水鯨(小鳥遊とアリス) 周囲の喧騒が煩わしい。其の騒々しさに若干の苛立ちを覚え、顔を顰めながら鯨カツを乱暴に食いちぎる。朱色の箸で掴んだそれは固く、また油っぽさが残留されているものなので、お世辞にも美味しいとは云えなかった。然し折角注文したのだから残すと云う勿体ない選択肢等は最初から存在せず、俺は鯨カツを掴んだ箸を小皿の上に置き、中の氷がとうに溶けた水を飲み込んだ。喉が潤い、口内に新たな生命が芽生えたようだ。俺は湯呑みを置いた。 「で、結局どうするんだ」 俺の眼前ではアリスさんが、これまた美味しくはなさ気に無表情に近しい其れで鯨カツを噛んでいる。俺は思わず彼の顔やら手やら首やらに目が行って、彼の言葉にまで注意は払えずに、一寸遅れて返事した。若干狼狽してしまったのは云う迄もない事だった。 「ええと、」 「時間もあっただろうにどうして直ぐに答えが出ないんだ、」 「それは、」 「…もう良い。そもそもが俺の知った事じゃない。お前の好きにしろ」 切り捨てるように、否、言葉で確かに切り捨てた。俺は己の愚かさ加減をかつてない程に呪い、焦燥してアリスさんに弁解しようとした。然しその前に俺の行動を遮る者が在った。此の店の売り上げに最も貢献しているらしい一人の男だった。 男はこれ迄に鍛えた事が無いのだろうと云える程、貧相な体躯をした者だった。申し訳なさげに掛けた眼鏡と髪の隙間から見える細く伸びた首筋は、女だと云われても疑いを持てないものであったし、いっそ同情すら覚える。此の時代の此の国で、軟弱な身体を持つ事は其の者の価値の無さを表すも同然であった。 「アリス殿。今日は機嫌が悪いようで」 「…そう云う訳じゃない、」 「どうなすったんです?」 然し男は決して無能と云う訳ではない。男は国が最も望む事を出来ないが、代わりに別の領域で力を発揮出来る者だった。其れが経営能力であり、経済観念であり、そして男の此の能力の裏にはこう云った知的好奇心が存在した。詰まり、男は何にでも首を突っ込んでは物事に関わろうとするのだ。其の行為が男の能力を高め、又、男の周りの社会を形成して行くのである。 アリスさんは一瞬躊躇ったが、何よりも俺への反発心が勝ったのだろう。鯨カツで汚れた口元を花紙でそっと拭うと、 「…小鳥遊が、指輪を拾ったそうで」 「指輪?」 「女物の指輪です。紫色の石が嵌められた…、おい、あるだろ。見せろ」 黒色の箸で衣嚢を指されてしまったら、其の物を出す他が無い。俺が己の衣嚢を漁り、一つの箱を取り出すと、男は眼鏡の奥の瞳を細めて「ほう」とだけ云った。真意は解らない。 白色の小さな箱は、何処か高貴さを含む上品な物だった。開けると中には華奢な形をした、女物の銀色の指輪が入ってある。アリスさんがさきに云ったように、真ん中には紫色の石が嵌められてある。 --- 書く気なくして終了。多分2年位前の…。宝石と云うよりは鯨カツと水と云う組み合わせを書きたかった --- アパートにて(ラビとグリフォン) シュコー、シュコー、と変な音がした。ガスが漏れたような、或は呼吸するような音だった。何時も隣部屋の女の喘ぎ声が聞こえて来るこの祖末で小さなアパートの一室に、初めて鳴り響く音。 目を瞑ったままでも微かに電灯の点いた気配がする。明かりを点けたままで寝てしまっていたのだろうか。そう云えば、部屋のもう少し奥の方からテレビの音すら聴こえて来る。ダチから借りたAVをオカズにマスをかき、終えたところで寝てしまったんだろうか。 「起きて」 くぐもった幼い女の声。昨日のAV女優の声かとも思ったが、女優の声はもっと老けていて扇情的だった。では何か、真上から降り注ぐこの女の声の正体は? 目を開けて――そして、驚愕する。無防備にスプリングベッドの上で伸びている俺の身体の上に、ガスマスクを装着した見知らぬ女が馬乗りになっている。 ヒ、と恐怖の声を漏らそうとして気付く。俺の喉元には女の両手が締めるような形で載せられている。明らかな憎しみを持っている。女は続けて俺に云う。 「ラヴィの荷物、返して」 「荷、物…?」 「黒の革の鞄。…返して」 そんな上等な物は知らないと思ったが、そこで直ぐに勘付いた。