海辺とめがねと我が儘と


願ったことがある、いつかあの島に行けますようにと。シュテルンビルト、その最下層に広がる浅瀬の海、さらにその海原の果てに見えるのは、こんもりとした黒くぼやけた影。雲ひとつ浮かんでいない、水彩絵の具で塗りつくしたようなあさぎ色の空。晩秋だというのに、「小春日和」というらしい。綺麗だ、と思う。しらしらと太陽が波間に反射して、海がうろこのような光を放っている。

海は生命の源だ、と虎徹さんが僕に教えた。すべての生物の歴史は、海に落ちたひとすじの雷からはじまった。たしかアミノ酸がどうとかで、こうとかだと虎徹さんは言っていた。後半から聞くに堪えないくらい支離滅裂なことをグダグダ意味もなく語っていたため、その内容の大半は覚えていないのだけれど。僕は貝殻を拾うわけでもなく、乾いた砂浜を歩いていた。無心で、ただひたすらに。そのたび深紅のブーツのつま先が、温い砂に埋もれる。

ときおり塩からいにおいの風が吹いて、僕の頬に沁みてゆく。毛先が鼻をくすぐってむず痒くなり、可愛げのないくしゃみをひとつ。「…ぐしっ」。ぶるり、と背筋が震える。

けれども、僕にはその塩からさがわからない。知る由もない。海に入ったことがなければ、海を舐めたこともないのだから。ただ、知らない、といえばそれはうそになる。幼い頃、マーベリックさんに手をひかれ、一度だけこの海をおとずれたことがある。初めての海に興奮してしまった僕は、岩場でつるりと滑り、そのまま水面に転落。飛沫があがる。手足の自由は波にうばわれ、おいしくもない海水をがぶがぶ飲んだ。それはもう、嫌というほどに。朦朧とする意識のなかで、水面にゆらゆら注ぎ込むわずかな白い光を、僕はぼんやりと眺めることしかできず、気がつけば病院の白いベッドの上。そういうわけで、僕が海の味を知るわけがなかった。母なる海、そのやさしいはずの味を綺麗さっぱり忘れてしまったのだ。

この海を渡ってあの島に往けば、僕は自由になれるのかもしれない。それは、僕のひょんな発想だった。ヒーローという肩書を、バーナビー・ブルックスJr.の名前を、すべてすべてこの海に流して流して流し去って、そうして空っぽになったままで、シュテルンビルトとは遠く離れたあの島に上陸さえすれば、僕は自由になれるのかもしれない。なんて、そんな我ながら馬鹿げているとは思うけれど。

指先に絡んでゆく潮風が、僕の体温をゆるく奪う。おかげで僕の指はまるで、血が通っていないようである。わずかな暖をとるために、その指先を自身のジャケットのポケットにつっこんだ。「寒いから早く帰りたい」、などと文句を垂れれば、あの人はまたしかめ面をするだろう。「元はといえば、バニーが浜辺に寄っていこうって言ったんだろ」なんて言いながら。ふと顔をあげると、ぶわりと顔面に浜風が吹きつけた。やはり海風は、つめたい。


「バニーも食べるか?」


ふいに声が背中に投げかけられ、そちらをふり返ると、きょうの日射しのようにおだやかな笑みをたたえる虎徹さん。その手にはこの海とおなじ、鮮やかな緑色をしたアイスクリームが握られている。彼の後方には白い小屋のようなパーラーが見えるが、利用客はほとんどいない、というかむしろゼロである。こんな寒い日にどうしてアイスクリームを買おうと思ったのか、と虎徹さんをいぶかしげな目つきで見ると、彼は眉毛をへにゃりと垂れ下げ困ったような顔で答えた。


「あれ、ダメだった? アイス。せっかく俺が奢ってやるって言ってンのに」
「アイスクリームはともかく、チョコミント味は化学的な味がするから嫌いです。どうせならチョコレートとか、ストロベリーとか、まともな味が良かった」
「ヘえへえそうですかァ、バニーちゃんは贅沢ですねえ。いいもーん、俺が全部食べるから」


ちぇ、なんて口を突き出しながらも、彼はそのアイスクリームをうれしそうに舐めていた。ときどき彼が見せる、子供のようなあどけない顔。「見ているこっちが寒くなりますよ」、そう不満ありげに呟くと、「いいだろ? 俺が好きで食べてンだから」と眉根をひそめて答えた。



