小説 | ナノ
05


 峡谷を吹き抜ける夜風が悲鳴のように聞こえる。この星は様々な表情を見せる。センセイと慕う存在はその美しさを愛し、ドリフトも同じように愛した。
 彼は今、どこにいるのか。空には雲がかかり、星は見えない。
 悲鳴に紛れて砂を踏む音が聞こえた。
 コートを翻し、近づく影にドリフトは後ずさりする。できる事ならビークルモードで逃げ出したい。
「……昨夜、何をした」
 クロスヘアーズは無言で笑っている。
「答えろ、クロスヘアーズ」
 手と足を使って逃げるドリフトにあっさり追いついたクロスヘアーズは昨夜と同じように背後に回ると腕一本でドリフトを拘束した。
「答えろと言っている!」
「……夢を見たぞ」
 喉元に回された腕が力を増していき、ぎしりと音を立てる。
「すっかり変わっちまったと思ってたが、何も変わってやしねえ」
 表情は見えないが、明らかにクロスヘアーズは笑っている。そんな確信が持てるほど、声は弾んでいた。ちきちきちき、と歯車が噛み合う音がする。
 昨夜の恐怖がよみがえる。
「やめろ!」
「おまえは何も変わっちゃいねえ」
 キールに浸入する異物感は昨夜の非ではない。声を上げることができないほど全身を硬直させるドリフトの口をふさぎ、クロスヘアーズが囁く。
「忘れることなんてできやしねえ。そうだろドリフト。おまえは何も変わっちゃいねえ」
 心底嬉しげな、低い囁きに乗るように回路を流れていく何かがある。脈動する何かが流れるたびにもがき、逃げようとするが、クロスヘアーズは腕を離さない。苦し紛れに手を振り上げたドリフトは何かに触れる指先に気づいた。岩の感触ではない。そう察して指を立てると金属がこすれる高い音が響いた。手を下げていくにつれ、触れているのが顔だとわかる。鼻筋を通り、口元に落ちた指が止まる。
 指先を噛み潰されるかと思うほど加えられた力がゆるみ、ドリフトは手を引こうとしたがクロスヘアーズは許さなかった。嗜好品を味わうように指を噛み続ける感触や、得体のしれないものが流れる嫌悪感が遠くなり、昨夜と同じように視界は暗転した。
 ――歌が聞こえる。何の歌だったか。
 記憶を探り、深層に沈めた記録から取り出したのは戦場の光景だ。踊るように銃を扱う彼は、鼻歌を歌っていた。命を懸けるはずの場だというのに、軽やかに、楽しげに。宝物を見つけた子供のように。
 一度、訊ねてみたかった。何か楽しいことがあるのかと。
 許されないと知っていたが、語りかけたかった。彼は答えの替わりに銃口を突きつけるだろう。スパークは打ち抜かれ、何もかも終わる。それでもいい――

「何が、楽しい……」
 光度が落ちた目が見ているのは、ここではないどこか。ドリフトが何を見ているのか、クロスヘアーズは知っている。展開される映像はドリフトの夢だ。
 最前線の夢。ドリフトが見ていた、かつての自分。
 無意識の問いにクロスヘアーズは答える。
「おまえがいたからな」
 深層意識の記録は夢として現れる。センセイセンセイとつきまとい、愚直なほどに命に従うドリフトは、クロスヘアーズにとって別人だった。クロスヘアーズが知る「ドリフト」は名も知らぬ敵兵。狂喜に満ちた刃。
 緩慢な口調が、わたし? と呟く。暗い目がクロスヘアーズを見上げる。
「おまえと戦うのは楽しかった」
 鼻歌を歌いたくなる程度には、楽しかった。あのころは良かった。邪魔する者を打ち倒す、単純な世界。死ぬか生きるかの二択しかない場所。
「私も、楽しい」
 過去と現在。ドリフトは過去に立っている。クロスヘアーズが戻れない、記憶の中に。
 ゆるめた腕の中で、ドリフトが身じろぎした。体を反転させ、膝をつき、鼻先が触れるほど近くまで伸び上がる。
 動くようになったか、と思いつつクロスヘアーズは暗い目を見た。
「おまえは、空から落ちてくる」
 暗い目の奥に狂気が覗く。
「いつも待っていた」
 パーツが組み変わる音が渓谷に響きわたる。背に生えた極東の刃に手を伸ばしたドリフトは、ゆるりと笑う。
「殺すために」
「殺してやろうか」
 声が重なり、笑みが深まった。


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