昨日、弟の葬式に来ていた葬儀屋の鞄だ。葬儀屋、と云うくせに、胡散臭い男だった。見栄え良く伸びた肢体、両耳に開いた幾多ものピアス、顔の半分を覆う醜い包帯。 男の鞄はこの界隈じゃ見られないような高級そうな物だった。賭けで負けて大金を借りていた俺は、魔が差して盗みを働いた(葬儀の日に盗みを働く事に罪悪を感じはしなかった。弟は憎たらしい奴だったから)。男は鞄がなくなったのに、気が付く様子もない変な奴だった。 「ッあれはもう無ぇよ、売っちまった!」 「……。そう」 「あ、…って、……ぇ…?」 世にも間抜けな声が出た。何故なら、俺に跨る小さな女の右手には、銃口をこちらに向けた銃が握られていたからだ。 ――頭が可笑しい、イカレてやがる。このガスマスクを被った女はどうしてこんなに淡々と人に銃を向けられるんだ? しかもトリガーにはご丁寧に人差し指がかけられている。その人差し指を少し動かせば、俺が死ぬ。呆気無く人一人が死んでしまう。 「ま、待っ…」 「グリフォン。そこまで」 突然男の声がした。訛りの一つもない、珍しい位の綺麗な英語だった。ガスマスクを着けた女が左を見る。俺もつられて左を向くと、必死だったので気が付く事の出来なかった、もう一人の侵入者が視界に入った。 昨日の葬儀屋だった。左手にはテレビのリモコンが握られている。男は立ったままで退屈そうにテレビを観ている。番組は最近始まった家族もののドラマだった。 男はリモコンの右上のボタンを押し、テレビを消すと、 「…チミとは趣味が合わなさそうだ」 「あーっ! ラヴィやっぱり観てた!」 「ちょっと視界に入っただけだ」 折角直ぐに消したのに、と真上から煩い声が落ちて来る。何の事か一瞬解らなかったが、直ぐにAVの事だろうと理解した。 男はリモコンをご丁寧にテーブルの上に置くと、ベッドの脇に座り、俺の顔を覗き込んで、 「鞄を売った?」 「…あ、ああ。金目になりそうな物は…」 「時計は?」 「…?」 「小さな袋に入った懐中時計があったろう」 時計を思い出せはしなかったが、袋と云われて漸く解る。引き取った奴等がその時計を見て、「動かないし何処の国のか解らなくて部品の調達のしようもないから金になりはしない」と云った。 金にならないのなら仕様がないと一応持って帰り、異国の変わったものが好きな女にでも贈ろうと思っていた。それが幸いしたかも知れない。 「あ、あれはそこのテーブルの引き出しに」 「……。…確かに」 男が立ち上がって引き出しを開け、袋を開けて中の時計の無事を確認する。馬乗りになっていた女が無言で銃を下ろす。 男はその銃を没収し、それから自分の腰のホルスターに仕舞った。コイツの物だったのか、と思いながら、赤くなっているであろう首を指先で撫でる。 女は俺の上から大人しく退き、男の側に立つとその左腕に自分の両腕を巻く。男は気にした風もなく、 「それじゃあ邪魔をした。…お金は好きに使うと良い」 「…あ、ああ…」 「ラヴィ、良いの?」 「ああ。これだけあれば別に」 男は女と会話をしながら窓を開ける。それから女が窓から飛び降りて、男も窓から飛び降りた。玄関と云う選択肢はなかったらしい。 2人が居なくなってから一体どれ程経ったのかは解らない。指先が動くようになってから、俺は自分の下半身を見た。…幸運な事にチビってはなかったが、暫くマスをかく元気がない位には生気を削がれた心持ちだ。 盗みは二度とやらない、と決め、頭をボリボリと掻いた。 「…で、その時計って何処の? 誰からの?」 「…秘密」 「何で」 「云うと怒る」 「云わないともっと怒る」 「…1年以上前に貰った」 「そんな情報聞いてない!」 --- ガスマスクが書きたかったけど全然関係なくなった。時計はアリスから英語を教えてくれたお礼に貰っていたら良いねっていう(妄想) --- 青年(その他創作) 今夏、一人の男が死んだ。否、男と呼ぶにはあまりにも若い。男と云うと、どうにももっと良かれ悪かれ人生のいろはを知っている者のように思える。しかも何だか突き放したような、距離を感じる語でもある。親しみと幾らかの敬意を以て青年と呼ぼう。