一軒の民家。そこは今の時間が時間であるからか、外の一帯も家の中も非常に森閑としており、加えて一家団欒で一番賑わうであろう居間すらもぼやけた茶色の灯で照らされているのみで、薄暗くて覇気が無い。
 そこの居間では、二人の青年が大きな机上を囲んでいた。家の者である二人は軍服姿だが、白色の軍服を着衣した一人は軍人で、黒色の軍服を着衣した一人は士官学校生徒だった。前髪が眉の上で切られて耳横の一房だけが多少長い軍人は鼻唄を口ずさむ程に上機嫌だが、左に泣き黒子のある生徒は反対に蒼白な顔で口元を抑えており、気分が悪そうである。
 軍人は「日本男児殺し」と達筆な字で書かれた金箔入りの日本酒の酒瓶で、机へ伏せる生徒の頭を小突いた。生徒の頭が軽微に動き、徐とした動きで顔を上げる。

「こらリデル、貴様はこの俺の弟なくせをして、酒に弱いとは何事だ。これでは軍人になってからが思いやられる」
「…俺が下戸なのではなく、兄さん、が、酒豪なんです…」
「弱音を吐くな馬鹿者!」
「………」

 そう叱咤すると軍人であり兄であるキャロルは、生徒であり弟であるリデルのお猪口へ徳利で日本酒を注ぐ。リデルの顔が引き攣る中、桜型の金箔は美しくお猪口の中で舞った。それは着飾った舞妓達が、巧笑して舞踊する姿のようだ。非常に目出度い筈なのに、その華々しき桜が己を嘲笑(わら)っているのように見えたリデルは、拒否を示すようもう一度机へ突っ伏した。

 ――小鳥遊家の次男であり、軍の中佐であるキャロルは、この正月三が日は家へと帰郷した。三男であるリデルがこの世で最も厭がり畏れるのは、恐らく鬼や妖魔ではなくて、キャロルであった。
 リデルはキャロルの前には頭が上がらずに、普段の高圧的な態度は兄の前では脆くも崩れ去るのである。キャロルは唯我独尊で、自身に対して絶対の自信を持っていて、異を唱えようものなら竹刀で、拳で、或は言葉で完膚なきまでに叩きのめす。兄弟の力の差は月鼈であった。
 そんな訳で、三男は世の中の不条理を感じながら、増えた傷と痛みと共に不満をまた一つ飲み込むのだった。

 年明け早々、今日も例に漏れる事はなく、キャロルは傍若無人に振る舞う。自分の平穏を返して貰いたい、無理矢理酒を呑まされたリデルは頭痛を催した。正月位は平和的に過ごしたかったし、欲を云うなら愛するアリスと一緒に居たかった。そもそも本来ならば居る筈だった。少なくとも、間違っても兄と過ごす羽目になろうとは考えもしなかった事だ。今年は厄年だったろうかと、リデルは頭痛を一層深いものにする。

「…アリスさんと過ごしたかった…」
「何だ、貴様が尻尾を振る奴だったか。残念だったな、アリスは女と初詣か?」
「違う! …エディス、と云うロリナ殿の口役が、熱を出したそうで」
「その看病か」

 納得したようで、キャロルは頷くと日本酒をまた呑む。実に美味しそうに呑む兄を、顔を上げぬまま視線だけを上げて見上げる。生徒の軍服よりもずっと立派で細かな金の装飾のなされた軍服の胸元は開けられ、口元はだらし無く緩んでいる。阿呆面だ、とリデルは思った。キャロルは確かに武術には長けてようが、頭の出来は良くはなく、筆記試験では底辺を泳いでいた。無論本物の馬鹿かと云えばそうでもなく、机上での勉学以外の頭の回転は悪くはなかったし、生徒の時は実技に至っては成績は飛び抜けていた。然しあの考査の悲惨な成績で、よくも入学と卒業を済ませられたとリデルはいっそ感動を覚える。自分はどちらも飛び抜けて首席なのだ、頭が弱い兄に呆れない道理は無い。
 それでも兄と闘って一度も勝てた試しが無い事も、同時に事実だった。自分の方が優秀に違いはないのにと、小鳥遊は解せぬ気持ちで充たされる。かと云って、兄を微塵も敬う気持ちがないと云えば。それはそれで嘘になった。国を守ろうと決めた時、自己を恥じながらも追い掛けた背中とは果たして誰のものだっただろう。膜が張った頭が揺れるような、不思議な感覚を覚えた。
 瓶の中で回る金箔を、今や頼れぬ目で追った。脳も回転し、酷く惚けていた。

