ある子供向けのお話です。広くて清らかな海の何処かで、小さなお魚さんの兄弟達が仲良く暮らしておりました。





 ――それは混じり気のない清澄な水に鶸色の絵の具を一滴垂らして波紋を作るでもなく、透明なビイドロへ筆の先で触れる程度の水色の点を描くでもなくて、完成しかけの水墨画に、血飛沫を業腹のまま飛ばすような。
 そんな劇的で一瞬の、呼吸すら奪う出来事であった。


「昔読んだ絵本に、大層強い魚が出て来たのです」

 小鳥遊が沈吟した。それはか細くて消え入りそうな声であったものの、小さな室内にはよく響く。部屋には小鳥遊とアリスの二人きりだけであり、畳の上には書簡や紙切り用の小刀、数本の筆が散乱していた。アリスは切れた右の頬から出る一筋の朱殷色の血を拭う事もなく、無言のまま小鳥遊を見つめた。両手で己の顔を覆う小鳥遊の左手には血の付着した小刀が存在し、小鳥遊が力を少しでも抜けば落ちるような、曖昧で脆弱な平衡感覚でそれは握られていた。
 うん。アリスが小さく呟いて返すと、小鳥遊は唇を震わせて続けた。

「彼は、異端でした。色が違うものなので、他の魚は彼を嘲笑(わら)いました」
「――うん」
「仲間ではないと、云うのです。仲間外れにしてやろうと、残酷に嘲笑う」

彼等は皆赤くありました。然し、その中で一匹だけが黒くありました。異端である彼はそれでも、兄弟達から可笑しな奴だと排斥される事はありませんでした。色なんて関係が無い、と兄弟は云うのです。兄弟は仲良く海を悠々と泳いでおりました。

 アリスの右の頬から血が落ち、畳を鮮明に犯す。畳の一点は机上から落ちて零れた墨汁で塗れてて、酷く滲んだその惨状は、まるで畳が涙を流しているかのようであった。墨汁の上には、壁に掛けられていた状差しが落ちている。黒色の軍服から出る、平生の白手套が無い剥き出しの両手は震え、肩も震えている事にアリスは気が付いた。
 うん。アリスは続きを促すでもなく、止めるでも咎めるでも水を差すでもなく、肯定でも否定でもなく、只真摯に、包み込むような声色でそれだけを云う。

然しそんな或る日の事、何と巨大な魚が現れて魚の兄弟達を食べてしまうのです! 惨劇の後、泳ぎの速さに自信のある黒だけが生き残りました。

「強いとは」

 相手から反駁を望むでも、同意を望むでもなしに、吐き出すよう小さく独り言つ。アリスが小鳥遊の左手に触れて手を包むようにすると、怯えたように震えた左手からは小刀が抜けた。アリスの血が付着したその小刀は他と等しく重力に従順で、畳の上へ乾いた音を立てて落ちる。小鳥遊は顔を上げようとしたようであったが、思い止めたよう頭(こうべ)を一層深く下げた。自責の念に苛まれているように見えたそれに、アリスは顔を軽微に歪める。発すべき言葉が分らず、口を噤んだまま次の言葉を待つ。

孤独に陥りながらも、兄弟を喪った(うしなった)哀しみを堪えながら黒は海を泳ぎます。海の中の綺麗なものや不思議なものを見て行く内、黒は元気を取り戻します。そうして岩影に隠れている沢山の仲間を見付けました。

「強いとは、力で相手を制する事では、ないのでしょうか」
「…」
「その魚は、彼等を憎むではなくて、然も自分の異端を恨むではなくて――、彼は、」
「…うん」
「彼の異端を使って、他の魚を、助けたのです。彼は以来歓迎された。それこそが真の強さだと云うのなら、」

 小鳥遊が咳き込んだ。右手で口元を押さえ苦しがる小鳥遊に、アリスは倉皇して彼の身体を支えるよう強く抱きしめる。左手で背中を摩る内、小鳥遊は顔をアリスの肩へ埋めた。思うに、彼は不器用で、子供で、どうしようもなく必死だ。それが分ってしまったアリスは彼を詰り謗る事も出来ず、かと云って安い慰めも出来ない気がした。切られた右の頬が痛みを訴え、身体を重ねた彼からも痛みが訴えられているかのようだ。拍動が、呼吸の音が、生きるにおける凡てが、稚児のよう必死に助けを訴えて求めている。それを助けられるのだろうか、アリスは目を少しだけ伏せた。