その青年が蝉しぐれの煩かった頃に亡くなった。 散華であった。青年は散華した。色褪せる事のない花となって空中へと舞い散った。その便りが届いたのは、私が家を空けている時であった。疲労困憊になって帰った私に、細君がそっとその紙切れを渡して来た。細君は終始無言で居て、重々しく口を閉ざしたまま動かそうとしなかった。まるで最初から言葉なんて存在しないかのような振る舞いだった。私もまた、その時ばかりは言葉を存在から打ち消した。 その知らせは瞬く間に近所へと広まった。それどころか青年の知る所でない辺鄙な所にまで行き届いた。男手が少なかったこの町で、パイロットとして華々しく終わって行ったのは皆が息を呑むようなそんなものであった。青年の存在が、青年が居なくなってから無差別に知れ渡って行く。私はそれをどうする事も出来ず静かに眺めていた。 青年の世話を一時期見ていただけの私が、その知らせが広まるのを止めないか等と云う出しゃばった事は云えぬ。それでも私個人としての考えと、それから誠に勝手ではあるのだが、青年の性格や思考を多少は知っていると云う何ともちっぽけな自負を以て云うと、この事はあまり喜ばしい事ではなかった。 然し図々しく何者かの肩を叩いて窘める事は矢張り出来なかった。私は青年自身でもなければ、青年の代行者でもないからである。 同じ高等学校に通っていた者と飲む機会があった。私が珍しくよく飲んだ為、友は驚いたようだった。日頃の重苦しい重圧から逃避するような行為でもあった。 暫く飲んで酒が良い感じに回って来ると、私は意識せず言葉を漏らした。体内に回ったアルコールを排出するかの如く、私の思想を煙のように吐いて行った。青年についての思うところを述べた。秩序立てる事もせず、感情のままに吐き出しただけであったから、支離滅裂であったと思うし何度か同じような内容を云ったと思う。畢竟、私は知らせが蔓延している現状を憂いているだけであったのだが。 友は私の話を聞いた後、空気中に浮遊した可哀想な私を叩き割るように豪快に云った。 「それはお前の憂う事ではあるまい。それに立派に誇って良い事だろう、」 「そうだろうか、私はそうは思えないのだが、」 「いいや、誇らしい事に決まっている。」 酒の勢いで吐露してしまった事を、この時心の中で悔いた。冷水を浴びたかのように頭が一気に冴えて行くのを感じた。 友の返答が私の期待を裏切るようなものだったからではない。只単に賛同を得られなかったからでもない。私自身への憤りだった。誰にも云うような事ではなかった。そのような事は解っていた筈なのに、己の莫迦さ加減を恥じた。人間思うほど成長していないと云う事を、何かをしでかしてしまった後で気が付くものだ。 友はそれよりももっと飲めと云った。私は曖昧な返答をしてから苦笑してみせたが、結局それから飲む事はなく、グラスの中で丸くなった氷を只々じっと見つめていた。 氷も物寂しくなったな、とふと思った。私はその日から酒を絶った。 --- 結構長く書く積もりだったけど続き浮かばなくなった… --- 廃墟(その他創作) 「暑ぃ」 貴方はカッターシャツから覗いた後ろ首を掻きながら、僕に云うでも、誰に云うでもなくそう呟いた。貴方のシャツは汗で皮膚とよく密着し、首を掻いた右手の爪には汗が入り込んだ。蝉の声が響き渡る猛暑だった。 黒ずんだ蛇口を捻り、赤茶色が混じった水を躊躇いもなく呑んだ。濡れた口元を右手の甲で乱暴に拭い、序でにと云ったように額も拭う。僕は貴方の側に寄って何かする事がないだろうかと顔色を伺うが、それは貴方に無視された。貴方は僕を一瞥だけすると直ぐに視線を逸らし、廃墟の中へと入って行く。僕もまたそれに続いた。 --- 挫折が早すぎて何物でもない。貴方が廃墟で死んだ同級生の霊を見に来た男子高校生で、僕が廃墟で死んだ男子高校生の霊。廃墟が好きなのでこう云うの何時かちゃんと書きたい --- 茶番劇(その他創作) 茶番だった。 人生そのものが茶番劇だった。安くて古くて時代に錯誤して、役者は只の一人しか居ない、下らないお芝居だった。 