私は部室の扉の前で立っている。おろしたての靴を見つめたまま、中に入るかどうか決められないでいるのだ。あのひとには、まだ、会いたくないなあ。


いつもなら、元気いっぱいに「お疲れさまです!」と言葉を投げ入れて入る目の前の空間。でも、今日は緊張して右往左往。私の会いたくないひと、というより会う勇気が出ないひとが、もう来てるかもしれないから。


自由で軽やか。ゆったり、気まま。静かに、でもしっかりと周りを飲み込んでしまう。いつのまにかみんなの目線をかっさらうひと。普段は部室には顔を出さないくせして、コンクールの結果が分かった次の日には必ず訪れる。気にしてるのは、私だけだろうなあ。


溜息をつきそうになって、蛍丸くんの言葉と国行さんの淹れてくれたミルクティーのことを思い出す。少しほっとして、自信が湧いてきた。大丈夫。悩んでたって仕方ない。足と手を、気持ちを動かさなくちゃ。もやのかかった気持ちに晴れてほしくて、私は視線を下から目の前に移す。




「ありゃ」




「みやこちゃんだ」




心のなかに居る小さな私が頭を抱えている気がするし、私の勇気もくにゃっと曲がった。部室の前で鉢合わせるとは。小さくなって目立たなくなりたい、なんて 頭のなかでよく分からない台詞をかき混ぜながら、声の上がった方に首を向ける。


「 髭切先輩、お疲れさまです」

「うん、お疲れさま。ちょっとぶりだね」


ひらひらと右手を振りながら、ゆるやかに微笑む。相も変わらず、きれいなひと。歩いているとき、音がしないから 実は浮いているんじゃないかと私は疑ってしまう。


「入らないの?」
「 いえ、入ります」
「うん、入ろう」


やっぱり、いつもと変わらない。それに安心するような、むずがゆいような。後輩らしくドアを先に開けて、髭切先輩に先に入ってもらう。私ばっかり 困ったり、悔しくなったりしているのだ。やっぱり悔しい気持ちがひっついて離れない。


「髭切先輩!お疲れさまです!」
「コンクール、おめでとうございます」
「また1位でしたね って 久野… お疲れ…」


「お疲れさまです…」
「みんな、お疲れさま」


先輩の一人が「久野、元気出せよー」と声をかけてくれた。何回目だろう、このやりとり。写真部のみなさんは優しい。何回でも私にあったかい言葉をかけてくれるし、なんだかんだで心配をしてくれる。ただ一人を除いては。


「久野さん、お疲れさま」
「う、山姥切くん」
「う、ってなに?」
「えっと な、なんでもないよ」
「ふうん」


山姥切長義くん。足を素敵に組んで椅子に座る彼は、私に対して下から上まで目線を遣ったのち、どかんと一言。


「今回で何連敗だっけ?」


綺麗、それは綺麗に微笑んで、私に言葉の銃をつきつける。そんなの、昨日、私が私に対して何回問いかけたか。五回。五回だ。私が髭切先輩にコンクールで負けた回数。ずうっと先輩が一番。私が二番。


どうしてだか分からない。分からないけれど。写真部に入部して 一回目のコンクールのあとから 山姥切くんは私に対してずっとこんな風だ。初めは優しくしてくれていたのに、私は何をしてしまったのか。考えても未だに分からない。


「…五回」
「五回。五回かあ。そろそろ諦めた方がいいんじゃない?」
「諦めません!」


どうして山姥切くんが私につっかかるのかは謎だ。だけど、そんな言葉に怯んでなんてやらない。すかさず突いた私の声に、山姥切くんも一息詰まる。誰の言葉も浮かばない静かな空間で、山姥切くんと私の周りだけがひりひりと熱い。山姥切くんの目線に負けたくなくて、目を逸らしてやるもんか、と思う。


「長義くん、意地悪しない」


静かな空間に軽やかな声が乗った。髭切先輩が山姥切くんと私の間に立つ。山姥切くんは眉を少し上げたあと、小声で「すみません」と放って 傍にあった鞄の取っ手を掴む。掴んだと思ったら、つかつかと小気味よい音を鳴らして部室を出ていった。


