「うどんだ!おいしいうどんを食べにいこう!」

そう言って左門がわたしの手を引いて走り出したのはいつのことだっただろうか。真上にあった太陽が随分と西に傾き始めているから、あれから結構な時間がたっているのだろう。走ったり少し歩いたり、もうずっと、右手を左門に預けたままだ。ぎゅっと握られたその手は汗ばんでいて、なんなら少しぬるっとしている。いつもだったら絶対にその手を振り払っているけれど、今日はそんな気分にはなれなかった。この手を離してしまえば、わたしの心はまっくろい何かに食べつくされてしまいそうで、この温く湿った手のひらが、それらからわたしを守ってくれている気がして。

もう何度目かわからないけれど、再びひらけた丘に出てきて、けれどやっぱりさっぱり、ここがどこかなんてわからなくて、うどん屋さんなんて見当たるはずもなくて、沈んでいく夕日がただただ目に眩しい。見下ろす景色は橙色に照らされて、とてもきれいだった。

「日が暮れ始めてしまったな」
「そうだねえ、うどんよりもそろそろ学園で晩ご飯の時間だ」
「もうそんな時間か」

夕日から目をそらしたその顔が、心なしかしゅんとして見えるのは、多分気のせいではないのだろう。落ち込んでいる左門なんて、えらくめずらしい。

「おいしいものを食べれば元気が出ると思ったのだが、食べられなかったな」
「うどんは食べられなかったけど、元気にはなった気がするよ」
「嘘をつけ、へとへとじゃないか」
「まあ、疲れはしたけど。走り回ったらすっきりした」
「そうなのか?」

左門の言葉どおり体はへとへとだったので、その場に腰を下ろす。左門もわたしにならって右隣にしゃがみこんだ。汗ばんだ手は繋いだままだ。

「うん、いろんなところに行けたしきれいな景色も見れたし、あのまま学園でじっとしているよりずっと良かった」

そうだ、左門が連れ出してくれなかったら、きっと今ごろわたしは、くのたま長屋の薄暗い部屋で落ち込んだまま膝をかかえていた。まっくろな気持ちだけで体がいっぱいになってお腹も空かなくて、ご飯も食べられなかったかもしれない。ぐるる、とお腹が鳴ることが少し恥ずかしくて、だけどなんだか嬉しい気もした。

「左門、ありがとうね」

そう言うと、左門はすこしきょとんとした顔をして、けれどすぐに「どういたしまして」とくしゃりと笑った。

「さあ、夕食を食べ損ねる前に学園に戻ろう」

すっくと立ち上がった左門に手を引かれ、わたしも立ち上がる。繋いでいた手を離しても、きっともうわたしの心は大丈夫だ。そう思って手をほどこうとした矢先にはっとする。慌てて繋いだ手に力を込めた。

「わあっ、なんだ?」
「左門、今どっちに進もうとした?」
「こっちだ!」
「じゃああっちだね」

今度はわたしが左門の手を引いて歩き出す。自分のためにも左門のためにも、今日はずっと、この手を離す訳にはいかないのだなあと、おかしくなって笑った。

<130615>
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