『愛の告白』ジャバウォックとグリム




 補聴器の性能が悪いのではない。それでも、補聴器越しの音色は何処かしら冷たく思えた。



 グリムの部屋から頻繁に彼の弾くピアノの音色が聴こえて来る事は、白兎の者なら誰でも知っている。ある者はあの貴族の音色をこうして聴けるなんてと喜ぶし、ある者は足を止めて暫し世界に魅了される。皆は皆、彼がピアニストとしてどうして世間に出ないのか、不思議で仕方ないようだ。彼がそうしない理由とは、クイーンとラビと、ジャバウォックしか知らないだろう。彼はピアノよりも、愚かにも一人の人間を選んだ。
 グリムの部屋の外の壁に寄り掛かりながら、ジャバウォックは思う。彼が弾くピアノとは、ショパンが1番合うだろうと。バッハもベートーヴェンもモーツァルトも、リストもドビュッシーも実に綺麗だ。それでも1番ショパンが好きだと思えるのは、その美しき曲との調和が為せる業かと考えるのは、惚れた欲目なのか単なる事実なのか。

 扉をノックはしない。扉と云う壁と補聴器と云う壁の二重の壁を隔て、ジャバウォックは音を体感する。何時になろうと色褪せぬその音色は夜中に星が瞬くような、或は砂漠の泉がさらさらと流れるような、或はピンクの衣装を着たバレリーナが踊るような、或は妖精が森で遊ぶような。目を瞑ると様々な情景が想起され、富んだ世界が両手を広げて観客を親密に迎え入れる。それは幻想的なサーカスのようだし、趣味が良くて決して堕落する事はなく、悪趣味なフリークショーとは真反対のきらびやかな世界だった。

 有名過ぎる幻想即興曲が響く中、ジャバウォックは補聴器を外してみる。音はシャット・ダウンされ、音色は消えて幕が下りる。華やかな世界は直ぐ手が届かなくなり、燦然たる世界の住人は別れを告げる暇もなく逃げ去った。要するに世界はそんなものだったし、人とは単簡に裏切られるものなのだ。
 補聴器を嵌めると再び幕は開け、世界の住人が自由に遊び回る。その世界は誰をも歓迎するし、然し一面では特定の者を拒絶した。


 音が止む前に、ジャバウォックは後ろに持っていた薔薇の花束を扉の横へ置く。そうして革靴を動かし音もなく部屋の側から去った。
 暫くしてグリムが扉を開けると、扉の横へ薔薇の花束が置かれているのに気が付いた。ひしめき合う赤色達を拾うと、花束の真ん中のカードには『貴方の一ファンです』と綺麗な字のフランス語が書かれている。本数を数えると、36本。その数字の意味するものは、フランス人であるグリムには直ぐに解った。尊敬を表すなら、白薔薇でも贈れば良かったろう。それでも36本の赤薔薇を贈るのは、生憎一人しか心当たりがない。

 部屋に戻り、扉を閉めた。丁度萎れて来た薔薇達を花瓶から取り、新たな薔薇をまた挿す。ふっくらとした白色の陶器の花瓶に花はよく映えて、部屋と見る者の心を鮮やかにするようだ。
 カードを両手で持ち、それを破こうと力を入れる。それでも両手の力は入らずに、破く手前で思い留まる。薔薇には罪もなく、捨てるのは忍びない。ではカードには罪があるのだろうか。――ファンと書かれた文字には、少なくとも下心はあるまい。
 これで『愛してる』とでも書かれていたら躊躇なく破く事も出来ように、薔薇で愛を語る一方カードで尊敬を語るのは狡猾な彼が聡く考えた所業であろうか。グリムは結局破けも捨ても出来なくて、仕方なくデスクの引き出しの中へカードを入れた。日頃は愛を惜しみなく堂々と語るくせに、こうして名乗りもなく贈られてはどう反応して良いものか。

 彼に振り回されている、とグリムは首を横に振る。心を乱すのはそれだけ意識している証拠だ、平常心で行動しようとピアノの上のメトロノームを手に取った。然し矢張り心が惑わされていたのだろう、メトロノームが手から落ちて床に大きな音を立てて落ちた。蓋は割れ、振り子が変なリズムで動く。多分もう狂ってしまったろう、新しいのを買わなければとグリムは腰を屈めてメトロノームに触れた。

 ――果たして狂ったのは何だろう。


 36本の薔薇の花束は、愛の告白を意味する。





ーーー


『角砂糖7個分』帽子屋組とラビ





 魂の重さは、21グラムだそうだ。

「魂は何処へ行くのだろうとか、その人自身が在るのは胸か脳かと議論するより、こうして数値化した方が未だ良く思えますよね」
「下らないな。直ぐそうして上辺の数字に囚われるなんて、エンプソンはだから救えないんだ」

