01


甘ったるい、におい。ずいと見上げると、空いっぱいに純白の花がゆらゆらと浮かんでいた。浮かんでいた、というと語弊があるかもしれない。しかし、僕にはそう見えたのだからしかたない。空に向かって咲いている、大ぶりの白い花が、ぼってりとふてぶてしく細い枝にのしかかっているため、枝が大きくしなっている。それはまるで、たくさんの鳩がそこで休息しているようにも見えた。春特有の、ほこりっぽいあさぎ色の空。春霞というらしいが、そんな空とのコントラストは絶妙だ。おだやかな風が吹くたび、枝の先は不安定に揺れる。


こてつさんの家の角には、そんな樹木が植えられていた。この花、なんていうんですか。僕はそれを見上げながら、隣に聞く。大またでずいずいと歩みを進める彼は、まだ眠そうな声で、それは、あれだ、木蓮っていうんだ、と僕に教えてくれる。モクレン、と口の中だけでごにょごにょつぶやいて、その響きを咀嚼している間に、こてつさんは僕より先を歩いていってしまう。ポストに入れられたばかりの新聞を読みつつ、レタスとトマト、それにこんがり炒めたベーコンとたまごの入ったパニーニをぐいぐい口に押しこめながら歩く彼。朝っぱらからよくぞそんなにエネルギッシュに歩けるものだ、と僕はその場にたちどまり、彼を見送る。あとで、かならず追いつこう。こてつさんの影がどんどん小さくなってゆく。


その木蓮という花は、彼のアパートの庭で一番大きな樹だった。庭の垣根からその黒い枝が一本、つきだしている。空に向かって。凛として。気品高く。花をめでる習慣のない僕でさえも、思わず息をのみこんでしまうほど。


呆気にとらながらそれを見上げるばかり、靴の裏でなにかを踏んだという事実に気づくのに、やや時間がかかった。やわらかい、なにか。驚いて、靴をどかすと、そこには死んだ鳩。ではなく、純白の花弁が、茶色に染まった木蓮の枯れ花。踏まれて、ぺしゃりと道路にへばりついていた。「あ、」とひとこと声を漏らすと、今度は上からなにかが降ってくる。重い音をたて、道路に落下。まるで首もとから切られたように、ぶつりと落ちてきたそれは、一輪の木蓮の花だった。僕が目をまん丸くしてそれを見つめていると、おおい、バニー! なにやってんだよ! 早く来いって! 遠くからこてつさんの声が聞こえる。道路の先には、こちらに向かって手を大きく振る彼がいる。彼はけして僕をおいていかない。かならず、歩調をゆるめ、少し行った先でかならず待っていてくれる。せっかくの長い足をもっているというのに、まったく、あの人は。そんな皮肉めいたことを考えていられるうちは、僕はきっとしあわせなのだ。鼻の奥から笑いがもれそうになるのを、こらえながら歩き出す。


彼のもとに追いついたのは、レンガ造りの高架橋の真下だった。朝一なので、まだ人通りも少ない。車のタイヤの音さえも、聞こえない。鳥ののん気なさえずりだけが、高架橋下のトンネルに反響する。こてつさん、あの花。彼に追いつき、開口一番にそう言った。すると彼は、いままで新聞の文字を追っていた目線を、こちらにちらりと向ける。
「僕、あの花、こわいです。花が首が斬り落とされているみたいで、そう考えると、とても残酷な花のように思えて」
そうひとことで言いきると、彼は、そうかァ? なんてふぬけたいつも通りの声を出しながら、広げていた新聞を乱雑にくるくると巻いてから、脇の下にはさむ。くしゃりと紙面がひしゃぐ。ああ、もったいない。そんなことを考えていると、さらに彼はこう、つけたした。俺は、好きだけどなァ。のんびりと、おだやかな口調。空に、うすく綿のように伸びている雲みたいだ。「どうしてですか」、そう僕が尋ねると、彼はゆったりとした歩みを止める。それからハンチングを片方の手で押さえながら、笑って言う。


「そうだな、ありゃあ男の理想のイキザマってやつ、だな」
「理想の」
「自分がしおれるその前に、いさぎよく落ちるだなんて、男らしくてなかなかカッチョイイじゃねえか」


しらじらとしたまばゆい朝日の中で、彼は歯をみせて笑う。口角を大きく吊りあげて。


「俺は好きだよ、あの花」


ふいにくちもとに、半熟のたまごの黄身がついていたのに目がいき、間髪いれずにそこに口を寄せると、こてつさんは背筋をぴんと伸ばし、それから少しだけ背中をよじった。あのなあ、バニーちゃんよ、と笑った顔で、僕を叱る。その顔が好きだ、とふいに思った。春のにおいは麻薬のように、僕の鼻腔をくすぐって過ぎてゆく。






無意味につづくよ!
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