黒は彼等に仲間に入れてくれるよう交渉します。
――然し彼等は、黒に凄まじい剣幕で拒否します。お前は汚い黒じゃないか、どうしてお前を仲間に出来ると云うのだ! 仲間外れなら大歓迎でしてやるがね、そう云うと今度は嘲笑(わら)います。


「ならば、俺は弱いのでしょうか」

 アリスの肩に、水が滲んだ。そうと分らせぬよう声にも一切出ていないが、涙が零れたのだと分る。嗚咽を漏らす事がなければ激しい慟哭とは対極にあるであろうそれは正に自然に出たと形容すれば正しくて、泣くのは身体か、心か。水は波紋を描くよう浸透し、広がり、じわじわと滲む。懊悩して何もかもが分らなくなったなら、或は今迄縋るものが虚偽か狂愚でしかなかったとするのなら、後はどうしろと云うのだろう。迷宮をさ迷い陥穽に落ちた人間の、取るべき行動は何であろう。

黒は哀しくなりました。今日は交渉しても無駄だろう、黒が帰ろうとしたその時です。巨大な魚の影が現れて、魚達は一斉に怖がりました。どうやら岩影に隠れている理由は、巨大な魚が怖いからであるようです。

「俺は、貴方を傷付けたくないのに、傷付けてしまうのです。もっと上手くしたくとも、無理で。どうして、傷付けてしまうのでしょう」
「小鳥遊…」
「俺は、鞘の無い刀のようなものでしょうか。鞘がないと生きられないのに、俺は鞘がなくて、そして傷付けて、」

 嫌われて。
 最後の言葉が震え、掠れた。アリスは回した両手に力を込め、一層強く抱きしめる。アリスの髪が小鳥遊の首筋に触れ、呼吸の音だけでなく、頭の中の考え迄も伝わってしまいそうな距離なのに、だのにどうしてか遠く感じて、その距離がありもしない隔たりを生む。その距離を怖がる、その距離は埋まらない。何時まで経っても不毛でしかないその繰り返しを、どうしたら良いのか。
 アリスは空気に問うように、息を小さく吐いた。

そこで、黒は皆が一丸となって大きな魚のふりをする事を思い付きます。自分の黒を目に見立てれば良いと提案します。魚達は悩んだようでしたが、背に腹は代えられぬ、と実行する事にしました。そうして巨大な魚を追い払えた時、魚達は黒を初めて歓迎しました。以来黒は仲間達と一緒です。

「なら、俺が鞘になるよ」

 小鳥遊が顔を動かした。目が合って、アリスは小鳥遊の左の目元を拭う。初めて見る彼の涙だが、左目だけから流れるそれは綺麗な線を描き、小鳥遊の左目を微かに赤くさせた。涙が付いた右手の箇所は麻痺を起こすかのようで、今すぐ動かなくなっても何ら可笑しくはなさそうだった。唇を動かして、もう一度云う。

「俺が、お前の鞘になろう」
「……本気で仰しゃってるんですか」
「俺が嘘を吐くだろうか」
「正気ですか。こんな、切られてまで」

 小鳥遊は左手を伸ばし、アリスの右の頬の傷口を親指で乱暴に擦る。アリスは顔を顰め、目を反射的に瞑って「っ」と小さく漏らした。それでも小鳥遊は左の指を止めず、傷口を何度も擦り、突くように人差し指を中へ割り入れて肉へと爪を強く立てる。「あ゛」、と呻いて嫌がるアリスに厭わずに激しく何度か弄ると、小鳥遊の左の第一関節が赤く染まり、爪の間に血がこびりついた。アリスの右目から一筋の涙が零れ、身体が震える。一抹の希望を抱き縋るように見るアリスの目を一瞥もしない。
 小鳥遊は顔を近付けて、今度はアリスの傷口を舐めた。舌を這わせ、わざとらしく熱い吐息を漏らし、何度も敢えて痛がるよう執拗に中を強く舐め回す。滲む血を全て吸い、肉を根こそぎ喰らうかのようだ。攻撃的な荒々しい唾液の音は全てを虐ぐようで、刔られるような激痛にアリスの肩が跳ねた。