何時もカップ麺ばかり食べて餓えを凌いでいるような、財布に小銭しか入っていないその日暮らしの名無しの役者は、みかん箱のように粗末なステージで他のステージの役者へと叫んでいた。 その他大勢の役者もまた、自分が主役になったかのように周りに向かって声を大にして、大した台詞でもない言葉を劇的に投げかける。 そんな発言に耳を傾ける人間は大して居ないのに、届いたか届いていないかは気にしていない。 彼等が気にかけるのは、自分の口から言葉が出たか否か。 それだけだった。 死んだような人生だ。 死ぬまでの作業ゲーだ。 幾ら経験値を詰んでレベルが上がろうと、敵に殺されるか穴に落ちるかしたら全員同じ境遇だ。 そんな大した事もない人生なのならば、死んだって良いだろうと放課後の2人きりの教室で僕は彼女に云った。 彼女は携帯を弄りながら、「なら死ぬ気で何かしてみたら」と云った。 「死ぬ位なら何だって出来るでしょう? どうせ死ぬなら人生を謳歌してみたら」 彼女の目は僕を見ていなかった。彼女の黒色の双眸は、液晶の向こうの小さなコミュニティに真剣に注がれていた。 そのコミュニティの主役は彼女からしたら彼女だった。 彼女は自分の家に居ながら、自分の家に居ない知人の声を聴く。 お風呂から上がり、紅茶を淹れて、髪の毛を乾かしながら、耳ではなく目で知人の声を視認する。 そこでは情報が毎日川のように流れている。時に雄大に流れ、時に忙しなく流れ、時にそれに腹を立て、時にその川に飛び込んで川の中の魚と泳ぐ。不協和音を奏でながら。 自己主張が何よりも好きな人間は、そこで何処よりも居心地の良い場所を手に入れる。 雨が降っていた。 花が萎れていた。 決して彼女が主役になれない液晶越しに、彼女関連のニュースが流れた。 そこでは彼女が台頭する彼女だけの世界と違い、彼女の写真が一瞬だけ流れて終わった。 僕はそれを珈琲を呑みながら、眼鏡の奥の二つの目で只じっと見ていた。 彼女は不意に穴に落ちた。若しくは壁にぶつかった。 何にせよ幕が下りた。 生まれ持った黒色を、自らの意思で茶色に染めた女の子だった。制服から出る肢体は標準よりも少し細かった。笑顔は恐らく標準以上に可愛らしかった。 煎餅を持って居間にやって来た母が液晶を見て息を呑んだ。 名無しの役者の区別記号を読み上げて、僕の肩に手を置いた。心なしか手が震えているようだったけど、 それって本当に母の手が震えていたのだろうか。 学ランの下の僕の肩は本当に静止していたんだろうか。 僕は常に音楽で耳を閉じる。 目で言葉の情報を入れる事は無い。 どうせ何時かこの劇が終わって、劇の存在も全て忘れられてしまって、僕も全てを忘れてしまうのならば、能動的に動く事に何の意味もないからだ。 然し彼女は能動的だった。 彼女は積極的に言葉を指で綴り、目で他者の言葉を受容して、小さなみかん箱の上で笑顔を振り撒いていた。 僕のステージって、若しも僕が役者でないとしたのなら、誰が役者なのだろう。 誰が不完全ながらも共通で客観的な言葉を用いて意思を伝えるんだろう。 でも、 意思の疎通に何の意味があるんだろう。 誰の目から見ても確認出来る、彼女の現実世界での居場所に花が咲いた。 白くて大きな花だった。 教師の置いたその花は何れ直ぐに枯れた。 彼女の友人が声をあげながら流した涙もまた直ぐに枯れた。 花は直ぐに枯れるからこそ美しいと昔の歌人が云った。 花々の露命は確かに世界で何よりも美しかった。 ならば今は花にその生命を取られ、 暗闇の中へ魂を入れ、 骨を焼いた貴女だって、間違いなく最も美しかった。 僕の片目から温かい露命が滴り落ちた。 例え人生が茶番劇だとしても、 実体を持たない言葉は直ぐに効力を失って空気中に分散して消えたとしても、 花が枯れたとしても、 貴女が死んだとしても、 僕の貴女に対する特別な感情がこの身と共に焼却したとしても、 露命だけで出来た世界は宝石箱のよう、明滅する光で輝かしさに満ちている。 ――世界を去り魚と化した貴女に、この両手一杯の花束を手向けとして。 貴女の安眠を祈り僕は一人唄を口ずさむ。 --- 一度上げていたものですが詰めた方がよさ気な出来だったので…。 供養終わり。 |