「…アリスとやらは、男にしては美人の類だったな。中性的で線も細かったし、士官学校生徒だったら間違いなく人気の『少年』になったろうな」
「…そんな事、冗談であろうが軽々しく云わないで頂きたい…」
「それに対してお前は可愛げもなく育って。体格もがっしりで、如何にも男だ」

 酒の香りと共に、深く溜め息を吐かれる。リデルは眉を不機嫌に顰めた。何故呆れたような声を出されねばならぬのか非常に理解し難かったし、自分は自身に不満はなかった。アリスのあの容姿も些か華奢な体格も、彼だからこそなのだ、とリデルは思う。試しに自分があの体格になってみたらと想像すると、矢張りどうも違和感を払拭は出来ない。第一あの細身で、よくもまあああまでの動きが出来て力を出せたものだと、リデルは日に日に感心する。

 机上に酒瓶が置かれる音と、小さな振動が伝わる。リデルが顔を動かす前に、キャロルが立ち上がってリデルの眼前までやって来た。キャロルの動きに酔いの記しは一切見られなく、目を瞬かせるリデルの胸倉を強く掴んだ。突然の乱暴なそれにリデルの目は強く見開かれると同時、気持ち悪さが喉まで上がって来る。ぐわん、と再び脳が大きく揺れ動く独特の感覚がした。

「な、何ですか…」

 リデルが厭な顔で気分の悪さを堪えて尋ねるも、キャロルは返事をしない。暫く掴んだ胸倉を見つめたかと思うと、几帳面に留められたリデルの軍服の釦を突然外しにかかる。声を失って驚愕するリデルを余所に、菊紋様が描かれた金色の釦がまた一つ外される。
 全て開けさせられると、今度は襯衣の白蝶貝の釦へ手をかけられる。隠れた鎖骨が外気へ触れる感覚に、リデルはえも云われぬ悍ましさを覚え、激しい頭痛がする中で必死な抵抗を試みた。

「兄さん、一体何をっ」
「…改めて見ると益々可愛くない体格をしているな…」
「それはそうに決まっ、て――」

 するとキャロルは愉しむように口角を上げ、リデルの首筋へ顔を近付けて舌を這わせた。己の首筋が下から上へ舐め上げられる感触へ、リデルの身体が悍ましさで一気に震える。酒を孕んだ熱っぽい吐息がかかり、リデルの口からは恐怖の時に出す声と寸分違わぬ声が出た。

 同時、今まで堪えていた気持ち悪さが喉の奥から一気に上昇する感覚に見舞われ、リデルは焦燥して左手で口元を押さえた。然し込み上げるそれに身体は勝てず、渾身の力を持ってリデルは右手で兄の身体を突き飛ばす。そして素早く立ち上がると、左手で口元を押さえたままその場から足音を立てて一気に駆けた。居間の襖を乱暴に開け、厠へ駆け込む。
 慌ただしく居なくなったリデルにキャロルは呆気に取られたが、直ぐに厠の方面から苦しげな声と厭な音がして合点を行かせる。キャロルは口角を上げて、今頃は厠で呼吸を整えているであろうリデルを大きな声で揶揄した。

「吐くなんて失礼な奴だな!」

 数秒して、二人の姉であるテニエルが居間へやって来る。肩までの柔らかな髪をした妍麗な彼女は牡丹が描かれた鴇色の着物を見事に着こなしており、居間にキャロルが一人で居るのを視認すると、不可思議そうな顔をした。キャロルはテニエルと目が合うと、ご機嫌で目を細める。