「や、ぅ…痛、たか、なっぁ」
「…黙れ」
「! ……っ…」

 悲痛な声を無視をして、小鳥遊は唾液を傷口に摩り込ませる。嫌だ、の声は出る前に自身の戒めで排除され、唇を強く噛み締めて耐えるアリスの左目からも涙が落ちる。
 刹那、小鳥遊はアリスを打ち付けるよう畳の上へ押し倒した。組み敷かれたアリスは涙で潤んだ双眸で小鳥遊を見上げ、小鳥遊はアリスを無表情で見下ろす。血の付着した左手で一気に首を絞めて喉頭隆起を親指で潰すように強く押すと、アリスは激しく咳き込んだ。そのまま殺すかのよう見えた左手の力を緩めて手を離し、肩で息をするアリスへ「は、」と吐き捨てるような非難じみた、或は自嘲気味な嘲笑を短く漏らす。

このお話には、二つの要素が見受けられる。一つは、戦から逃げた臆病な者には帰る場所は到底無いと云う事だ。黒は最初から戦死すれば良かったものを、敵に向かわず逃げた。だから嘲笑(わら)われ、仲間からのけ者にされたのだ。

「貴方が、鞘ですか。全ての俺を理解して、包めると云うのですか」
「……」
「例えば、俺が、貴方を好きで、貴方を抱きたいと、犯したいと、凌辱したいと云っても、貴方は良いよと、云ってくれるのですか」

 傷口を虐められただけで、泣くくせに。

 怨みがましいその言葉に、アリスは眉を下げた。ごめんと謝ると、小鳥遊は顔を歪める。こんな事がしたいのではないのです、貴方を責めて困らせたい訳ではないのです。懺悔するよう呟く小鳥遊に、アリスは首を横に振る。そうして自分の傷口に己の右手を持って来て、躊躇せず肉へ爪を立てた。目を見開く小鳥遊の前で、無理矢理傷口を広げるよう何度も強引に中の指を動かす。ぐち、と嫌な音を伴う機械的な動きに小鳥遊は恐ろしくなって、狼狽してアリスの右手首を掴んで動きをやめさせた。人差し指の血が畳の上へと滴る。驚愕し理解出来ぬ不可解な顔をしたままでアリスを見ていると、アリスは淡々としたままで、左手で小鳥遊の頬に触れて優しく撫でた。

もう一つは、そのような者にも汚名挽回の機会は与えられると云うものだ。今度こそ戦うのなら、そしてもし彼が賢くあるのなら、栄誉も思うまま貰えるだろう。もし何もしないなら、彼は一生侮蔑され、孤独に陥るだけだろう。

「泣いて、悪かった。もう泣かない」
「……アリス、さ、ん」
「抱いて…良いよ」

 アリスは下ろした左手で、自分の襟の釦を外した。アリスの傷口からは血が酷く滲み、乱暴された傷口自体が潰れた柘榴のようになっていた。頑強な意志を見せるかのような目は鋭く小鳥遊を捉え、掴んだ右手からは許しを示すよう、全ての力が抜けた。
 小鳥遊は自分の軽忽さに気付いたが、それは今となってはどうしようもないものだった。悩んだ末、アリスの左の頬に触れる。全て受け止めようと目を逸らさず見上げて来るアリスに(ああ、だからこの人は)と小鳥遊は哀しくなり、唇に唇を落とした。重ねて触れ合った唇が媒体となり、相手の熱が溶けるように伝わる。どちらからともなく絡めた舌には、鉄の苦々しい味が広まった。

このお話は本来は生き残りの者へ救済を与えるような『戦後文学』を、今あるべき形として直したものだと論される。



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小さな賢い魚の話を幾らか変えたような、大日本帝国の絵本のお話。小鳥遊君お誕生日お目出度う小説でした。



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