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17歳の秋は、これだけで終わらせてくれるほど甘くない。文化祭から三日にあげずわたしたちは第2のお祭りへと旅立つのだ。どうやり過ごそうかとばかり考えていたのに急に色づいてしまったから、大慌てで買いに行ったワンピースに腕を通す。調子に乗って上着やバックまで新調したのだ。ひと通り揃えてみれば靴だけがどうにもくたびれているけれど、あの鎌倉遠足を鑑みればこうする以外にない。今まで散々悩んできたのだ、靴ひとつでどうにかなるなら儲けさえ出る。そもそも彼以外の友人たちだっているのに、やり過ごすなんて失礼な話だった。一生に一度きりの修学旅行を、外からも内からも、万全の態勢で迎えられることがただ嬉しかった。

その日の夕食は大広間に集まり全員で食べることになっていた。宿でのくくりは部屋ごとだ。荷物を置き同室の女の子たちとお喋りをしながら向かうと、彼の隣の座布団が部屋の人数分きっかり空けられている。文化祭であれだけ目立ったわたしたちは、これまた浮かれるイベントの最中でいい標的になっていた。寸分の誤差もなく並べられたお膳たちが立っている。乗らない方が無粋だった。電車ごっこの要領で先頭に据えられ、押されるがまま彼の隣にたどり着く。新幹線も、バスも。集合写真ですらわたしたちは間の無いよう定められていた。今日だけで何度目かの定位置にちっとも飽きがこないのは、お膳の味付けが丁度いいからに違いない。

その矢先、彼の側から小鉢が差し出された。中にはほうれん草と明太子の和え物が綺麗に収まっている。彼は魚卵が大の苦手だ。お弁当を作るために書いてもらったリストの一番上にあったから、相当苦手なのだと思う。しかし出されたものは決して残さない。ご両親の教えの賜物を、わたしがどうにかできるなら、それはもう応えるしかないのだ。

「美味しいよ。いい塩加減で」
「なんでだか昔からだめで……みかんもすきだったよね、あげる」
「ありがとう。ね、なんでわたしみかんすきだと思うの?いやまあすきなんだけどさ」

彼は端に置いてあったみかんの上に、雪だるまを作るようにもうひとつを重ねる。意志を与えられたそれは、極めてささやかなバランスで形を保っていた。甘いものはたいてい好物なんて、悪そうな奴は大体友達みたいに言いたくはないけれど事実だから仕方ない。ただ、ピンポイントですきだと言った覚えはないのだ。数ある選択肢の中でなぜあの答えが出たのか、興味があった。

「中学時代、早退する深雪を偶然見かけて。そうしたら給食の冷凍みかん食べ過ぎてお腹壊したって言うから」
「ああ、あったねそんなの……やだもう忘れて!」
「かわいいエピソードじゃん」
「恥ずかしい……勇人が知ってるってことは、噂にでもなってたの」
「あ……え、目黒から聞いてない?」

言うからって、誰がだ。あの頃はクラスも違えば通学路も正反対でまず接点がなかった。彼女の名前を出されても心当たりがないから首を振ると、彼の視線がゆっくりとわたしから外れ、あてもなく泳いでいく。確かあの日は一緒に帰る約束をしていた彼女にだけ、早退する理由をメールで伝えたのだ。ふたりは当時も仲が良かったから、何かの拍子に話が出たくらいなら別にいいのだけれど、この様子は何かを隠している。結んでしまった唇に例の和え物を差し出して、恋人の戯れを装い彼の自白を企てた。

「……かわいいなって思ってた子が目黒の親友だって言うから、色々聞いてた」
「え、初耳」
「ああもう、墓穴掘った」

あのやわらかい春のひかりが差し込んでいた日、彼はどこか余裕ぶってわたしを助けた。名前も知っていたし、一緒に帰る流れで野球部のマネジも勧めてきたりして、今思えばとても要領がよかった。あのとき既に彼とめぐは共犯関係を結んでいたのだ。そう考えると、隣の席なんていうのはもう大事件ではないだろうか。下手したら、運命だ。顔を手で覆い、耳まで赤らめる彼の隣で、わたしもだんだんと同じ色を帯びていく。大人びた言葉を使う彼につられ、わたしまでたいそうな言葉を当てはめそうになる。しっかりしろ。今日の失態なんて、旅に免じてかき捨ててしまえばいい。まあそんなこと、絶対に言ってあげないけれど。



▽▽▽



腹をこしらえたら身を清める時間だ。女の子の夜には、決して飛ばすことのできない儀式がある。化粧水を入れ込み、ナイトパウダーをはたき、髪に天使の輪を忍ばせる。それぞれがふさわしいおめかしをして長い夜に臨むわけだけれど、出遅れたわたしは場所取りその他諸々の手合いに負け、気づいたら彼との待ち合わせの時間に部屋を飛び出すという体たらくだった。宿自慢の庭園を、消灯までは見て回れるというから歩いてみようと話をしていたのだ。結局周りのお膳立てがなくたって、わたしたちは一緒にいる。いちばんおあつい時期というやつなのだ。ほかほかと湯気を立てる体を携えて、階段も一段飛ばしでロビーまで走る。既に着いていた彼はわたしを見るなりわかりやすくびっくりして、頓狂な声をあげた。

「髪乾いてなくない?!」
「大丈夫!」
「いやだめだって!ちゃんとドライヤーかけたの」
「よ、40秒くらい」
「オレはドーラか」

わたしの髪に指を差し込んだ彼は、先日放送していたアニメ映画の一節を含ませ苦く笑う。一房掬って軽く握れば、留まりきれなかった水滴がぽたぽたと、彼の袖を濡らした。流石にわたしも口を噤んで、でも帰されたくはないからどうにか言い訳を探していたけれど、ドライヤーとタオルを手にした気の利く女将さんに手頃な和室まで案内されてしまっては、躱す術などなかった。

