ざぷ、と重くてそれでいて軽快な音が 俺の耳を刺激して 貴方の1300グラムの脳髄を  じわじわと犯して行く。




 ざぱ、と潮水の音が白の空間に反響する。軍服が濡れるのを厭わずに、俺はアリスさんの頬を持つだけの行動に、全神経を傾ける。
 眼前に存在する、壁に埋め込まれた巨大な鏡を見ると、鏡に映るは俺の酷く冷徹な顔。そして、俺から両頬を支えられている、アリスさんの酷く疲労なさったお顔。否、顔は正しくは解らない。然し、黒の目隠しで隠されていない顔の下の部分に在る口は、
 外れたように力無く小さく開かれて、端からは潮水がぽとぽと、と桶の上へ落ちて波紋を作る。桶の中は潮水で満たされているが故、なみなみと揺れ、余剰の潮水は溢れて外へ零れた。

「……もう一回、」

 俺は呟き、再びアリスさんのお顔を桶の中へと突っ込んだ。何度この行為を繰り返した事だろう。冷水である潮水は、俺の手へにも冷たさを訴える。ならば、その酷く冷たい中へ顔を強制で入れられるアリスさんは、恐らく大層苦しいのだろう。俺はされた事がないから、実際は解らないがそれでもそれは事実として解る。
 髪が水中で浮かび、頭は枯れゆく百合のよう元気なく垂れている。俺はそれを無感情なまま眺め、少ししてざぱあ、と音を立てて頭を起こす。空気と再会を果たした口の端からはまた潮水が零れる。行為と痛みは河岸へ釣られる魚のよう増え行くが、この意味は増える事はない。河原に落ちた石ころを幾ら磨いても金剛石にはならぬよう、抑が意味自体が零である。

 アリスさんが、この行為への抵抗を止めたのは何時からだったか。後ろで縄で結わえられた両手を見て、夢現でそう思う。擦れて椿のよう赤く化した手首は痛々しく、然しその痛みは俺に同情と云うごく一般的な感情を寄越さない。
 アリスさんの喉からは、腹立たしげで拒否を強く望むようなそんな声が漏れる事は最早無い。只、ひゅうひゅうと壁に穴が開いた、すき間風のような音が鳴るだけだった。多分、その吐かれる息は雪女の出す吹雪のよう冷たさを孕んでいるのだろう。

 桶から救出したお顔の頬と俺の頬とを合わせると冷たくて、彼の表面だけの冷たさが俺の身体へ伝わる。軽微に震える身体と、冷ややかな呼吸を全身で聴く。

「苦しいですか。でしょうね、苦しいに決まってる」

 返事は無い。第一が不要だ。彼もそれを解っているからこそ、無抵抗に口の両端から潮水を零す。
 その生産性の無い潮水は正しくこの行為を映すようですか、それとも一方通行で決して交わる事の無い俺の想いを現すようですか。

 ぽた、。髪の先から、太陽の光によって溶けゆく氷柱のよう水が落ちて行く。然し彼の周囲には太陽は昇らない。昇らせない。雨か或は、淀んだ曇りの鬱々とした悪天候を、俺は続ける。この行為は未だ飽きを知らない。例え意味が無くとも、真実は産まないどころか壊すだけの愚行でも。

「…でも、止めませんよ」


 この行為を続けても、
 花は咲かない。実は熟らない。太陽は出ない。時鳥は鳴かない。そして例えば、貴方は俺を好きになる事は無い。
 代わりに花と果実は枯れ、月が永遠に世界を照らし、卵は割れて貴方も朽ち果てる。潮水へ救済を求めても、笑って瞬く星自体が無いから水面に星の影が出来る事は無い。
 それでも俺は止めない。他に知らない。今直ぐこの断絶された白の空間に血飛沫を飛ばすべきなのか、鏡の破片で喉を掻っ切るべきなのか、不規則に鳴る愛する人の喉を愛撫するべきなのか、顎へと伝う潮水を嫌らしく舐め取るべきなのか、為す術が解らない。ぶら提灯を片手に迷路に迷った盲人のようだ。
 俺は濡れたアリスさんの頬を、人差し指でなぞるよう撫でる。冷たくて、寒くて、凍(い)たそうだ。きっと黒曜石の目隠しで隠された奥の双眸から、別の塩水を流したくて堪らない程の苦痛は既にあるだろう。
 それでも俺は、道理を知らぬ子鬼に成ろう。欲する人間が人間の意思で手に入るまで、  一途に駄々を捏ね、大仰に掻き暮らす。


「だって、俺の愛って。重いですから」





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