白い綿雪が降り積もる。火鉢に当たりながらぼんやりと、今日の夕食は何であろうなあ、と、たったそれだけ考えていた。
平和な日常である、よきことかな。
欠伸をひとつして、ふと顔を上げたその先に人影を見付けた。目を凝らせば女中が一人、庭に立っているらしかった。蝋燭を手に、灯籠の前に佇んでいる。

「おや、もう灯籠に明かりが灯る頃ですか」

あの姿には覚えがある。袖を押さえる手の仕草と癖のついた髪の流れでよく分かる。
縁側から庭に立つ。下駄がカランと鳴る。自室内の火鉢もぱちぱちと鳴り、それが、いやによく聴こえた。冷えた風が頬を撫でていく。温まった手が熱くすら感じる、冬のある黄昏時。
両腕を着物の袖に隠し、飛び石をとんとんと渡ったすぐ先に、女中――諏訪子――はいた。橙色から紫紺に染まる空を見上げ、……ああ、一等星を眺めているのかと一人頷く。
昔からあの一等星は、いつもこの時間、ちかりと光る。

「諏訪子さん、風邪をひくよ」

諏訪子は沈黙している。蝋燭の火を虚ろに見詰め、何やら思案した後にようやく振り向いた諏訪子は、不自然に明るい笑顔で振り向いた。

「へっちゃらにございます。わたくしは風邪などひきませんよ、旦那さま」

わたくしは、ばかですから。
いつもの諏訪子であった。本当に“いつも”と変わらない明るくやさしい諏訪子であったが、その笑顔が整い過ぎていて、逆に不自然だと、直感でそう思った。
だからといって『本当か』と訊いても、おそらく諏訪子は『本当』だと言うに違いなかった。
そういった強がりが、余計に心配にさせるのは予てよりの法則。しかしその原因を話してくれないのなら、せめて触れるだけでもと、手を伸ばした。
そっと頬に火照る右の指先を添え、黒髪を耳に掛けてやると、ぱちりと瞬きをした後すぐに、俯いてしまった。橙の空もあと僅か。耳鳴りがするほどの静寂の中で、二人は影を重ねていた。
ふと諏訪子は僕を見上げ、消え入るような聲で、ぽつりと呟く。

「旦那さまの指先、あたたかいですね……」

その科白に抑揚は無い。深い哀しみの声色がやけに静寂に響き、竹林がざわついた。蝋燭の火も揺れ靡く。
僕はやはり、“いつも”とは違う諏訪子に動揺を隠せず、けれど頬からは指先を放せずにいた。諏訪子は左の手のひらで、それを包んでいたから。

「……どうしました、いったい? やはり寒いですか、?」

自らの羽織を脱ごうと、頬から手を放そうとしたが、すぐに諦めた。慈しむように添えられた諏訪子の指先を、どう考えても振り払えるはずがなかった。
困り果て長く思案した挙げ句であるというに、僕はその華奢な肩を寄せるだけに至った。より影は重なり、それは一人だけのものかと思うほど。
ゆっくりとした互いの鼓動と呼吸が、唯一の音だった。

諏訪子は、びいどろ細工のように脆く感じ、僕は手を添えているだけ。今にも音を立てて崩れ去ってしまいそうにその存在の輪郭は薄く、心の底から思う。
一体どうしたものか、と。
努めてやさしく、何か気に病むようなことがありましたか、と、いくら訊ねても沈黙する諏訪子。ひたすらに、僕の指先を、手を、いとおしむように撫でていた。

