アリスさんと帰路を歩いている時、背中に何かが当たった。

 後ろを見れば、俺の少し後ろを確かに歩いていた筈のアリスさんが、離れた場所でにこやかに微笑んでいる。まさかアリスさんが何か投げたのかと思い言及しようとすれば、アリスさんは微笑んだまま右手を上げた。

「じゃあな、小鳥遊」
「え。あ」

 すると颯爽とアリスさんは角を曲がり、そのまま恐らく家に向かって帰ってしまわれた。俺は間抜けにも惚けながら、彼の消えた角をそのまま見ていた。少しして背中に何を投げられたのかが気になって、菊の紋様が描かれた金色の釦を外し軍服を脱衣した。そうして軍服の背中を見てみると、八重葎が引っ付いていた。
 八重葎。深緑色のそれを軍服から外し、しげしげと眺める。一体全体どうしてこんなものを投げて来たのだろう。多分、そこらに生えていたものだろうが、子供でもない彼が何故こんな子供の遊びのような真似をなさったのか。


 考えても解らずに、俺は軍服を再び羽織ると八重葎を持って家の方向へ足を向けた。八重葎を捨てる事も出来ず、それを口元に当てて歩きながら考える。
 そう云えば昔は楽しんでよく八重葎を投げた思い出がある。これはくっつくので、投げられた者を揶揄する歌を歌っては、何が面白いのか皆で笑う。
 折よく子供達の声が聞こえた。木履の音と共に女児と男児の仲睦まじく話すのが織り混じっていて、飴屋から買ったのだろう目出度い色をした紅白の飴を笑顔で舐めている。その前に泥んこ遊びでもしたのか彼等の着物は分け隔てなく汚れてて、女児の髪飾りはすっかり土に塗れてた。あの位の年齢なら、草を投げても不思議ではなく深く考える事もなかったろう。
 然し今頃こんな事をなさるとはとぼうっと思いに耽ると、そこで至った。そう云えば、八重葎を昔は何と呼んでいたか。


 俺はアリスさんの家に向かった。縁側に行って彼の部屋の方向に声をかけると、書物を片手にアリスさんが出て来た。黄ばんだ本の間に指を挟み或る頁で開いてる。早くも読書中であったのかアリスさんは、俺を見ると「どうした」と云うので俺は先程の八重葎を見せた。アリスさんの眉が軽微に動く。

「これを貴方が投げた意味を考えたのですが」
「…どう解釈したんだ」
「これって、惚れ草ですよね」

 くっつくから八重葎は惚れ草との呼び名がある。子供はお前に惚れただのと面白がり、笑いながらそれを背中に投げる。もしかしたらと期待を抱き来てみたが、然しアリスさんは平気の平左、大した事でもなさそうに「そうか」と云うとそれきり八重葎をじっと見つめた。
 まさか何の意味もなく投げたのではあるまいと高を括ったが、この様子ではもしや何の意味も考えもなかったのか。俺は内心で焦燥し、何が惚れ草かと忸怩たる想いすら抱いた。俺が彼を好きだから、都合よく頭がそちらばかり考えているのだろうか。
 矢張り忘れて下さい、と云おうとした時だった。何かが顔を覆う感覚と共に突然視界が真っ暗になり、次いで唇に優しく柔らかいものが重なる感触がする。それが彼の唇だと気付くのは、彼の唇が離れて暗闇も退いた後だった。俺の視界を黒くしたのは彼が手に持っていた本で、俺が目を二、三瞬かせると彼は綺麗に微笑む。それは八重葎を投げた時と同じ笑みであり、あまりの美しさに俺は彼から目を離せなかった。

「お前に惚れた惚れ草」
「え?」
「って云うよな」
「あの」
「また明日な、小鳥遊」
「あの。あっ。アリスさん」

 アリスさんは判然とした答えは云わず、笑んだまま踵を巡らせて部屋へとまた戻られた。否、これは答えはもう貰ったようなものなのだろうか。俺は自分の唇を白手套を嵌めたままの指でなぞり、感触を思い出しては赧顔する。あの彼と、唇を重ねてしまった。途端に漸愧されて、口元を右手で覆った。
 彼が見えない此処の周囲は非常に森閑としていて、風の音だけが聞こえる。果たして明日彼は、どんな顔をして俺に挨拶してくれるのだろう。