「…リデルは何処へ?」
「姉者、よくぞ聞いてくれた。アイツは今吐いてる」
「……」
「至極苦しそうな声を出してたぞ。今頃ぜえはあなっているだろうな」

 哄笑するキャロルにテニエルは呆れ、机上へ置かれた数本の空の酒瓶を見て益々呆れて深く溜め息を吐く。敢えて沢山呑まされたに違いなかった弟へ同情心を寄せ、厠へ向かう。厠ではリデルが呼吸を整えているところであり、肩は大きく上下していた。テニエルがリデルの背中へ触れ、右手で優しく撫でる。反応したリデルへ、テニエルは右手で撫でながら云った。

「…わざわざキャロルに付き合わなくても良かったのよ」
「…俺も、拒否はしたんですが…」

 そのまま噤口したリデルに、テニエルは納得を行かせる。拒否はしたのだが、結局強制的に付き合わされたのだろう。喘ぎは段々収まって、リデルは深く息を吐く。差し出された花紙を受け取ると口を拭い、そしてもう一度溜め息を吐いた。非常に心労した様子であり、リデルの同級生はこのような疲労困憊な姿等、想像だに出来たものではないだろう。
 小さく落とされた声は痛ましく、テニエルは一層深く同情する。

「…もう厭だ…」


 背中を摩りながら、明日はリデルの好物を夕餉に出してやろう――とテニエルは決めた。





「…俺は吉だった。お前は?」
「……大凶でした」
「…。本当に出るんだな、って、ああ、気にするなよ、単なる占いなんだから」

 翌日。エディスの熱が下がったとの事で、アリスから小鳥遊家を訪問しに来てくれて小鳥遊は大層喜悦したのだが、然し初詣での御神籤の結果は非道いものだった。肩を落とす隣でアリスが慰めようと懸命に色々と云ってはみるのだが、小鳥遊は落ち込みざるを得ない。何時もなら下らないと一蹴してみせるだろうが、二日酔いしている今は格段堪える気がした。昨晩の事は覚えてはないのだが、長女であるテニエルから、昨晩悪酔いした結果、嘔吐してしまったらしい事を聞かされた。キャロルの所為だとの事で小鳥遊は酷く恨んだが、恨み言を云ってもどうせあしらわれるのは目に見えている。新年早々最悪だと思った矢先がこれなのだ、呪われているとしか思えずに、本気で厄除けを考えた。

「…かなし、小鳥遊」
「え…?」
「御神籤、貸せって」
「え、あ、す、すみません」

 心が別の場所へ浮遊していた小鳥遊ははっとして、指示されるがままアリスへ大凶と書かれた御神籤を渡す。するとアリスは自分の吉の御神籤とそれを重ねると、重ねたままで折り、丁寧に太い木の枝へ括り付けた。破れず綺麗に結ばれるとアリスは満足したようだったが、小鳥遊は意図が解らなくアリスの顔を見つめる。目が合うとアリスは相好を柔らかく崩し、小鳥遊の肩を軽く叩いた。

「…こうすれば、足して半分に割って、小吉位にはなるんじゃないか」
「え…」
「心の持ちようだろ。ほら、今日はお前の行きたい所に行ってやるから元気だせ」

 そう励ますアリスに、小鳥遊は感動して目が潤むようだった。自分の吉を半分にしてまで、気にかけてくれたのだ。欝塞とした感情は直ぐに排斥され、単純にも元気が出る。小鳥遊の顔がすっかり綻ぶとアリスも嬉しくなったのか、もう一度優しく笑顔を作った。それを見ると、例え何のくじが出ようとも、アリスが居るなら縁起はこの上なく良いものになるとすら思えた。

 小鳥遊は見えない尻尾を振り、アリスと肩を並べたまま、張り切った声色でこの間云えなかった話題を出す。今年は始まったばかりだが、最高の年だと感じた。






ーーー

【日本男児殺し】(にほんだんじころし)…云うまでもなく某酒を捩ったもの。日本男児をも殺す辛口のお酒。今回のお話では小鳥遊を殺した模様。小鳥遊を惚れ殺すアリスもまた一種の日本男児殺しと云えるとか何とか

明けましておめでとうございます。



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