籠屋本編 | ナノ

二.花と貴方へ
93.戌



 店先で犬が吠えている。洒落た和洋の喫茶店、看板の鉄脚に繋がれながら四つ脚を広げ精一杯体を大きく見せるも黒い瞳がこちらに寄るなと訴えて、その様があまりに滑稽なのでゆるりと近付き膝を折ると、犬はぴたりと鳴き止んだ。

「可愛らしい」

 微笑う宵ノ進に見つめられた犬は硬直したまま動かない。胴をそっと撫でてやると伝わる小さな震えに手を膝上に戻すと杯を仰ぐ。

「怯えているようだが?」
「ええ、わたくし、よく吠えられるのですよ。お花の香りなのかしら」
「香りで怯えはしないと思うが」
「はじめから吠えねば良いのですよ」

 杯が手を差し出すと、一瞬の間の後やんわりと手をとる。引いて歩けば、からころと下駄を転がしながら一歩後ろでぼんやり見つめたままとことこついてきて、店先で回る風車に気付くまでただただ無言だった。
 先を行くほどに赤い風車は増えてゆく。視界をちらつく赤に宵ノ進は視線を泳がせて、耐えきれずに前を行く杯を呼んだ。

「杯様、かざぐるまが――……」

 足を止め静かに見下ろす杯は、おろおろと視線を周囲へ向ける宵ノ進を撫で付けて店先を見るも、格子に嵌まる硝子に自分の姿が映っているだけだった。

「……もうすぐ知人の店だが、そこまで歩けるか?」

 道行く人々がちらりちらりと視線を遣りながら通りすぎて行く中、一人の顔が剥がれて落ちた。
 ぼたり、顔の剥がれて真っ黒な首がじっと宵ノ進を視たまま動かずに、ぼたりぼたりと耳が音を拾うとその数は増えていく。
 
「ぁ…………、あ………………!」

 眼を見開いたまま顔に爪を立てようとした宵ノ進を杯が制し、何度呼び掛けるも道先に視線を遣ったまま応えない。強張る体はまだ手を離さずにいてくれるが、がたがたと震えている。

(何を、視ている……?)

 周囲に増えてゆく黒い顔が真っ二つに割れ断面から吹き出る鮮血に笑い声が混じる。
 地面に倒れた衣装は血に濡れ乱れた男娼の、かつて目の前で斬り殺されていったものに酷似していた。次々と上がる笑い声、その度に染まる着物、冷えてゆく体。がちがちと歯が鳴る。
 待って、止めて、どうか。それらを口にすれば斬り殺されてしまう。誰に。そんなのはじめから――。



「宵ノ進」
「――は、……」

 古ぼけた長椅子に座らされていた宵ノ進は短く息を飲むと低い声の方を向く。
 隣に腰掛けやや前屈みで覗く白いシャツに橙の髪、口元と眼で追っていくと静かにたたえた淡藤色とぶつかる。手を伸ばそうとみじろぐと、肩に掛けられたジャケットがずり落ちた。

「店主が茶を淹れてくれた。飲め」

 宵ノ進の肩にジャケットを掛け直しながら言う杯は、古びた座卓に置かれたほうじ茶を差し出す。この店の店主はいつ来ようが飲むにはだいぶ熱い茶を出すのだが、生憎程好い加減まで冷めている。
 言われるままに受け取り口にした宵ノ進は薄暗い店内に瞬く。すすけたような木組みの部屋には縦長の置時計が二台並び、それぞれ別々の時刻を指している。立て掛けられた古い番傘、小皿に入った金平糖、奥の飾り棚に鎮座する太刀。
 全く馴染みの無さそうなこじんまりとした古い店、投げ出すように置かれた紙束と鉛筆、ちぎられた一枚には「ごゆっくり」。

 人の出てくる気配はなく、かちこちと鳴る置時計の片割れが重たげに針を持ち上げる中、じんわり広がる茶に温められた宵ノ進はぽつりと言った。

「善い、方ですね……」

 顔を合わせる気はないが、疎ましく思う訳でもない。
 そのような気遣いをすぐに掬い取ってしまう。そして、慣れてしまっている。訳あって姿を晒せぬ者との距離と、卑しいと顔を背ける者との距離に。

「怯えた訳ではない」
「……はい」
「何を視ていた」
「執念、にございますよ」

 宵ノ進は疲れの滲む顔で微笑った。
 杯は口を開きかけるも言葉を飲み込む。覚えてはいまい、手を掴んだまま怯えきって震えた身体は杯にしがみついてきたが、片腕を一杯に伸ばした先は肩口で止まり息を圧し殺していたそれは助けを乞うものではなかった。庇い隠す仕草である。

「店主からこれを預かっている。私の頼んだものは割れてしまったそうだからな」

 杯は紫の紐で括られた桐箱を差し出す。

「……開けても宜しいですか?」

 受け取った宵ノ進はするりと紐を解き、桐箱を開くと瞬いた。
 黒漆の鞘、見事な誂えの短刀が収まっている。

「守り刀にと。小さな品を依頼していたのだが、何度やっても割れたそうでな」
「それで、わたくし助かったのですか……」

 宵ノ進は黒鞘を一撫でした。杯がこの店へ運んでこなければ、続いていたであろう悪い夢。

(あれは、幻などではなかった……けれど、あんなにも引き込まれたことも、今までは……)

「ありがとう、ございます」

 宵ノ進は深々と頭を下げた。






「美味しい……」

 厚みのあるふわふわのパンケーキにとろりと笑った宵ノ進は蜂蜜を絡めて小さな口へ運ぶ。余程気に入ったのか、幸せそうにゆっくりと食べる姿を見ながら珈琲を飲む杯は、一口大に切ったガナッシュケーキを口にすると不思議そうに見つめる宵ノ進と目が合った。

「…………食べるか?」

 これほどまでに飲み込むまでが長く感じたことはない。普段籠屋で食事をしていく際には見続ける、等しないでくれているのだが、気を遣うな、を守るとこういうことになるらしい。皿を差し出そうとすると、宵ノ進はフォークを置ききょとんとした顔で言った。

「くださいませ、杯様」

 小さな喫茶店、通りに面した二人掛けの席とはいえ、小窓と観葉植物で見えはしないがカウンターから躓いたような音が聞こえる。柔らかなクラシックに紛れて店内奥の姿の見えぬ他客のお喋りが耳を刺し、その間を面白そうに微笑う宵ノ進は「冗談です」とフォークを持ち直した。

「いや、食べろ」

 フォークに刺したガナッシュケーキを差し出す杯に、今度は驚いて瞬いた宵ノ進は言葉に詰まった。

「ええと、杯様……? ふふ、こんなにもお行儀のわるい杯様は初めてなのではないかしら」
「嫌か?」
「いいえ」

 御互い様だとガナッシュケーキをさらう宵ノ進はしばし感情の読めぬ表情と、容易く食材工程の割れる洋菓子を味わった。





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