「久野、大変だなあ」
「いえ… 雰囲気を固くしてしまってすみません…」
「いや。気にすんなよ」
「俺たち 次のコマの授業があるからいったん抜けるけど、部会には来るから」
「私も同じく。はい。これ食べて元気出して」


お菓子をもらえて嬉しい。感謝の言葉をお渡しする。優しいなあ。準備をして、先輩方が部室を後にする。




「いい写真だったね」

「構図も前よりずっとよくなってる。色味に関してはみやこちゃんの世界観がきちんと出ていたし」




私に背中を向けて 本棚に並ぶ写真集の背表紙を人差し指でそっと撫でながら、髭切先輩が私に話しかける。


髭切先輩は私の二つ上、写真部のエース。コンクールに出した写真は全て入選、かつ一等賞。プロのカメラマンさんのお手伝いもしていて、引く手数多。将来は薔薇色が溢れてこぼれてしまいそうな有望株。


優しい象牙色の髪の毛、すらりと伸びる手と足に、ふさふさの睫毛、ぱっちり開くきらりとした目、横顔だって言うことなし。穏やかに見えて たくさんの武器を持っている先輩は、周りを波みたいに優しくさらっていってしまう。


かく言う私も、髭切先輩の写真のファンの一人。髭切先輩がこの大学の写真部に居ると聞いて入学するくらいにはファン。でも、それと同じくらい 私は負けたくないのだ、このひとに。


写真部に入部して早々、私は髭切先輩に向かって啖呵を切った。


「ファンです!だけど、負けません!絶対に私が写真であなたを負かします!」


周りの先輩はびっくりしたらしい。あまりにも髭切先輩がすごいから、それに勝つなんていう考えが思いつかなかったと。久野はすごいな!と色んな先輩に言われたのを覚えてる。


私は髭切さんの写真のファンだけど。でも、それ以上に 写真が好きなのだ。好きなもので一番になりたい。一番になるには目の前のこのすごいひとを追い抜かすしかないのである。



「みやこちゃん」
「 はい、」


「僕はすごく好きだよ」



「今回の写真も」と のたまう髭切先輩。



私はこのひとのおかげで落ち込む。でも、このひとのおかげで嬉しくなる。大学に入ってから ずっとそう。鼻がつんとして 目が熱くなって そのままじわりと滲んでいきそうになって、止める。私は髭切先輩の前では、絶対に泣かない。二回、負けた気になってしまうから。


でも、悲しきかな。私は嘘をつくのが下手で、遠回しな言い方を知らない。こと、写真に関しては。


「先輩の写真、すごく素敵でした」


「みやこちゃんに褒められると嬉しいな」
「他のひとも、みんな そう思ってますよ」
「うーん…」


「それでも、みやこちゃんに言われるのが嬉しいんだよ」



髭切先輩が窓を少し開けた。入ってくる風が先輩の髪を揺らす。太陽の光が当たる先輩の髪の毛はプリズムみたいに光る。窓を透かしたあと、先輩は私の前に立って ふんわりと微笑む。


「次の写真も期待してるね」


そう言って、私の頭を撫でる。



「みやこちゃんは犬みたい」
「…そうですか」
「うん。嘘がつけないぶん、全部顔に出ちゃうんだなあ」
「…?」
「ほら、犬って尻尾を見たら分かるでしょ。喜怒哀楽が」
「はい…」


「かわいいね」


人間という生きものは不思議だ。昨日まで 負けて悔しくってどうにかなってしまいそうだったのに。自分を負かした相手からの一言で 嬉しくなって、舞い上がる。自分の悩みの種の相手のことを尊敬して、すごいなって思ってしまう。尊敬しているひとだから、他のひとに褒められるよりも 嬉しく感じるのかなあ。


美しくって、すごくって、存在していることをたまに疑ってしまう目の前のひと。言葉数は多くない。だから、渡してくれる言葉を大切にしたいと思う。だけど、ひょうひょうとしている先輩のことだから、そこまで深く考えず ぽろりと言葉をこぼしているのかもしれない。


しばらく、誰も部室に来なければいいのにと思う。そうしたら、少しでも頭を撫でてもらえる時間が長くなるんじゃないかって ずるいことを考える。



どうして、こんな手ごわいひとを好きになってしまったのかなあ。わたし。





の匂いがまだ消えない
title by 夜半



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