short | ナノ





苛立つ気持ちを抑えながら、俺は一人になりたくなってひっそりと屋上へ向かった。午後からの授業も残ってはいたが、どうしてもやる気にはなれなかったのだ。テニス部に同じクラスの奴はあまり居ないし、居る奴らも正レギュラーは愚か準レギュにも入っていない。そんな奴らに俺が授業を抜けてさぼっていた、などと告げ口する勇気はあるまい。そう思い至り、俺は昼休みの後何する訳でも無く屋上への歩を進めた。かつり、かつりと非常階段を駆け上がる度に、ずしりと何か、得体の知れないものが降りかかってきている気がした。それに出来るだけ耐えて、それから屋上への入り口のドアを思い切り音を立ててバタン、と開けたとき、そこから覗く景色のあまりの見通しの悪さに一度目を瞬いた。それでもそれらは何も変化を見せず、俺はこれが現実なのかと思い知る。諦めて屋上の柵に一番近い辺りに座り込んで、ぼうっと空を眺めれば、今すぐに雨が降ってきそうな程に雲が空を白く、時たま灰混じりに覆っていた。それは周りの巨大な建物すら巻き込んでいる。この校舎からの今現在の風景は、絵にしてみればただ白と灰を並べただけのものになるであろう。全く以て味気無い。げえ、と気持ち悪げにジェスチャーをした後、此処には打でも居なかったことに今更になって気付いた。何だか居た堪れなくなって、俺は思わず苦笑を零す。それからふと此処に来るまでの経緯が頭に浮かんで、それにまた苛立ちを覚えながら俺は舌打ちをした。何やねん。毒づいたら。ぽっかりと心の隅が空っぽになったような気がして、俺はまた空を見上げる。そこにあるのも空虚な何かでしか無く、もやもやと巡っている天気は、何処か俺の心のようだった。


一年の頃からテニス部のマネージャーをしていたあいつのことを思い出す。ミーハーが多い中であいつは一人だけ異色を放っていて、逆にそういう目で見られないというのも当初は新鮮だった。最初はレギュラー外の身の周りの事をやっていたのに、いつの間にか俺らの中に入ってきているような奴だった。それに違和感すら感じなかった。今更になって考えて、そう言えばそうだったな、と思い出すだけである。そんな風に簡単にレギュラー内に溶け込んだような奴だったから、部員が心を開くのもそいつくらいだった。日吉なんかは女子として見ていなかっただろう、ああ、あと岳人も。
気軽に話せる明るい奴で、それなりに冗談は言うし、でも心の奥までは触れてこようとしない。その距離感の心地良さに、俺もいつからか心を許していた。好きなのだ、と気付いたのはいつだっただろうか。早かった気もするし、遅かった気もする。あいつと俺が同じクラスになったときだったから――多分、二年の頃だろうか。酷く曖昧だ。気付いたときには彼女はもう俺と仲の良い友人、という立場を持っていて、クラスでも話す機会はあったし、だから、それなりに自惚れる事もあった。あいつにしてみれば同じクラスのよしみ、そんな程度だったのだろう。俺はあいつと話すことひとつひとつが嬉しくて、女子みたいに記憶していたりしたのに。

