短編ログ | ナノ
あなたはずっと僕の世界にいた

※学生松

「今日はここまで。問いの5からは宿題とする。次の授業開始までに解いてくるように」
「きりーっつ、礼!」

数学は良い。計算をすればたった一つだけの解に辿り着けるから。ただただ機械的に手順通りに解いていけば、いつか必ず答えが出る。単純明快。ほんと楽。国語の物語のようにぐちゃぐちゃと読み取らなくても良いし、道徳みたいに求められる解を答える良い子を演じなくていいし。

机の上の開きっぱなしのノートと教科書。出しっ放しの筆記用具。もう、どうでもいい。僕はその上に伏せた。授業が終わった開放感に、全部がどうでも良くなる。ぼやけた薄暗い視界を閉じれば、教室の騒がしさの中に意識が溶けていくみたいだった。色んな音が聞こえる。でも、その中に僕の拾いたい音は何一つとしてなくて。

「ねえ、」

だって、唯一この有象無象の中で僕の名前を呼んでくれる弟は、今日は風邪で学校を休んだんだ。それだけで、僕の精神的な孤独は大きく膨らむのだ。はやく家に帰りたい。担任の奴はやく来い。暗闇の中でそう願っていると、ひとつの音が、僕のすぐそばから響いてきた。誰かが誰かに話しかける声だった。

「あれ?…寝てる?」

おんなじやつの呟きがまた聞こえた。そういえば、斜め前の席のやつ、授業中から寝てたな。僕はもやもやとそんなことを思い出した。コクコクと頭を揺らしていた背中を覚えている。

あ、そういえば、明日は漢字テストがあったな。ま、いっか。予習なんてしなくても満点なんて余裕余裕。あぁでも、十四松には教えてやらないとな。あいつは勝手な漢字を作ってしまうから。ほんと世話が焼ける。

その時、トントンと肩を叩かれた。僕はびっくりして飛び起きた。不意の出来事だった。ほんとうに、一ヶ月に一回あるかないかの超ド級の接触イベント。皮膚の下にある心臓が張り裂けそうなほど、胸を強く叩く。

僕の驚き様に、僕の肩を叩いたであろう張本人も、目を丸くして僕を見ている。ガタンと机と椅子が大きい音を立てたので、今では騒がしかった教室がシンと静まり返っていた。周囲から向けられる余りにも多過ぎる注目に、僕は口の中がカラカラになる。

「ご、ごめん。ものすごく驚かせたみたいだ」

(う、わ…。)

女子だ。女子に声かけられた。しかも、謝られた。
まともに目を合わせたら死んでしまいそうだ。自分が。なにこれ、すっげぇ恥ずかしい。僕が彼女の前で飛び上がったことも、僕のせいで彼女を驚かせたことも、彼女が声をかけてきてくれたことに気付かないで机に伏せていたことも。僕は自分の存在が恥ずかしい。他の生徒の目が、体に突き刺さる嫌な感じがまだ続いてる。

「松野って、十四松の兄ちゃん?」
「ぇ…あ、うん。そう…だけど…」

松野って呼ばれた。十四松の兄ちゃんかって聞かれた。
声が掠れて出てこない。聞かれていることに答えるだけの簡単なことなのに、どうして僕にはそれができないの?兄弟のみんなはできるのに。喉に声がつっかえで上手く話せない。手には汗、顔も熱い。さらには、風邪でもないのに、息も苦しくなってきた。

「えと、あー…私のこと知ってる…よね?同じクラスの苗字だけど」
「し、知ってる!…廊下側の列で、十四松の後の席…中学から一緒」

(ちょっと待て…。)

そこまで言って、僕はハタと気付いた。頭から冷水をかぶったかのように汗が噴き出す。こんなに詳しく、彼女の位置情報を伝えなくてもよかったのではないかと。むしろ、こんなに詳しく言って、気持ち悪がられただろうなと。
まただ。また、失敗した。せっかく、向こうから話しかけて来てくれたのに。しかも、女の子が。きっかけを与えてくれたのに。自己嫌悪の海に沈みかけたその時、第二波がもたらされる。

「おぉ!よかった! 私はちゃんと、松野の世界にいるんだね!」

わ、笑った…!
何が起こったか一瞬、頭の理解が追い付かなかった。けれど、僕の目を通して頭の中で処理した映像では、確かに彼女は僕に向かって、僕だけに微笑んだのだ。その事実に気付くと、身体中が火傷みたいに熱くなる。なんだか、心までぽかぽかしてきたような気がする。僕の情報処理機能が、ほんと自分に都合の良いように働いていて自分が自分で嫌になる。ほんとクズ。僕なんかに、笑いかける人間なんてこの世に家族以外でいるわけないのに。けど、それでも。さっき、彼女は。

(期待、してしまう。)

それに、何だあれ。さっきの言葉。『わたしはちゃんと、まつののせかいにいるんだね』って何だ。どういうことだ。意味が分らない。だけど、その言葉は、僕にとってとても魅力的で甘い響きを持っていたことは。確かに、確かだった。

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20160108

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