休日の昼間の事である。ある一人の女性が、涙を零しながらラビの元へとやって来た。黒のロングのワンピースと、黒薔薇の刺繍が為された白のエプロンの恰好をした女性の頭には、リボンの付いた高級そうな作りのシニョンキャップが結わえられている。詰り、彼女は白兎内のメイドである。赤毛の彼女は己の編み上げ上げ底ブーツを涙で溶かすかのように、俯いたまま幼児のよう涙を落とし続けている。彼女の涙が金であったなら、さぞ立派な豪邸が建つ事だろう。
 ラビは最初こそその女性の様子に驚きはしたものの、彼女の手中のものに気が付くと事態が推断出来た。彼女が赤ん坊を抱くように手に抱えているクリーム色のシャツは、クイーンの物である。そうしてそのシャツのジャボの部分には、濁ったような澄んだような、少し不思議な深緑色のインクがべったりと付着していた。それはまるで、一人のメイドが洗濯中に誤って主人の衣服にインクを零してしまったような汚れである。ラビは彼女を落ち着かせようと試みる事にした。

「…クイーンのシャツを、誤って汚してしまった。…で、良いのかな」
「うっ、ひぅっく、は、はひっ…」

 俯く仕種が仕事である人形のよう、彼女は己の首を何度も激しく縦へ振る。涙腺が破壊されたよう涙をとめどなく溢れさせている痛ましい彼女の顔を見て、ラビは眉を下げた。普段なら恐らくクイーンは、シャツを汚された位で業腹する訳がなかったし、謝罪すれば赦免して事もなげにシャツをごみ箱へ投げてみせてくれるだろう。だが、そのシャツがシャツだった。運の悪さを歎くべきか、寧ろそのシャツを汚したある意味での低確率へ驚くべきかは解らぬが、そのシャツは偶然にも、アリスが似合うと云った事のある唯一のシャツであった。
 恐らくアリスはクイーンの持つ全ての服が似合うと思っているかも知れないし、普段は気恥ずかしくて云ってないだけかも知れない。然し確かに、アリスがクイーンへ似合うと告げたのはそのシャツである。滅多に云わぬからこそ有り難いのか、クイーンはつっけんどんな態度をしながらも、実は嬉しそうに顔を綻ばせてそのシャツを大切にしていたのを、ラビは重々承知していた。想う相手から褒められては、誰もが喜悦はするだろう。
 その事実は知らないが、然し彼女は大変な事をしてしまったと自分の失態を恐れている。そして自分で主人に直接云う勇気もなく、困り果て、懊悩の末、ラビの元へ相談をしに来たのだった。まさか彼女へ「頑張れ」等と無責任な言葉だけを軽く投げ掛ける訳もなく、しかもラビは生憎解決策は1つしか思い浮かばなかった。彼女へ左手を差し出す。

「…本官から上手く云っておこう。心配しなくて良い」
「で、も、ラビ、様っ…わ、悪ひ、れふっ…うっ」
「大丈夫さ」

 安心させるよう笑み右手で彼女の頭を撫でる。すると双眸を赤くさせた彼女は顔を歪め、別の意味で再び泣きじゃくるものだからラビは困り果てる。暫く彼女は嗚咽を漏らしたが、ハンカチを与えて頭を撫で続けると漸く落ち着いたようで、最後は泣き腫らした顔でラビの部屋を出て行った。ラビは1人になると、インクがこれ以上なく染み込んだシャツへと視線を落とす。また派手に零されたもので、洗濯したとて落ちるものではないだろう。落ちる代物であるならば、彼女がとうに落としてる。
 ラビは襟のタグを見てみたが、予想したようそれは仕立て屋が作ったシャツであるようで、同じものを手に入れる事は無理そうだ。仕立て屋へ内緒で注文するにしろ、生地が新しくなっているのにクイーンが気が付かない訳もないだろうし、仕立て屋に口止めしたってそれも危なく思えた。素直に白状するのが賢明な判断だ。但し、彼女の事は秘密にして。
 ラビは左手にシャツを持ち、部屋を出ようと自室の鍵を手に持った。部屋を出る直前、ベッド脇の鏡に映る自身の姿が目に入り、ラビは止まって小さく溜め息を吐く。祈るような小さな願望を呟いた。

「…死ななければ良いが」






「すると、何。君が、僕のシャツにインクを零したとでも云うの」
「ああ。すまない、不注意だった」

 深緑色から侵食されたシャツを見たクイーンは、不機嫌さを露にして綺麗な眉を顰めてみせる。自身の部屋の前に佇立するラビと目を合わせると、小さな桃色の唇を開いた。

「…まあ、中にでも入ってよ。此処で立ち話もなんでしょう」
「あ、いや――」
「嫌なの」

 有無を云わさぬ高踏的な態度でそう云われ、ラビは口を噤み促されるままクイーンの部屋へと入る。ラビが入るとクイーンは扉を閉め、部屋の真ん中の椅子に座るよう指示をした。椅子が2脚あるそこには丸テーブルが存在し、机上にはジャムの瓶を幾つか載せたスタンドが置かれている。ラビは片方へ腰をかけ、室内をさりげなく見渡した。天蓋つきの巨大なベッド、豪奢な金のシャンデリア、婦人の描かれたサイン入りの絵画。自分の部屋とは違う立派な貴族の部屋である。ラビの前の椅子にクイーンも腰を掛け、精密なビスクドールのような容貌の少年は、アイホール内のエメラルドの瞳でラビを淡々と見据えた。