だが、俺は気付いてしまったのだ。俺があいつを想うのと同時に、あいつも跡部を想っていたのだということ。三年に上がると同時にあったクラス替えで、A組に名前が載っていたときのあいつのあの嬉しそうな表情。――俺と同じクラスになったときは、そんな態度や無かった癖に。酷いもんだと思う。俺が、クラスが離れて寂しささえ感じてあいつを見たときの、あの笑顔を俺は忘れることが出来ない。俺に向けられたものでは無かった。だが、あんなに自然で、感情そのままにわらうあいつを見るのは初めてで、それにまたどくりと胸が高鳴ったのだ。情けない。好きな女の笑顔を引き出すのさえ、ほかの男の手を借りなければ不可能なのだろうか。俺がキャラを変えてまで笑かそうとしたところで、あんなに、あんなに可愛らしいあいつの表情は出せないだろうけど。それを知った上で俺はあいつのことを嫌いになれる筈は無くて、その友達のままの関係でも続けて行ければそれで良かった。それでもぐさりと刺さるものはあったが、俺はそれを隠してあいつの前で笑う覚悟も準備もとっくに出来ていた。いた、というのに。
俺はわからなかったのである。俺があいつへ向ける視線、あいつが跡部へ向ける視線、それと同じように、跡部もまたあいつのことを見ていたのであった。それに気付いたのは、つい昨日。マネージャーと部長、ただの連絡であんなにもお互いがお互いに悟られぬように焦がれた視線を寄越すことなどないだろう。たまたまそれに出くわした俺は、目が覚めたかのような気分だった。跡部は俺から見てもテニスは上手いし女子には人気だし色気はあるし成績も良いし金も持っているし、素直に格好良い。そんな奴を好きになられてしまったら、俺はもうどうすることもできなくて、早い内に告白でもしていればこんなことにはならなかったのかなあと後悔するのみである。あいつが跡部を意識するよりも先に、俺の存在を植え付けてしまえていたら。跡部があいつを認めるよりも先に、気の利いた言葉でも言えていたら。考えてしまえば限が無くて、でもそれを考えたところでもうどうにもならないのだ。俺には、跡部のような生まれの良い家という訳では無いし、テニス部を引っ張ってゆくような力も無い。成績もあいつ程は良くないし、あんなに人を惹き付けるような魅力も無かった。あいつらはきっともう、直に想いを打ち明けるのだろう。そうすればあいつらの共通の友人のテニス部には言って回るだろうし、そうしたら俺の耳にも触れる。やめてくれと思った。今ですら、こんなにも苦しくてかなしくて、どす黒い感情が胸を巡っているというのに、自覚もないのだろうから困る。あの連中と一緒にいるのがふと嫌になって、今日は部活を休もうかと思った。そうしないと、どうしようもない。認めるのにだってそれなりに時間はかかるだろうし、多分あいつらの自慢話を聞いたところで俺は認めることが出来ないのではないかと思う。我ながらしつこい。わかってはいるのだ、だが、脳とはそんなに切り替えを早くはできないものだ。今も、まだ跡部とあいつの、あの場では絡み合うことのなかった熱っぽい視線を、信じられずに居る。今まで部活のことにしか一生懸命でなかった跡部が恋をして、それがあいつであるなどと、そんな訳が無いと心のどこかで否定してしまう自分が居るのだ。嘘であって欲しいと何度願ったことか。だがそれはすべて叶わないと心のどこかで、冷めている自分が理解はしていた。だからこそ、今こうやってそれについて触れ、考えることができるのだと思う。認めているという気持ちの表れだろうか。だとすれば、やはり心の奥の奥の方で自分はあいつと跡部を祝ってやりたい気持ちもあるのだと思う。ただ、表面の突っぱねた部分が、どうしてもそれを押し返してしまうのだ。勝敗の見えている勝負など、何の意味も無いというのに。詰まらない維持に縋る自分が滑稽に思えた。それでも苛立ちがずっと治まらないのは、何故だろうか。――大人の理由で諦めきれる程自分は精神が育っていない、ということか。所詮自分はまだガキで、俺が目をつけた女を誰かに奪われるのが嫌なのかもしれない。唾を付けておく余裕も無かった癖に、自分のものだと勝手に思っている辺り良い気なものだと思うが。

全く、やり切れない。どっちにしろ俺はあいつへの想いを諦めるという道しか残されていないのだ。はあ、と溜息を零せば、それに誘われるようにしてぽつりぽつりと雨が降ってきた。俺はそれに気付いていながらも知らん振りをして、そうすれば自然といつもの髪型が崩れてゆくのがわかった。髪からはぽたりと雨粒が制服を濡らしてゆく。いつもならばその普段とは違う感覚に気持ち悪い、とすぐに服を着替えたくなるのに今日はそんなことはどうでも良かった。ただ、次第に大きくなってゆく雨足に、自分の同じように膨らんでゆく曖昧で色々な感情が混ざり合っている、でも確かに存在している感情を重ねて、気付けば俺の瞳からは涙さえ零れていた。眼鏡はもう視界を遮る壁にしかなっていなくて、雫しか見えないそれを外そうとはせずに、ぼやけた視界の端であいつの笑顔が見えた気がした。振り向いてもそれは見つからなくて、幻想だったことに口から漏れたのは嘲笑。それでも涙は止まらなくて、ただ無心に泣き続けた。ぼんやりと心の隅で、この分だと今日の部活は中止やなアと考えた。ということは、あいつらの姿を今日は見なくて済む。ほっと安堵して、頼むから雨、止んでくれるなよと念じる。そうすれば雨は強く降り注いで、まるで俺の心を映しているようだと思った。最初の曇り空といい、そっくりである。涙を流せば、あとからやって来るのは虚無感、喪失感、それだけだというのに、涙は止まってくれやしない。そっと眼鏡を外して周りを見れば、見えた世界は味気無い、薄汚れた灰の空と、それすら隠そうとしているようなかなしみの粒たち。こんなものか。その汚い空に向けて、俺はそっと言葉を吐いた。
「全く、やってられへんわ」
出てきた自分の言葉は、酷く震えた声音を含んでいて、それからとても小さな声だった。あまりの小ささにすぐに大きな雨音に奪われて、それでも良いと俺は目を閉じた。どしゃ降りの雨とそっくりな俺の心は、空と同じようにかなしいという感情を必死に訴えかけている。それを押し殺すようにしてまた俺は眼鏡をかけた――。嗚呼、また雨が強くなる。

心の中までどしゃ降りだ
企画13番目の憂鬱さまに参加させて頂きました。