甲子園球場で現実を叩きつけられて帰ってきた、夏。落ち込む暇もなく練習に明け暮れる毎日だ。曇っていた空は次第に晴れてきて、お昼を過ぎたあたりからかんかんと照ってきた。Tシャツの袖をたくしあげタオルを首に巻き、両手いっぱいに異臭を放つ洗濯物を抱えるわたしは、理想の女子マネ像からはほど遠いだろう。休憩時に飲み物を持っていくのとか、試合に負けて涙を流すのとか、そういうのはかわいい後輩たちに任せている。適材適所を弁えたわたしが山ノ井から言われた最新のフレーズは「オレのエロ本探してくんね?」だ。表紙だけで誰のか検討がついてしまう悲しい特技を呪いつつ、部室から探し出して彼のエナメルに突っ込むのが午前中の仕事だった。
ユニフォームを洗うために水道に来たはいいものの、もはやお湯しか出ない。うだるような熱気と蒸せ返るにおいに参ってしまっていた。流れていく水をぼうっと眺める過程に入ったわたしは、近づく話し声にも反応する気力が見つからない。少し眩暈もするかもしれない。くらっと体が傾く瞬間、頭上に軽い音と何かの感触が落ちる。見ると野球部の帽子がツバを後ろにして乗っていた。思わず振り向けば校舎に向かう和己たちの背中がある。さんさんと降り注ぐ太陽光を綺麗に染めた髪の毛ではねっかえしているのは、左端のあいつだけだ。控えめに漂うライムの香りにときめきかけたのは、きっとひと夏のアバンチュールというやつだ。
お湯の方が汚れ落ちがいいと落とし前をつけたわたしは、その場にしゃがみ洗濯を始めた。いざ始めれば意外と楽しいものだ。蔓延するにおいをシャボンの香りで打ち消すことに精を出していると、遠くから高瀬くんが涼しげな音を鳴らして走ってくる。投手のポジションと端正な顔立ちからか、校内でもイケメンエースやらなんとか王子やらと持て囃される彼は、足音まで軽やかだった。まさか自分の後ろでその音が止まるとは思わず、またあいつらの企みかと疑ってしまうのは、何らかの職業病だから早く治してもらいたい。
「先輩!あの、これ」
「え、どうしたの」
「慎吾さんに持ってけと……顔赤いですよ。大丈夫ですか」
音の正体は冷えたスクイズボトルだったのか。何気なく頬に当ててみると気持ちがいい。そういえば部員には水分補給を口うるさく言っていたものの、自分は棚に上げていた。意識した途端喉が渇き出す。これを摂取したいのは山々だけれど、ひとつの懸念がよぎり、ちらりとその顔を見た。浸る汗も魅力のひとつにしてしまえるような余裕が、彼にはあった。
「……わたし皆みたくがーって飲めないんだけど、口つけても平気?」
「あ、はい。大丈夫です」
まあ、先輩に聞かれたら断れるわけないか。中身も半分くらいだし、飲みきって洗って戻せばいいよね。今回はお言葉に甘えることにして、ボトルの先を口に含む。真夏の空の下太陽を見上げて飲み込んだやや薄いアクエリアスは、感動的においしかった。冷たさが体の真ん中をつっきっていくのを感じる。まるで生き返るような心地で、満足したわたしはまた頬を冷やしていた。彼もそのまま、佇んでいる。この沈黙はどうしたものか。周りからの注目を集める高瀬くんと裏方気質のわたしの接点はどうもなく、ほとんど話したことがない。必要以上に洗剤を泡立てながら、必死で話題を探していた。
「……帽子、どうしたんですか」
「え!あ、慎吾がかぶせてった。あいつ自分のあるの?」
「部室に落ちてたホコリまみれのやつかぶってます」
「あのばか。取り替えてくる」
「あ、オレ行きますよ」
彼はわたしの帽子を頭から外す。瞬間落ちてくる日差しは、同じ素材で遮られたようだった。わたしの頭には遠慮がちに置かれたそれが不恰好に浮いている。あ、ツバ前にしてくれたんだ。彼はきょとんと眺めるわたしを横目に、わたしの、というより慎吾の帽子を目深にかぶる。行きますと言った割に動く気配はなく、洗濯物をすすぐのを黙って見ていた。
「……そのボトルオレのなんです」
「そうなの?!ごめん!」
だから離れられなかったのか。部の備品だとばかり思っていたから返すなんて行為は全く思いつかなくて、悠々と涼んでしまっていた。しかも口をつけたこれをそのまま返していいものか一瞬迷い、差し出した手を引っ込める。待って、これ意地悪しているみたいだ。フェイントをかけられた彼は空を切った手のひらを見つめて笑った。
「ご、ごめんなさい」
「オレがいいって言ったんだから、いいんですよ」
ボトルを受け取り立ち上がった彼は、誰かを探すような仕草でグラウンドへと走って行った。その背中を見送って、一応こそこそと隠れながら、頭に浮いたそれを深くかぶり直す。アクアマリンの香りで上書きされた今年の夏は、まだまだ残暑が続くようだ。
20161016 title:さよならの惑星
Thank you for 4th anniversary!
結菜さまへ
「桐青メンバーと賑やかな日常」という内容で書かせていただきました。賑やか……ではないですね……ごめんなさい。もはや高瀬くんのお話ですが楽しんでもらえれば幸いです。リクエストありがとうございました!これからもよろしくお願いいたします。