「諏訪子さん、一先ず火鉢に当たりませんか? やはり寒いのでしょう、……手が氷のように冷たいではありませんか」
「……さむい、のは」
「ん、?」

いつ振りに聞いたことかと錯覚する諏訪子の聲。
聞き逃すまいと諏訪子の口元に耳を寄せると、言葉か吐息か曖昧な聲が、よく聞こえた。

――さむいのは、こころなのです。

諏訪子は、そう言って蝋燭の火を吹き消した。台はは手から滑り落ち、くわんくわんと暫くの間銅の音が鳴く。
そっと僕の胸に寄り掛かった諏訪子は、しばらくして、静かに泪しはじめた。大粒の泪をぽんろぽんろと溢れさせ、微かに聞こえたのは……つらい、つらいと、囁くような嘆きだった。
あまりにも唐突で予測していなかったことに、僕にはもはやどうしていいものか分からず、ただ、その小さな背中を撫でてやることしか、出来ない。どれ程の力で抱き締めてやればいいのかさえも分からずにいるというのに、本能に似た何かがかろうじて僕をそうさせてくれた。
感じたのは、無力だという事実。
どんな言葉を掛けたらいいのかはおろか、泪の意味も皆目見当がつかず。ひたすらに、無力。

「ごめんなさい……、しばらく……」

――泣いている諏訪子は、初めて見た。
諏訪子は、僕が幼い頃から既に屋敷にいた。
当時は僕より少し背が高く、一人っ子の僕は諏訪子を本当の姉のように慕い、後ろを付いて歩いたものだ。二人はしゃいで廊下を駆け回り、縁側でキュウリをぱりぽり。スイカの種をどれだけ遠くに飛ばせるかと競いあったりもした。諏訪子は転んだり、食べるのが遅かったり、種も飲んでしまったりしていたけど。たくさん、笑った。
僕の記憶に諏訪子が泣いているなんて光景はない。僕が泣きじゃくっていて、諏訪子が慰めてくれている光景なら、いくらでも思い付くのに。
『若さまったら、なきむしですねぇ』なんて笑う、“諏訪ちゃん”。

いつからだっただろう。
諏訪子が、あまり笑わなくなったのは。
諏訪子。……諏訪子さん。
あなたの肩は、こんなにも細かったですか……?

「旦那さま、旦那さま、わたくしは、胸が苦しくて苦しくてこんなにも、……、」
「諏訪子さん、何度もしつこいようですが、一体どうしたというのです。こんなに泪する理由が、僕にはさっぱり……」

問う。根気強く、やさしく。しかし問えば問うほど、諏訪子はいっそう泪して僕の胸に顔をうずめた。
つらい、つらいと嘆き、泣きじゃくる諏訪子。
僕はすっかり閉口してしまい、ひたすらに仔をあやすように背中を撫でた。
紫紺の空も暗い藍色に染まり、辺りを照らすのは数少ない灯籠の明かりのみとなる。月は……悪戯に隠れている。

「……わたくしは」

微かな聲を聞き洩らすことのないよう、耳を、口元へ。

「雪のように真っ白な、鳥になりたいのです」
「鳥……?」

不意に諏訪子の手のひらが僕の頬を包んだ瞬間、一瞬だけ二人の時が止まった。……気がした。潤んだ瞳で囚えられ、僕は息を飲んだ。なんと艶やかな瞳だろう、とつい魅入れば……

――青

心の臓が跳ねた。突然の青に戸惑いを隠せず、二歩、三歩と後ずさると、諏訪子の手はするりと僕の指先から流れ落ち、力無く垂れ下がった。
泪が、ぽんろぽんろとこぼれていく。
トンボ玉のような、色とりどりの泪が、……青い瞳から。
何故? さっきまであなたの瞳は、薄茶けた色だったではありませんか?
なんて、聲にならない。

諏訪子は痛ましくもやさしい微笑みを浮かべ、こう言った。
「白は、きれいですよね。旦那さまは、白い花がお好きですよね。白い仔猫も。白い綿飴も。旦那さま自身、真っ白な心をお持ちで……なにより、雪が、すき……、」と。
『本当にあなたは、どうしてしまったというのです?』それも、聲として形にすらならず。

(……はね……?)

