アリスとクイーンは、馬が合わない。



 アリスは他人にも厳しいが、特に自分に厳しい。己を容赦なく律し、弱音は吐かず、我が儘も甘えも発する事が無い。多分損をするタイプだと思う。
 対してクイーンは素直に我が儘を吐く。女王様と揶揄される事から解るよう、己を律する事を知らない。これは得をするタイプだ。周囲は何だかんだ大切に世話をして、甘やかしてくれる。欲しいものは何だって彼の元へ。周囲は誰より先に彼の事を気にかける。そして1番なおざりにされるのは、アリスのタイプだ。イイコだから大丈夫だと、仮面を信じて後回しにされてしまう。本当は大丈夫じゃないのに。
 さて、どちらを甘やかすべきなのかは、重々承知はしている。している、のだが。



 アリスとクイーンが喧嘩した。




「また喧嘩かい?」
「煩い。俺は悪くない」

 押し問答の成れの果てだ。アリスは拗ねたようで、こちらと目も合わせずぶっきらぼうに返答する。理由なんてきっと些細な事だろう、何時もそうなのだ。アリスはそれだけで席を立ち、注文したものにも手をつけず、どうやら部屋に戻るようだった。クイーンの姿は無い。多分クイーンも、今頃は拗ねて部屋に閉じこもっているのだろう。
 この世に善悪や白黒があるのなら、その差異は歴然としているし、多分この喧嘩の白黒も判別がつき易い。どっちが折れるべきかなんて、白兎の者に尋ねたら、苦笑して満場一致を得られてしまうだろう。彼等は口を揃え、一方の名前だけを指す。
 テーブル上の冷めそうなキャラメルティー。それを持って、席を立った。同席していたグリムが困ったよう眉を下げ、薄く微笑んで尋ねる。隣のケイティは寝ている。注文されたサラダに口をつけられた気配は生憎無い。

「…持って行ってあげるのですか」
「ああ」
「アリスとクイーン、どちらへ」

 解っているくせに、敢えて聞く意味は多分無いのだろう。真っ白な陶器のカップの表面には、赤色で薔薇の模様が描かれている。キャラメルティーのカップの取っ手を持ったまま肩を竦め、自明の事実を答えた。

「…クイーンへ」





 扉越しに、クイーンと会話した。解ってはいたが、当然撥ね付けられた。この扉をノックするのは他の誰でもなくて、アリスでなければ駄目なのだと理解はしている。何を云っても「要らない」の一言で済まされる。次第に語尾に薔薇のような棘が加わった。眠れる森の美女さながら、侵入者を赦さないお城の棘を唯一刻めるのは、剣を持つ白馬の王子様のみと云う訳だ。
 せめてこれだけでも。敢えて引き際悪くそう云うと、苛立ちのまま何かを扉へ投げられた。音の重量からして多分、ピアノ椅子だ。凄まじい轟音の後は、自棄に冷徹とした空気が漂う。これは流石に引かなきゃまずいなと悟り、溜め息を聴こえぬように吐くと、今度は物覚え良くその場から下がった。
 廊下を歩きながら、視線を落とす。左手に持つキャラメルティーは、淋しそうにそのキャラメル色を揺らす。大分冷めてしまったばかりか呑んでも貰えない、その様はまるで自分の存在意義を嘆くかのようだ。





 クイーンが部屋に閉じこもってから、半日が経過した。少し長い。アリスが頑なになっているからだろう、そう思ってアリスの部屋へ向かうとアリスと廊下で擦れ違った。アリスは多少驚いて目を見開いた。アリスの右手には、すっかり冷めてしまったカルボナーラ。クイーンの1番好きな種類のパスタだ。
 アリスが折れて、今頃はお腹を空かせているであろうクイーンの部屋へ持って行ったようだ。然しそれは未だこうしてアリスが持っている。多分、クイーンも何処で和解して良いのか解らず撥ね付けてしまったのだろう。そして恐らく、アリスは折角自分が折れたのにと、自分の好意を無下にされた事に腹を立て、また喧嘩してしまったのだ。解り易い。
 早足になろうとしたアリスに、素知らぬ顔で言葉と云う銃を撃つ。

「…和解しに行ったなら、もっと優しく云ってあげたらどうだい」
「はあ?」

 アリスは眉を上げて不機嫌そうな顔を向けて来るかと思いきや、哀しそうに顔を歪めた。あ、しまった、泣きそう。そう思ったが、アリスは悲痛に顔を歪めたまま強く睨んで来る。それはまるで解って貰えない事を嘆く子供のようで、彼が普段は完璧に隠す一面だった。
 アリスとクイーンの馬が合わないのは、性格の差異の根底が一緒だからかも知れない。反発をしてしまうのだろう。甘えたいクイーンは、甘えさせてくれないアリスに業腹する。甘えたくてもそれをしないアリスは、甘えてばかりのクイーンを見て他方での不条理を感じ、同じく業腹するのだろうか。それは確かに子供の甘えだろうが、「少女」の「アリス」に大人になれとは酷だろうか。一方を赦してアリスだけを赦さないと云うのは、あんまりではあるのだ。