「どうして嘘を吐くの」
「嘘?」
「ああそう、白を切る訳。へえ、君ってば良い度胸をしているね」

 ラビは自分の吐いた虚言が表に出てしまう事がないように、至って平静な態度を装った。この様子では、お気に入りであるシャツが汚れたどうこうと云うよりは、ラビが嘘を吐いた事こそお気に召さないでいるらしい。まさかそちらへお咎めを喰らうとは予想だにしておらず、内心でしまったとも思ったが、然し未だ自分が嘘を吐いたと云える決め手が無い。何より前言を撤回する訳には行かない。ラビは理解出来ないと云ったよう、小さく首を傾げてみせた。そのような惚けるラビの様子を見て、クイーンは益々不機嫌そうな顔をする。

「君の」
「ああ」
「そういうところが、僕は嫌いだな。君は知らないようだけど、」
「……何が」
「この色のインクは、僕が、メイド限定で渡した特注のインクなんだよ」

 ラビの左目が小さく見開かれる。虚言を更に上塗るべく直ぐさま次の言葉を発そうとするも、クイーンは立て続けに言葉を投げる。君の愛用のインクはインディゴだよね、ああ恋人であるメイドから貰ったとかは無しだよ、僕はこの特注のインクは何人にも譲渡しないように云っているんだよ、何せ『白兎』としての特別なインクだからねと。
 続けざまに行く手を遮るような言葉を浴びせられ、ラビは一種の焦燥の元で閉口する。然し頭の中ではどう上手く切り抜けるかで様々な考えが既に素早く交錯していた。好みのメイドと彼女の部屋で関係を持っただとか、この際言い訳は何でも良かった。兎角切り抜けられれば良かったし、口裏も合わせてはくれるだろう。然しラビが何かを云う前に、口元で笑みを浮かべたクイーンが椅子から立ち上がる。そうしてラビの頬へ精巧な形の手を沿えて、立派な巧笑を浮かべた。その威圧感にラビは動揺し、内心で恐れ椅子を無意識に引く。然しクイーンは逃がさぬよう、手の力を強くした。

「次は何の嘘を吐く積り」
「…っ…」
「君の主人は僕でしょう」

 ねえ、と小さな親指を唇へ沿え、鷹揚な動作でそれを口内へと入れて行く。無言のままで戦くラビを嘲笑し、吐き捨てるように女王は云う。従者である臆病な白兎は他の誰でもなく、薔薇園の女王に絶対服従すべきであると。仕えるべくは女王であり、ましてやメイドの肩を持つ等は論外だ。嗚呼、鳥と歌うよう女王は愉快げに歎きを見せる。
 ――だから君って、

「役立たず」






 きぃ、きぃ、きぃ。
 錆び付いた鉄のブランコのような音をさせ、クイーンの部屋の扉が開閉する。通路の絨毯を踏みながら自室へ戻ろうとしていたアリスは、クイーンの部屋の扉が薄く開いたままであるのに気が付いた。その無用心さに眉を顰め、訝しがって視線を中へと遣る。中の電気は点いてない。閉め忘れだろうかと、アリスは足をそちらへ向けて中を覗いた。
 クイーンの姿が見える。然し様子が可笑しい。身を乗り出して露となった光景に、アリスは大きく目を見開いた。クイーンの足元には、死体のように横たわるラビの姿がある。ラビは微動だにせず、力無く身体を血みどろの床へと着けている。クイーンが頭を革靴の底で蹂躙しても、動く気配はなかった。アリスは佇む己の全身が冷えて行き、顔が蒼白になるのが解る。その信じられぬ光景に、口は開いたまま閉じる事はない。無意識で扉に手をやって、音を立てて扉を開ける。顔を上げたクイーンは動じた様もなく、アリスは震える声で何とかそれを云う。

「――何、してる、んだ」

 ああ、とクイーンは全くもって自然に肩を竦める。右手のリードを上へ引っ張るとラビの首に付けられた真っ赤な首輪も引っ張られ、小さく呻いたラビの頭は否応なしに軽微に擡げさせられた。口の端や額からは血が垂れて、椿のよう頭は弱く垂れ下がる。クイーンの左手には朱殷色の血が付着したステッキが存在し、それでラビが何度か殴打された事は誰が見ても明白であろう。頭を踏み付けていた足を動かし脇腹を思い切り蹴ると、ラビが鋭く息を呑む音がした。荒げられる呼吸を聞き、折れているのかと、アリスは信じられず自分の身体が震えゆくのを理解する。

 クイーンは可愛らしく、首をこてんと傾げてアリスを見た。何って――とソプラノの声で囁くように云う。 彼の妖精のような気高き声色は、悪魔のものか、死刑執行人のものか。


「犬の、躾?」



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