きらきらと乱反射する波が、しずかに横たわる水平線のそばでさざめいていた。昼下がりの太陽がぼんやりと白砂を照らし、まぶしく反射するその光にうっすらと目を細める。長い沈黙のすきまを、空を舞ううみねこの羽音がうめてゆく。男同士、しかもコンビの相方とともに海辺を訪れても、恋人同士でもあるまい、いまさら改まって何か話す必要もなのだろう。虎徹さんをちらりと盗み見ると、あいも変わらずアイスクリームに夢中になっている。彼の赤い舌が、アイスクリームが溶けだしたコーンの上をなぞるように舐めて、僕の心臓はどきりとはねた。

ひょう、とふいに突風がふき、虎徹さんのハンチングが宙に舞った。まるで海鳥が渡ってゆくかのように、空高くそれは宙を駆ける。「うお!」彼は慌ててそれを抑えようとしたのだろう、その片手が僕の顔面に乱暴にぶつかる。視界が揺らぎ、カチャリと軽い音がしたかと思えば、僕の眼鏡は落下し、刹那のうちに波間に飲みこまれてしまった。急にピントがずれ、ぼやけはじめた世界に僕は混乱した。


「うわ、やべえ」


僕の隣を歩いていた虎徹さんが走りながら沖の方向へ進んでゆき、気がついたら彼は靴を履いたままでひざ下まで海に浸っていた。ざぶざぶと、波間をかきわける音。距離があり鮮明に見ることはできないが、どうやら虎徹さんは腰を折り、水中にあるはずの僕の眼鏡を探してくれているようだった。「こてつさん」、そうひとこと彼の名前を呼べど、彼がそれに気づくはずがない。波の音が、風の音が、僕の声をさらうからだ。「こてつさん、別にひろわなくても」眼鏡なんていくらでもスペアがあるので。聞こえないとわかっていながらも僕は大きな声で彼に話しかけながら、白波の中へと足をすすめた。僕のために、そんな。ざぶり、とブーツの中に海水が染みこむ。


「虎徹さん、眼鏡、いいです」
「オマエが良くても俺がだめなんだ」
「いいですって、スペアがあるので」
「それとこれとは別のはなしだろ」
「本当にいいんです、うわ」


脛に真っ黒い浮遊物がからまり(おそらくあれは海藻の類だった)、それに恐れをなしてしまった僕はそのまま晩秋の海へと飛びこんだ。こともあろうに、虎徹さん、彼の腕を強引に掴んでしまったため、ふたりとも顔面から綺麗につっこんでしまった。「だ!」、彼の叫び声は虚しく宙に分散し、響き渡ったのは白い飛沫のあがる音だけ。なにが悲しくて男ふたりで秋の浜辺で海水浴をせねばならないのか。虎徹さんの額から垂れ下がっている海藻を見て、僕はなんてことをしてしまったんだろう、と顔面蒼白した。


「バニー、おまえなあ」


長い沈黙が訪れる。罪悪感はあった。叱られても仕方ないだろう。寄せては返してゆく波が、僕の腰をひやりと冷たくしてゆく。これこそ風邪をひいてしまうな、と僕は自身の行動を反省した。ザザン、ザザン…。いったいどの波がこの音を出しているのだろう。近くの岩場か、それともあの島のすぐ近くか。低く唸る風の音。僕の心がざわめきだす。

「なあ、バニー」
「はい」
「オマエ、よく見ると美人だなあ。目の色がきょうの海とおなじ色してら」


おだやかにやさしい微笑をたたえる彼は、アイスクリームを頬ばっていたときとは別人のように見えた。目元の細いしわ。深い琥珀色の瞳。その笑顔は、子どものようなそれとはまるで違っていた。むしろその瞳の投げ方はは。僕がずっと憧れていた、僕がずっと欲しかった、そんな表情をいま僕に向けるなんて、そんなのまるで卑怯じゃないか。心臓が抉られるような気がした。


「なァーんてな。ハハッ、俺に惚れてもいいぜ? バニー」
「だれがそんなこと」


僕はすぐさま俯いた。目の前で透明な水がたゆたうのを、ただじっと見つめていた。口に入った海水は、想像していたよりもはるかに塩からかった。思わず、その場でペッと吐きだしてしまいたくなるほど。これが生命の源、母なる海ってやつの味だ、とそう教えてくれたのは虎徹さんだ。母のような、父のような、そんな彼のまなざしも僕に向ける彼のやさしさも、吐きだしてしまいたくなるほどだ。頬がひどく火照った。心臓が早鐘を打っている。まったく無茶苦茶だ、この煩わしい感情は。