「俺が、これ以上折れろって云うのか、アイツが悪いんだぞ、アイツが」
「アリス」
「何だよ、お前までそう云うのかよ、そうだよな、どうせお前は、――…だし、どうせ、俺の味方なんて、」

 卑屈さを包含する彼の云ってる事は言葉にならなくて、でも痛い程に気持ちは伝わった。痛みと哀しみを吐き出す彼の唇は奮え、握った左の拳は益々力を増す。先程まで睥睨して来た顔は何物かから圧力を加えられ、何時しか俯き髪で隠れる。唇は強く噛み締められた。不条理に対する不満がまた溜まり、堆積されて行く。毒が溜まると、体内の汚染を開始する。紫色のスモッグで満たされて音もなく軋む彼は噛んだ唇を暫く噤んでいたが、やがて顔も上げず、重たい口を開いた。

「…どうせ、俺が悪いんだろ。解ってるよ、我が儘ばかりで……悪かったな」

 自分を戒める言葉を塗り重ねると、アリスはこちらの顔も見ずに横を通り過ぎた。アリスの体内の住人達は毒で殺されて、眠るように倒れ込む。あちらを立てればこちらが立たずとはまたよく云ったもので、アリスは1人で堪えながら不思議の国を歩き回る。この国には、孤独な彼を弁護してあげられる者は誰も居なくて、アリスと云う少女は裁判で処刑されてしまう。
 深層の心中と表面の言行が必ずしも一致するとは限らないと、その真実をチェシャ猫が嘯けば良いのだが、この世界のチェシャ猫は交睫して目覚めない。アリスは泣くけれど、それすら隠してまた気丈に強がってみせるのだ。アリスの足音を聴きながら、愛着心を喚起させ辛い、乾いた音だと思った。





 その夜の事だ。クイーンの部屋の方向から、怒鳴り声が聴こえてきた。部屋を出てそちらへ向かうと、アリスとクイーンが扉の前で強く怒鳴り合っていた。クイーンは自分の云う事を聞かないアリスが凄く厭で、それが癇に障るのだと以前云って来た事がある。所詮トランプだろうと指摘する少女の如く、自分へ唯一反発してくるアリスにクイーンの顔は歪められ、とうとう子供のように大きく泣き出した。するとアリスも限界だったのか、歪めた顔の右目から、今の今まで我慢していた涙を一筋ぼろりと流す。声を出しはしないけども、顔は赤く染まり切り、肩は震えていた。

「アリスの莫迦、君なんか大嫌いだ!」
「俺だってお前なんか嫌いだ!」

 泣き方にも相違があって、クイーンは解り易く泣くけども、アリスは解り辛く泣く。この光景を見たのなら、真っ先に心配されてしまうのは、当然片方だと決まっていた。
 騒ぎは広まり、部屋から顔を覗かせて様子を見る者も増えて来る。喧嘩は今に始まった事ではなかったが、それでも関心を引く。グリムも来て、隣で「どうするか」と目交ぜをして来た。どうもしなくても、多分大丈夫だった。アリスは唯一女王様から気を許された者であり、故に良く出来た人なのだ。クイーンはしゃくり上げ、途切れ途切れに云う。

「ひぅ、お、なか、空い……った…」
「………っだから、あの時、喰えって云っただろ…」

 呆れたよう吐かれたその言葉は既に怒気を孕んではなくて、アリスは自分の目元を誰にも見られないように至極自然に拭った。片方に気を取られているが故に、今の動作を見た者は多分他に居ないだろう。彼は出した涙も拭った動作も自ら丸めて破棄をして、その一連は女王様ですら認知する事が無い。どうしようもなく不器用で愚かなアリスは、頼りない躯で、今度こそその手で彼の頭を撫でてあげられるのだろう。彼は弱いが、纏う銀の鎧は完璧過ぎる程に強かった。

 この後はきっと、アリスはクイーンにまたカルボナーラを作って、クイーンはふて腐れながらもそれを素直に食べるのだ。喧嘩に終止符が打たれ、グリムは仕方がないとでも云うように、隣で苦笑すると小さく肩を竦めた。彼等の喧嘩はこれからも絶えないし、それでもこうして仲直りが出来るなら、喧嘩を幾らしても良い筈に違いなかった。例えそれが非生産的でも、或は只の迫害でも、一方的な弾圧だとしても。

 ――アリスだって何だかんだ、小さな女王様に弱い。

 然し女王様を満足に甘えさせてあげられるのが彼であるのなら、果たして彼を誰が甘やかしてあげるのだろう。全てを持つ女王様への献身を余儀なくされてしまう何もないアリスへは、甘やかしは不要なのだろうか。


「…もう、泣くなよ……」


 喧嘩で心がぼろぼろになったのは、他でもなく貴方。 それでもアリスは右手を動かして、宥めるよう小さなクイーンの頭を優しく撫でた。





ーーー


彼が泣いた理由を僕が知る事は無い




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