泪が青い、羽根に変わって……、
ひいら、ひいらる、ひいら、ひいらる、ひらる。
柔らかな青い羽根が、“諏訪子から”舞い落ちていく。幾つも幾つも、まるで花が散るように。

「わたくしは白く、白くいたいと思うのです。旦那さまの好きな雪のように、真っ白でいたいのです」

目元から、首筋から、指先から、淡い光を纏い舞い落ちていく、青い羽根。あの夏の空を思わせる青が、ひらるひらると諏訪子の足元に……そうして積もる頃にようやく、吁、君は“ヒト”ではなかったのか、と。
青い羽根が、舞い舞う踊り踊る静けさに、先ずは呼吸と意識しなければ、それも出来ぬほどで、故に寧ろ美しくもある。

「気味が悪いでしょう、ごめんなさい。ごめんなさい。わたくしが、せめて白い鳥なら、旦那さまの指にも止まれたのでしょうか……。ごめんなさい。……ごめ、なさ……」

いつしか微笑みは悲痛な表情となり変わり、淡く光る数多の羽根は途切れ途切れの聲と共に泡沫となり。やがてその場にへたれ込んだ諏訪子は、既に言葉も紡げず、ただ泣き時雨るばかり。

自分に何か出来ることは? 何も、無い。
あまりのことに僕は腰が抜けなかっただけまだ、ましだと感じていた。膝が笑う。非日常がそこにある。

どれくらいの時間、僕は棒立ちで青い羽根を見詰めていただろう。“諏訪子から”生まれる羽根も、ひいふうみ、幾つ舞い落ちただろう。
諏訪子は、どれくらいの苦しみを抱えているだろう。
そんな考えに至り、瞬間僕の膝は笑うことをやめた。諏訪子が、つらい思いをしているというのに僕は。

積もる羽根を踏んでしまわないように、足場を見付けてはとん、とんと渡り、諏訪子の隣の灯籠に腰掛けた。立ってはいられない。近くにいれば輝きを増す神秘の青に、今度は魅せられてしまったから。
それから、躊躇っては引っ込め、ゆっくり差し出し、躊躇っては引っ込めと繰り返す手。
思い切ってようやく触れた、諏訪子の黒髪を撫でながら、青い羽根を見詰めて僕が言えたことといえば、「泣かないでください」。震えた、情けないだけのそんな科白だけだった。

過去に、諏訪子が言っていたことを思い出していた。
『白い鳥は、きっと何色にもなれるのでしょうね』、その後に呟いた、『でも、青は、青いまま』という声と、その切なげに揺れた“薄茶けた”瞳を。
その時僕は、何と答えたろうか、……たぶん、『そうかな』とだけ。
諏訪子がどんな気持ちで言ったかなど、当時の僕には到底理解が及ぶ訳もなく、曖昧な科白で流すことしか出来なかったのだろう。下手なことを言えば諏訪子が崩れてしまいそうで、僕は恐れたのだ。諏訪子の心に踏み入ることを躊躇い、逃げ出してしまった。
今思えばあの日あの時以来、諏訪子は僕の視線の先を追うようになった。何を見ていらしたんです? と、問うようになって……橙色がお好きですか? と。そしてつい先日のこと。
――なるほど、白がお好きなのですね。
と諏訪子は柔らかく、やさしく微笑んだ。疑問符は、無い。
僕は、諏訪子が久方ぶりに笑った! と嬉しくなって、『白い花が好きです。綿飴も……ああ、仔猫も雪も、真っ白がいいですね』と語ったものだった。
その時諏訪子はそのやさしい微笑みの裏で、泣いていたのだろうか?

「諏訪子さん」

諏訪子は、瞼を伏せる。
恐れないでください、あなたが思っているような科白……、僕はつい先程捨ててしまったようなんです。
膝は沈黙する。既に冷え切ってしまった指先さえ、震えはしない。
ただ白い鳥になりたい、白い鳥がよかった、と嘆く諏訪子に、『諏訪子さん』と呼び掛け続けた。

「お、恐れないのですか……、気味が悪いと」
「……え。ああ……、ええ、さすがに驚きはしましたが! 気味が悪いなどとは到底」
「嘘です……嘘です! 気味が悪いとお思いになったはず、化け物だと恐れたはず!」
「僕は、気味が悪いとも、化け物だとも思っていません。しかし確かに、……恐れは抱きました。人ならざる姿に……すみません、」