「あれだなー、いまごろオマエの眼鏡は、ちゃぷちゃぷ流されながらあの島に向かってンのかもな。いやー良かった、流れたのがバニーじゃなくて」


浜にあがり、ぐっしょりと濡れてしまった靴下をぎゅうぎゅうしぼりながら、彼はそういった。陽のあたるあたたかな白浜の上に脱いだ靴をそろえて置いて、僕と虎徹さんは裸足で過ごした。指の間に砂が入り込んでくる感触は、とてもくすぐったい。


「僕が流れるはずがありませんよ」


向かい風をうけながら僕はそう答える。当り前だ、僕だって伊達にヒーローをやっているわけではない。海にたゆたう流木やなにかのように、黙って流されてゆくはずがない。僕の背後で、胡坐をかいて座っている虎徹さんをちらりと盗み見ると、落ちかけた陽光が彼の浅黒い肌をやさしく照らしていた。「もしバニーが流れたら」、と虎徹さんは唐突に言う。「もしバニーがあの島に流れたら、あの灯台に登って毎日毎日待ち続けるんだろうなあ、オマエのこと」。おだやかに吹きつける潮風とともに流れるよう、彼はごく自然にそう言った。ずしりと心が重くなった、そんな気がした。

あなたがあの島に泳いで来ればいいんです、それくらいの体力はあるはずでしょう、おじさん。しぼりだすように、投げつけるように、彼にそういい放った。くるしくて仕方がない。返されるであろう返答がなにであるか、僕はもうほとんど知っていたから。虎徹さんは、乾いた笑みをこぼした。ハハッ、なんて困ったように眉毛をへの字に曲げながら。


「そりゃあできねえよ。俺はこの街と切っても切れねえ糸でつながってるからな、いまは」


僕は知っていた。その糸が一本ではなく、二本、三本、いやそれよりもっと多くの束になっていることを。その束が彼の手を、足を、纏って縛ってゆく。この街から離れないように、離れさせないように。僕はごくりと唾を飲み、呼吸をひとつ置いてから口を開いた。

「あの離島にはなにがあるんですか」
「あそこは無人島らしい。人っ子ひとりいなければ、電波も届かない。あるのは木と土と海だけ。そんな場所だ」
「僕はいってみたいです、あの島」


行けるのなら、虎徹さんといっしょに。そうすればもう、こわいものなんて何もなくなるのに。ひとことでそう言い切り僕は、俯いた。重い沈黙が僕たちの頭上にのしかかる。うみねこの鳴く声が、岩場の狭間に反響した。哀しくなるほどに海は青い。「なにもねえ方が、俺にとっては怖いよ」、やがて、低い声が響いた。ゆっくりと、噛みしめるように虎徹さんはそう答えたのだ。


彼がどんな表情をしているのか、僕は見たくはなかった。知っていた、虎徹さんならこう答えるであろうことを。知っていたのに、ためすように聞くなんて。理性も思いやりも何もない、僕は残酷で我が儘な幼子ようだ。僕の心は抉りに抉られ、血がにじみ出ているようである。「帰ろうか、バニー」。彼のおだやかな笑みが、僕の傷口にひどく沁みた。「おまえ目ェ悪いんだろ」、と彼がこちらに差し出したその手に、僕はそっと掌を重ねた。虎徹さんの大きな掌はかさかさに乾いていて、人のぬくもりが感じられる。風に体温を奪われ、冷え切ったからだ。「冷たい手ェして、バニーおまえ冷え症かなにかか」、と彼は大きな背中で話した。僕はよろけながらその背中を見つめていた。しっかりと歩みをすすめる彼と、あどけない足どりの僕。彼に手をひかれながら思うのだ。もし僕がもうすこしおとなになれるなら、彼とあの島にたどりつけるだろうか、と。

この街が、僕たちを待ちかまえている。銀色の高層ビルが、僕たちを見下ろしている。虎徹さんの手のぬくもりに包まれて、僕はその風景をぼんやり眺めていた。シュテルンビルトの湾を横切るように、海鳥が渡ってゆく。音もなくしずかに弧を描いて。
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