「かけたげるから座って」
「すみません……」
「庭園は明日ね」

四畳の部屋に座布団を並べ、足を伸ばして座る。近くで宴会でもしているのか陽気な笑い声が、割に緊迫している空気を和らげるように流れていた。理由がどうあれ密室なのだ。異性の部屋へは立入禁止ときつく言われているけれど、この場合は許されるのだろうか。言われてないから、いいか。彼の指が耳の後ろからすべり込み、ひとまとめにした髪の毛をタオルで包むと、頭のてっぺんで固定するようわたしに指示した。少しだけ低い彼の体温と、細やかな指先の感触に首をすくめる。見ればジャージの襟から中に着たTシャツまで水が染み込んでいた。風邪をひかないように、まずはここから乾かすと彼は言う。上着を半分押し下げ肩を出すような格好で、あろうことかおめかしの仕上げを逢瀬の相手に委ねていた。

「はい、いいかな」
「ありがとう。今度はわたしがやる」
「オレは平気だよ」
「やりたいの」

馴染みのないシャンプーの香りが、わたしを勇敢にさせる。無理矢理にドライヤーを奪い指を通せば確かに乾かす意味はなく、ただわたしの欲だけで成り立つ行為だった。彼に触れられるならなんだってよかった。彼の短髪はわたしを少しも拒まず、容易く地肌に触れられてしまえる。口実にすらならない優しい風をあてながら、彼の頭を愛おしく撫でていた。

「家じゃ自然乾燥だからなあ。懐かしい」
「お母さんに?」
「そうだね。……知ってるかな、中2の春に亡くなったんだ」

はっとしてドライヤーのスイッチを切り、彼の声を背中越しに受け止める。そういえば、応援に行っても見かけなかった。家に行くとなったときお父さんやご姉弟の都合は言うのに、お母さんに関しては全く出てこない。調味料や調理器具が少なく、整然とした台所。僅かに開いていた襖の奥に見えた仏壇。今までの小さな違和感が瞬く間につながって、ぽんと出た頭上の閃きが、わたしの言葉を真っ白にしてしまった。

「子どもの頃って、親に見てもらいたくてがんばるとこあるじゃん。それがいきなりなくなって、結構凹んで。正直野球も中学でやめようかと思ってたんだ」

彼が西浦の野球部に入ったのは至極当然のことで、何の迷いも葛藤も無いと思っていた。そんな素振りを少しも見せなかった。その前に、見せてもらえる立場になかった。

「でもね、去年の夏深雪が『もっと見てたかった』って泣きながら言ってくれて。覚えてる?」
「……んーと、あんまり……」
「あはは、そうだよね。そもそもオレ個人じゃなくて野球部に宛てた言葉だってのもわかってる。視界の片隅でよかった。少しでもオレを映してくれてるひとがいるんだなあって、大分救われたんだよ」

わたしが覚えてすらいない言葉を、彼はまるで宝物のように、慈しむかのように話す。こんなに大切にしてくれるなら、箱に入れてリボンもかけて、わたしだってきちんとしたかった。彼の見た世界をそのまま自分のものにできたらよかった。面と向かっていながら見落とした自分が許せなくて、怒りさえ湧いてくる。胸の奥から溢れ出てきたそれは、空気に触れた瞬間水となって、静かにわたしの頬を伝う。彼に気付かれぬよう必死にくちびるを噛み締めていたけれど、宴もたけなわな隣室からの背景音楽にそぐわないすすり声は、よく響いた。

「なんで深雪が泣くの」
「わたし、ちっとも、知らなくて」
「伝えてないからね。そりゃそうだ」
「こんなに大事にしてくれるようなこと、言ったつもりもなくて」
「うん」
「わたしは救ってなんかない。勇人が勇人を救っただけだよ」

まるであすなろを抱くように、その体に腕を回す。これは彼の悪癖だ。勝手に解釈して納得して、解決したように思い込む。わたしは彼を救おうとしていないし、仮に救われたと感じたなら、それは自分が自分を救っただけなのだ。わたしではなく、彼の力で。こんな心の奥でまで手柄をひとに押し付けてしまう、どこまでもお人好しな彼の優しさが、今はひどく憎らしい。

「勇人は他人に気を配って、周りをよく見てる。誰かが困ってるとすぐ寄り添いにいく。それは、あなたの長所」
「……うん」
「でも、自分が困ってもひとの力を借りない。自分でなんとかできちゃうから。わたしにも返させてよ。もっと頼ってよ」

いつか彼がクッキーになぞって、体内に取り込んだ言葉。その思いは、わたしの血肉となりからだ中をかけ巡っている。もう、受け取るだけでは足りないのだ。

「わたしは、あなたを救うべくして救いたい」

抱きしめているのをいいことに、空気さえも入らないくらいの耳元で、彼のやわらかい声が咽ぶのもわかる距離で、ささやく。腕に落ちたのはきっと、乾かしきれなかった雫だ。震えを止めたいのではない。一緒に震えて同調して、やがて穏やかになっていけばいい。雫だって、風を吹かせるのではなく包んで温めて、やがて染み込んでくれればいい。何かにしがみついて泣きたいときなんか誰にだってある。彼のことだから、万が一跡でもつけてしまったら負い目を感じるに違いない。そうならないよう、わたしが先に爪を切っておこう。彼に自分を責める理由をひとつたりとも残さないように。彼の全てを、なんの障壁もなく受け止められるように。

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