02


こてつさんがヒーローを引退したのは、それから一年もたたない春先のことだった。ヒーロー史上、最悪で最高とうたわれたバディは、光の速さで進む都市の時間とともに、あっけなく忘れ去られていった。そうして僕はひとりになった。むごい日々が僕の横を通りすぎる。それでも地球はまわりつづけるし、夕日は昇り、水平線に落ちてゆく。無情な日々を浪費して、僕はいったい、どこへ向かってゆくというのだろう。シュテルンビルトの喧騒が、僕の肩におもく圧しかかってくる。

アポロンメディア社の僕のデスクの隣。いまはひとりの若い青年が、いそがしそうに書類をながめている。ときおり電話を耳と肩にはさみながら、たどたどしく書面に鉛筆を走らせたりして。彼は、こてつさんのあとを引き継ぎ、我がアポロンメディア社のニューヒーローとして働いてくれている。よくできた青年だと思う。デスクの上は整然とし、スケジュールを分刻みでこなしてゆく。怠け癖もない。文句もいわない。不用意にビルディングや街のモニュメントを壊すこともない。彼のふるまいはこてつさんのものとは大違い、完璧なのだ。

「どうかされましたか、バーナビーさん」

ふいに視線がぶつかり、我にかえる。そうしてようやく自分がおぼろげな状態でいたことに気づく。「ああ、すみません」と返すと、彼は鼻先でくすりと笑う。「お疲れなんですね、休憩して来られてはいかがですか」、なんてよく通る澄んだ声でいいながら、彼はコーヒーメーカーのもとへと歩いていった。気配りのよくできる人間だ。

「あなた、しっかり食べているんですか?」

そう僕がことばを発すると、彼は歩みを止め、こちらを振り返る。不思議そうな顔を浮かべながら。

「仕事に没頭するのも良いことですけど、しっかり食べないとヒーローは務まりませんよ」

そういうと、彼はにこりと笑みをたたえて、「ああ、はい」と返事をした。それから、「バーナビーさんもコーヒー飲みますか」とつけたした。笑顔のまま。僕は首を左右にふった。はい、了解です、とにこにこした顔で言いながら、彼は走っていった。よくできた青年は、これだから困るのだ、とため息をひとつついた。きっと一年前は、僕もまた彼と同じようだったのだろう。

「オマエちゃんと食ってんのか?」

こてつさんが僕によくかけてくれた言葉。よけいなお世話だとつき返したくなるような、そんな言葉だ。そう彼に尋ねられるたびに、僕は眉根をひそめていた。するとこてつさんは、僕のひたいに手をぽんぽんとおきながら、こう言うのだ。「健康は資本だからな、お前がちゃんとしてくれねーとおじさんもうトシだから困っちゃうわけ」。あなたにそんなことを心配される筋合いはありません、だなんて憎まれ口をたたいたりして。ああ、はいはい、いい子だねえバニーちゃんは、とかなんとか言いながらこてつさんも適当に僕をあしらったりして。

そのこてつさんの手のぬくもりは、もう僕にはわからない。不用意に、僕のひたいに伸びる手は、もう、ここには、ない。


僕はもうひとりではないはずだった。いつだって両親に守られていると知っている。ふりかえればヒーロー仲間が僕をサポートしてくれている。いまは完璧な相棒だっているし、サマンサおばさんだって僕を大切に思ってくれている。ヒーローとしての人生も順風満帆だ。知っている、僕はもうひとりではないはず。もう、これ以上望むものはないはず、なのに。

僕はいったい、どこへ向かっているというのだろう。わからない。わからなくて、わからない。

いまの僕をみたら、こてつさんは何というのだろう。「キングオブヒーローのくせにわがままだなあ、バニーちゃんは」と笑ってくれるだろうか。「ヒーローを甘くみるなよ」と真剣な目つきで一蹴されるのだろうか。いつだってこてつさんとの思い出にしばられたままで、僕はもうどこにもゆけないのだ。シュテルンビルト、このおおきな街の中で、彼のいないことを嘆いて、嘆いて嘆いて生きてゆく。小さな小さな少年のように。

ひたいにかかる髪の毛を、じぶんで一度かきあげる。ふいに胸がくるしくなる。窓に大粒の雨がたたきつけていた。水の撥ねる音が、ときおり強くなる。飛行船は低空をうろうろとさまよっている。昼だというのに、きょうのシュテルンビルトはひどく暗い。





雨上がりの朝の空気を、ひやりとからだに吸い込んだ。雲間からときおり、真っ白な太陽が顔を見せる。そのわずかな瞬間だけ、春の温もりを感じることができる。湿気のせいで、髪の毛先がふわふわと軽くなっている。どこか浮かない気分をじぶんで宥めながら、車のキーを片手に、近所のガレージへと向かう。マンションの近くの壁づたいに歩いてゆく。きのうの雨のせいで、路面にはおおきなみずうみが出来ていた。にびいろの雲がもたもたと流れてゆくさまが、そこには映っていた。下を向いて、歩いてゆく。すると、一枚の白い花弁が、道路に濡れてへばりついていた。さらに歩みをすすめると、まばらにそれは増えてゆく。たどりついたある一角だけが、たくさんの白い花弁に埋もれている。それらはどれもしなびたままであったけれど、まるで純白の絨毯のように美しく思えた。

なんという花だったか。気味の悪い花。靴の裏の、やわらかな感触。歩みを止め、空をあおぐ。黒々とした枝が、空に向かって這っていた。枝先の一輪だけが、風に煽られて不安定にゆれている、と思うとそれは忽ちどこかへ飛び去っていってしまった。それは白い花のような、一羽の鳩だった。たしかこの花は、

「モクレン」

いつか、こてつさんと見た花。こてつさんのあさ黒い肌や目もとのしわが、ふいに脳裏に浮かぶ。おだやかな声でこう言った。「俺は好きだよ、この花」。とるに足らない、何気ない彼のことば。そうか、これは僕がきらいな、そして、こてつさんの好きな花だった。まよいなく、いさぎよく散るすがたは、彼の理想のイキザマであると、たしかそう言っていた。

「まよわない人間なんて、いないのに」

空に向かって吐きだした。灰色の空はまるでなにも聞いていなかったのように、そのことばを丸のみにした。この都市に縮こまって、くすぶってばかりいる僕は、小さな小さな少年だ。もうどこにも行けないのだ。だって僕はヒーローだからだ。父さんと母さんが作り出した技術を、どうやって生かすか、僕は考え続けなければならないのだ。この街を守るのが、使命だから。僕に与えられた、まっとうされなければならない、使命。だからもうどこにも、行けない。


――それは、ほんとうに本当か?


愚図ついたこころのままで、知らず知らずに夏の手前までやってきていた。僕は、どこにすすむ? 少年のすがたのまま、僕は永遠にこの街で過ごすのか? 木蓮の花が僕に語りかける。本当に気味の悪い花だ、と心のなかで思った。

のろのろ流れる灰色の雲がようやく途切れ、その隙間から太陽の光。こうして春はさらに蠢きだす。地球は、僕は、またようやく息ができるようになる。


それならば、行かなくちゃ。


僕は踵を返し、自宅へ戻ると、携帯電話と財布だけを持って電車に飛び乗った。白い電車は、平坦な道のうえを、がたがた揺れながら走っていった。その先に、なにが待っていたとしても、かまわない。






さらにつづきます
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