

 口では同意しながらも心此処にあらずの江戸に安土は呆れたが、溜め息を大仰に一つ吐くと江戸の背中を今度は思い切り叩き出した。予期しなかった痛みに江戸は目を大きく見開き声を漏らしたが、安土に目の前の建物を指差されて意識は全てそちらに向けられた。
 時代交代における会議や仕事のなされる特別な場所。靄のかかって一般人は見る事の出来ない、白色の建物だ。あらゆる災害があったとてこの建物が崩壊する事は今まで一度もなかった、と奈良は云った。その時から外観は変わってないそうで、浮世離れすらした不思議な建物である。
 江戸は気乗りしない顔のままそれを見ていたが、少しして建物へと足を運ぶ。

「明治がこの中に?」
「ああ、待ってる」

 改めて次の時代が待っていると分ると江戸は益々ふさぎ込むが、然し立ち止まる訳にも行かなかった。ごくりと唾を呑み、眉を上げて一歩一歩歩いて行く。江戸は蝶番を掴み、勇気と共に扉を引いた。
 そうして江戸は目の前の光景から目を離す事が出来なくなる。建物の中には不安げな顔をした、弱々しげな少年が一人居た。髷はなく、小さな刀を帯刀し、黒色の手套を嵌めている。これが明治か――と江戸は何とも云えぬ心情になるが、明治は自信なさ気に眉を下げたまま、

「こ…こんにちは、江戸さん」
「ああ、初めまして明治」
「僕――僕」

 何かを云いたそうにはしているが、言葉が出て来ないらしい。そんな様子を見て江戸は先程までの塞がった気持ちが消え行くようで、代わりに何か別の感情が生じた。何だろうかと思った時に突然安土から頭を殴られて、江戸は驚き安土を見る。安土は不快そうに眉を吊り上げて、腕を組みながら、

「貴様も最初はこうだった」
「え……」
「不安そうに、おどおど。それを見て儂は貴様に色々教えねば、と責任感が生まれた。分るか江戸、貴様の責務が」
「――……!」
「時代なら時代らしくしっかりせい」

 江戸はそこで漸く自分に生じた感情の名を理解して、ふ、と明治に向かって微笑んだ。明治は少し驚いたようだったが、直ぐに恥ずかしそうに顔を赤くすると俯いてしまった。
 あんなにも凜として丁寧に自分に教えてくれた安土もまた、最初は厭で不安で仕方なかったのだろうか。江戸はそう考えながら、今はもう厭も不安も何もなく、只、目の前に来ている時代を受け入れる気持ちに満ちていた。江戸が手を差し出すと、明治は慌てて手套を外す。今までの時代を握っていた大きくて無骨な手と、これからの未来を握る小さな手が重なり合う。明治は小さく笑い、江戸も友愛に満ちた顔で微笑んだままだった。

「君に仕事を教えよう。後八年、どうか宜しく。」



 時代は変化を受け入れた。





ーーー


時代擬人化。前々から興味があったので…!
江戸時代は稲荷寿司がファストフード的存在だったそうです。



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