 次の日。俺は待ち切られず、自分からアリスさんの家へと向かった。昨日同様縁側へと行けば、アリスさんはそこで女児の着物を鋏で切っていた。見ると友禅縮緬のようで、お手玉を作っていらっしゃるようだ。そう云えば、エディスさんの為に凧やら竹蜻蛉やら、何かしらを作ると以前仰しゃっていた。鮮やかな色色の着物を扱う彼の手つきは手慣れてて、庭に咲く百日紅がまたその幻想的な雰囲気を助長させ、この空間そのものが割れ物の如く繊細なもののよう思えた。
 俺に気が付いたアリスさんは顔を上げると、物腰柔らかに微笑んで口を開く。

「いらっしゃい、小鳥遊」
「あ。…え、ええ」

 アリスさんは昨日の事は何も無かったかのように、俺を何時もと変わらず歓迎した。心の準備をしていた俺は拍子抜けして呆気に取られたが、このまま何も変わらず過ごすと昨日同様、手から落ちる水の如くアリスさんがするりと逃げるような気がして俺は彼の側に詰め寄った。静穏に着物を弄られていたアリスさんは些か驚いたようだったが俺は臆す事なく、距離を詰めたまま真摯に目を見つめ、吐き出すよう、或は叫ぶように気持ちをぶつける。

「お、俺も好きです!」
「………」
「……あ…。え、と」
「…。お前、そんな接ぎ穂もなく」

 あんまりにも直截過ぎたかと思わずたじろぐが、目を丸くしたアリスさんはするとくすくすと子供を見るように笑う。俺が年下だからか何なのか何処か彼は俺を子供扱いして止まないようで、彼のその余裕がまた俺を焦らせる。
 土台、彼の気持ちすらも明瞭なものではない。彼が作るお手玉のよう、俺を手玉に取って遊んでいるような気すらする。
 アリスさんは着物を置き、俺の右手を取ると白手套を外す。何をなさるのかと俺が無抵抗のままでいると、彼はその右手を徐に彼の胸の上へと置いた。俺が目を見開き耳まで赤くするとその反応が面白いのか、妍艶に笑んだまま指で薄い襯衣越しの突起をなぞらせた。その感触と彼の指に釘付けのまま微動だにせず居ると、くすり と小さな笑い声がした。

「お前、緊張し過ぎだろ」
「…え。そ、その。然し、流石に」
「襯衣越しでこれなら、直接触ったらお前、どうなるんだ」
「………え」

 アリスさんの顔を見ると、彼は俺を楽しそうな顔で変わらずじっと見ていた。彼の睫毛は矢張り長く、紅をさした訳でもない唇は綺麗な色をしている。何処か女郎のようだ――、と魅せられてたままで居ると彼は耳元へ唇を寄せた。そうして今まで聴いた事もないようなぞっとする程の艶やかな声色で、俺の倉の屋根を漏らすお積りなのか、煙管から煙を揺蕩わせるが如くそうっと囁く。

「…何なら今からしてみようか」

 そう云って彼は離れると、俺の首の後ろへ手を回す。昨日よりも更に赧顔した俺が目を瞬かせる事も出来なければ声も出せぬままで居ると、暫く試すように見ていたアリスさんが突然相好を崩し、首から手を外した。俺がそこで目を瞬かせるとアリスさんは立ち上がり、そうして置かれていた着物達を手に取る。そのままの体勢で固まる俺の顔を覗き込み、ぐしゃぐしゃと頭を乱暴に撫でてきた。

「冗談だよ」
「…えっ。あ、あの、何処から何処迄」
「さあ」

 そう笑うとアリスさんは着物を直すべく、俺を一瞥したきりその場から居なくなってしまった。俺は口を開いたまま、彼の居ない空間で何時までも残る顔の熱を感じている。まるで狐につままれた者のよう、夢とも現とも思えない。



 彼はとんでもなく俺を翻弄なさるお方であるのだと、その時重々に思い知らされた。




---

たまには小悪魔アリスも良いと思った


「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -