※姉
私のベッドを占領するこの成人男性は、私の弟である。人一倍六つ子の兄弟に依存し、少々こじれた並々ならぬ感情を私に抱いているようだ。彼は、いつから私を姉と思わなくなったのか。その詳細について彼の口から語られたことがないので私には分らないが、私にとっての彼は、六人もいる弟のうちのひとりで、大切な存在に違いはない。だが、彼は、それでも、私の弟なのだ。私の弟への愛情と、彼が私に傾ける愛情は質が異なっていた。しかも、一般的なきょうだい間にあるそれと、似て非なるものだった。
私は三年前から社会人として働いている。そしてつい半年前に実家を出て、念願だった一人暮らしを始めたのである。静けさの感じる一人暮らしになれない寂しさを抱いたこともあったが、いつも家のことをしてくれていた母に感謝する気持ちが持てたし、自立するということがどんなことであるかということもある程度自分の中で形作られ、やっと不便なく生活を送りつつある、そんな頃だった。上から数えて四番目の弟が、私の家に転がり込んできたのは…。
私がひとり家を出て、実家とは別の離れた街に一人暮らしをすることに対して「まあ、がんばれば」とそっけなく呟いたあの四番目の弟が、六つ子の兄弟の中で一番始めに音を上げたのだ。私にとって、これは本当に驚くべき意外な結果だった。いやはや、本当に…意外や意外。この四男に、私自身がこんなに大事に思われていた事も、必要とされていた事も、二十年ほど同じ家ですごしてきたわけだが全く気付いちゃいなかったのだから。
本当は、社会人生活一年目に家を出ようとしていた。次男と三男は私の気持ちを尊重してくれていたのだが、長男と六男が猛烈に反対した。私の事を大好きと恥ずかしげもなく言う五男も、長男に吹き込まれたのか「姉さんといっしょに遊べなくなるのはいやだー」といって反対派に回ってしまったし、四男は「別にどっちでもいいよ」と我関せずで、多数決の結果私は家に残る事になったのだから。
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「姉さん、」
「とりあえず、家のなか入りな。話はそれからね?」
「うん…」
私はコンビニの帰りであった。濡れたまま、私の部屋の前で立ち尽くす紫色のパーカーを着た男性の姿は、見間違えるはずもなく弟の一松の後ろ姿だった。この雨の中を傘もささないで歩いてきたのだろうか。ジャージのズボンもパーカーも、絞れそうなくらい水を滴らせている。言わずもがな、髪の毛もぐっしょり濡れていて、このままでは風邪をひきそうである。
どうして私の部屋が分かったの?とかどうしてここに来たの?とか、なんでそんな泣きそうな顔をしているの?と聞きたい事はたくさんあった。でも、長年姉を務めてきた私だから分かる。このまま放っておくと、この子は風邪をひいてしまう。私はびしょ濡れの弟を部屋へ招き入れて、風呂場へ案内した。時刻は七時を回っていた。明日は仕事が休みでしかも三連休の一日目。少し速いが、入浴を済ませてしまって、久し振りに酒を飲もうと思っていたのだ。そのため、あと数分としないうちに湯も溜まり、快適なバスタイムが過ごせるはずだろう。
脱衣所にて、タオルを準備し、着替えはこのかごに入れておくからなどの説明をしてもぼーっと突っ立ったままでいる弟を見て、世話焼きが再発し、声をかけてから服を脱がしにかかった。干渉されるのを好まないタイプだと思っていたし、実の姉に服を脱がしてもらうなんてことは成人を迎えた男の人にとって、屈辱的なことなのではないかと私は思った。しかし意外にも拒否反応を見せず、聞き分けの良い子どものように私に大人しく服を脱がされる四男を見て、本当に何があったのだろうと逆に不安をかき立てられた。
「下は自分で脱げるよね?」
「姉さん…」
「あ、ちょ…ちょっと」
インナーを脱がして、パーカーと同じように洗濯機に放り込む。首をひねって背後に立っていた弟にそう言えば、ぎゅっと抱き着かれた。上半身には何もまとっておらず、ジャージのズボンだって雨に濡れてひんやりと冷たい。お腹に回された弟の手も私より温度が低く、体の熱が持っていかれるような気持ちだ。一松は、私の首元にぐりぐりと自分の額を猫のように擦り付ける。髪が濡れているのでその行為は、私に不快感しか生まない。
「一松、冷たいから離れてよ」
「…なんでそういうこと言うの」
「や、だって…事実でしょ」
「…姉さんは、」
「え…」
姉さんは僕のこと嫌いかもしれないけど
僕は、姉さんのことすき、だし
これがいけない気持ちだって分かってるけど
でも、僕は、もういやだよ
姉さんと離れてなんて過ごせない
もう無理
我慢なんてできない
さびしいよ
ごめんなさい、姉さん
こんな弟で
ごめんなさい
僕がこんな弟だから、家を出て行ったんでしょ
置いていかないで
僕、いい子になってみせるから
おねがい
名前姉さん、すき
名前、すきだよ
だから、僕を捨てないで
そばにいて
そんな風に言われて拒める姉がいたら紹介してほしい。自分の弱いところすべてを曝け出して言葉にした一松を、どうして突き放すことができただろうか。弟は、そう言って後ろから私に抱き着いていたのを私の肩を掴んで、自分の腕の中で反転させると、冷たい唇を私の唇に重ねてきた。
「い、ち…まつ……」
「……ごめんね、姉さん。…大好きだよ、ナマエ」
その日から一松は、私のことを姉さんと呼ばなくなった。
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20160225
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