 ラビの眼前で、帽子屋とエンプソンはマホガニーの机を力強く叩きながら、魂を数値化する事について激しく議論を交わす。炎上する彼等を左目で一瞥し、長く時間がかかりそうな事を悟るとラビは、客人用の広々とした本革のソファーに深く寄り掛かる。忘却されたかのよう机上に放置された天秤が表紙絵の一冊の文庫本がどうやら皮切りになったらしい、ラビがクイーンの注文した、人柱を象ったロッドを受け取るのは、未だ先になりそうだ。
 ラビはエンプソンが出してくれたホットココアの中に、シュガーバスケットの中から角砂糖を7個程を取って入れた。色は淡く変質し、立ち込める湯気の香りは益々甘くなる。獅子の飾りが付いたティースプーンを左手で持ち、薬を煮詰める童話の魔女のよう、溶け切ってくれるかも謎なその砂糖を混ぜる。カップの下で、ざりざりと厭な音がした。
 帽子屋は哲学的な一方で、理系のエンプソンは自然科学的な話をする。彼等の馬は中々合わなくて、こうして口論をする事は珍しくはない。それは帽子屋のオフィスに滅多に来る事がないラビでさえ、重々承知をしている。そして他者が見る限り、彼女が結局何時も勝つようだ。彼女は揚げ足を取るのが上手く、盲点を突き、「カガク」も熟知しているようで、そちらの観点から責め立てるのでエンプソンが負ける羽目になっている。実力派の彼女は相当な知識もあり、口が実に達者なので、エンプソンが敵うのは未だ先の話なんだろう。カップに口をつけると、彼等は同時にラビを見た。

「ラビ、ラビはどう思う!」
「そうです、ラビさんはどうですか!」

 矛先が来てしまったラビは、そんな事を云われても困り果てる他が無く、多少返答に詰まる。21グラム、その数値を改めて考えると、それはそう云えば3グラムの角砂糖7個分である。ラビが入れた角砂糖は丁度魂の重さらしく、ラビは自分の手元のカップを見た。生命を営む為の中枢は、案外軽いな、と思う。然しそれはあくまで重量の問題で、質はまた別だった。そしてひっくり返せば質がどうであれ、重量自体は不変なのだ。
 ラビは2人を手招きした。すると2人は不思議そうな顔をして、それでもラビの方へ寄る。ラビは先ずは彼女にカップを差し出すと、それを呑むように示唆した。彼女は何故呑まねばならぬのかよく解らないようだったが、指示された通りカップのココアを一口呑んだ。そして刹那、素早くカップを口から離す。

「あ、甘っ!」

 舌を出してカップを返して来る彼女からカップをラビは受け取ると、今度はそれをエンプソンに渡す。そもそもがココアに砂糖を入れるだなんてナンセンスだと呆れ果てる彼女の横に佇立する彼も厭そうな顔をしたのだが、恐る恐るカップを受け取ると、それを恐々口に含んだ。そして直ぐに彼女と全く同じ所業で、カップを口から離す。

「ラビさん、これ、一体幾つ入れたんですか…!」
「3グラム掛ける7」
「……21グラム…」

 帽子屋は弾かれたよう結果を沈吟した。たらい回しされたカップをラビは利き腕である左手で持つと、それを大様な様で呑む。唇を離すと緩やかな笑みを作り、正直な考えを吐露した。――畢竟、アリストテレスも中庸の良さを唱えたよう、偏り過ぎると良くはないし、どちらか一方に固執するのも宜しくはないと云う事だ。

「事実として21グラムと云う数値があっても良いとは思うが、数字にすると軽く思える21グラムでも、実際は数値では計れない中身があるんじゃないだろうか」

 よって、そのどちらも真理あるし、どちらかが欠けては真理ではない。
 実はこの答えはどちらだとの問いからは逃げており、確固たる答えと呼べるものでもないだろう。それでもその答えで毒気が抜かれたのかはたまた満足が行ったのか。帽子屋とエンプソンは左右で異なるだけのお揃いの目を見合わせて、そして同時に声を出して笑った。云われてみれば至極当然な事である。当然の事態を無視した机上の空論は、何とも馬鹿馬鹿しいではないか。
 それよりも多分、談笑して言葉遊びをした方が余程有意義ではあるのだろう。例えば、烏と物書き机は何故似ているだとか。―――色々な説はあるのだが、有力説を述べるならば、どちらも決して(ravenとnevar。スペルは敢えて間違える)前後を間違える事はなく、note(鳴き声と覚え書き)を取り出せるも、flat(単調と平坦)なものであるからだとされる。


「…今回はラビの勝ちだな」
「…ですね」





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