眉をひそめ唇を噛む諏訪子を見、しばらく考えて、僕は隠れた月を見上げた。
成る程今宵の月は名月だ。隠れていても、よく分かる。

「諏訪子さんの言うように、僕は白が好きです」

諏訪子の黒髪を掬うと、するりと指先を流れていく。肩をすくめた諏訪子の、小さな聲。
『ああ、やっぱり……ごめんなさい……だんなさ、ま』
……これだから、諏訪子は。

「でも、白だけ、好きなわけではないんですよ」

灯籠から降り、青い羽根を拾う。一枚、二枚。手のひらに乗せ、息を吹き掛けるとまた、花の散るように僕と諏訪子の間に舞い落ちた。
諏訪子は相と変わらずぽんろぽんろと泪してはいるものの、少しは気も落ち着いたようで、不思議そうに僕の言葉に耳を傾けていた。
僕は諏訪子に手を差し出し、笑う。首を傾げるのがおかしくておかしくて、僕はたまらず諏訪子の手を取り、そっと立たせた。……足元には一面の青い羽根。

「もはやヒトかヒトでないかなど問題としては些細なことです」

だって、あなたは紛れもない、諏訪子さんでしょう?
握った手の、指先を絡め。僕は今妙に、あなたが愛しくて堪らない。

「なんだか水面に立っているようですね。あ、青い羽根のペンとか、どうです? 青い綿飴……は、どうだろう。青いシロップのかき氷もあることですし、味はきっとおいしいから大丈夫です。……青い雪も、幻想的じゃあないですか?」
「……あの、だんなさ、ま?」
「白が、好きです。橙も、好きです。青も、もちろん好きです」
「……、」
「僕は、青が好きです。白より橙より」

あなたの青が好きなんです。
ふわりと微笑めば、青い羽根が、一陣の風と共に舞い上がり、それは諏訪子の黒髪へ舞い降りて。
あ。ほら、青い髪飾りも、よく似合います。
おどけて見せれば、ひとつ瞬きしたのち、諏訪子は

「でも、白がいちばん好きなのでは……?」

と予想通りに問うものだから、またおかしくなってしまって。

「諏訪子さん、僕の話をちゃんと聞いてました? 僕は、あなたのその色が、その青が、好きなんです」

青い羽根を、諏訪子の朱い唇にちょんと軽く触れさせる。きっとこの羽根は、すこしだけ、紫に近付いたはず。色は、混ざって溶け合って、例えば橙色が紫紺に変わりゆくように、移り変わっていく。
その中で、一等星は輝く。ちかりと、光る。
諏訪子はどうにも視界が狭いらしい。思い込みも、激しくて。周りばかりに憧れて、自分がその中心にいることを忘れてしまう。
そうと分かれば、僕は、何だって出来るはず。手を引いて別の場所へ。肩車だってしよう。

「自分の色を、ないがしろにしないでください」

月が、ひょっこり顔を覗かせ、青い羽根を照らしている。ああ、光の当たり方も変わればまた、違うのか。諏訪子の頬を両手で包み、親指で泪の跡を拭う。頬もまた随分と冷えて、……早く火鉢に当たらせてあげないと。ぼんやり、見詰め合いながら。

「白に憧れるにしろ何故また青を恥じるのか分かりませんが、……あなたの瞳は、あなたは、こんなにも綺麗です」
「きれいなんかじゃ」
「僕の瞳に映っていませんか、綺麗な青が……」

ねえ、諏訪子さん。
そう語り掛け前髪を払うと、長い睫毛はすっかり泪に濡れてしまっていた。少しは元気が出ただろうかと覗き込むが、それからまた、大粒のトンボ玉がぽんろとこぼれたものだからたじろいでしまい。

「あ、あれ、?」
「……、ばか」
「そう、でしょうか」
「ばか、です」
「あはは、ならば風邪をひかなくてよいことです」

どうか、許されるのならば、ぎゅうと胸にしがみつく諏訪子を、今度は強く抱き締めさせてください。躊躇いなく、確かに。
苦しいです、と、諏訪子がこぼすまで。



――了


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『あなたの青が、僕はすき』
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