鼓膜を揺らすざわめきに意識が浮かび上がって、瞼におちる光の眩しさに顔をしかめた。少しだけ目を開ければ、天井のシーリングライトがこうこうと光っている。ざわめきの正体はテレビに映るバラエティ番組の音声だ。部屋の中にいるのに、冷たい風が吹いていることに気がついたのは、それらを認識してからのことだった。おなかのあたりから下はこたつの中にあるせいでじりじりと熱いのに、投げ出した腕はすっかり冷えきっている。ぼんやりとした頭のまま、首をひねってベランダの方に目を向けると、真冬の夜にも関わらず開け放たれた窓と勘ちゃんの丸まった背中が見えた。
「勘ちゃん、チャンネル変えて良い?」
「あ、起きた」
「うん、寝てた」
「今テレビ面白いのやってないよー」
ふう、と吐き出された勘ちゃんの息は濁った白色で、風がその煙を部屋の中に運ぶ。昔から煙草の匂いは苦手だ。けれど勘ちゃんが吸う煙草は少しあまい香りがして、そんなに嫌いじゃないなあと思っている。
「お昼は結構あったかかったのにやっぱ夜は寒いね」
「ああごめん、やっぱ寒かった?」
「いや、こたつが熱くて起きた」
「あ、そう」
リモコンのボタンの数字を指先で順番に押していくけれど、言われた通りわたしたちの興味を引くような番組はやっていないようだった。からからから、と音がして部屋に吹いていた風が止む。さむさむ、と言いながらこたつに入ってきた勘ちゃんの冷たい足がわたしのふくらはぎに触れた。「冷たい」と眉をしかめても、勘ちゃんは「ひひひ」と意地悪く笑うだけだ。
「明日からまた冷え込むってよ」
「ええ、やだなあ。早くあったかくなんないかなあ」
「春になったらさー、お弁当持ってお花見行こっか」
「お弁当?それわたしが作るの?」
「スーパーのとかで良いんじゃない?お花見弁当」
「あはは、いいねえ」
「ビールとかつまみも買って」
「春が待ち遠しいねえ」
あと二ヶ月もすれば春はやってくるはずだけれど、外の寒さのせいかそれは果てしなく遠く感じるものだった。外の枯れ木に芽が出て、鉛色をした外の空気が桜色に染まるだなんて、想像もつかないくらいに。投げ出していた左手を伸ばして、勘ちゃんの右手の小指に自分のものをからめる。
「ん?」
「勘ちゃん、ちゃらんぽらんだから」
「はい?」
「約束しとかないと」
「・・・失礼だなあ」
「ゆーびきーりげーんまん、うーそついたら」
歌に合わせて手を振って、そしてすぐに止めた。嘘を吐いたら。約束が叶わなかったら。
勘ちゃんはきっと約束なんてしなくても春にはお花見に、夏には海に、秋は紅葉を見に連れて行ってくれるだろうし、冬は一緒にお鍋をしてくれるだろう。けれどどんな約束だって、さよならというその一言の前ではあっけなく意味をなくす。もしいつか、その日がやってきたら、その時はきっと勘ちゃんはゆるく結ばれた糸なんて容易くほどいてわたしの届かない遠くに行ってしまうのだろう。意味がないことなんて、ちゃんとわかっている。
「嘘吐いたらどうなんの俺」
沈黙が長いとこわいんだけど。勘ちゃんが苦笑いをする。
「冷凍庫の中のお風呂上がり用のアイスはふたつともわたしのものだ」
「なんと無慈悲な・・・」
じゃあちゃんと約束守んないとなー、そう笑った勘ちゃんにつられてわたしも笑って、小指をほどいて指をきる。出来る事ならば、わたしは十年二十年、五十年、百年先の約束だってしたい。その約束で勘ちゃんを縛り付けていられたらどんなに良いだろうと思う。不可能でも、意味をなくすとしても、心はそれを願うのだ。
「これでアイス食べたら勘ちゃんは春までわたしのものだね」
冗談交じりに言ったつもりだったのに、その言葉は喉から離れてしまえばどうにも痛々しい空気をまとっていた。胸の奥から湧いてくる後ろめたさに、勘ちゃんの顔を見たくなくて、気まずい雰囲気をごまかすようにリモコンのボタンを順番に押していく。どのチャンネルも、明日の天気を予報している。なるほど勘ちゃんの言っていた通り、明日は冷え込むらしい。日本地図の上のほうは雪だるまのマークが並んでいる。
「んー、ずっとでいいんじゃない?いまのところ」
聞こえてきたその言葉にゆっくりと顔を左に向けた。勘ちゃんの顔はこちらを向いてはいなかった。もう冷め切っているであろうマグカップの中のコーヒーを、大事そうに飲んでいる。
「いまのところ」
「うん、いまのところ」
「・・・そっか」
おかしくてなって少し笑う。勘ちゃんらしいなと思うし、その言葉の加減は、ちょうどわたしが望んでいたもののように思えた。いまのところ。これから先、どうなるかはわからないけれど、いまのところ、わたしには勘ちゃんの隣に居座り続ける資格があるらしい。
「楽しみだなあ、お花見」
すこし照れたように笑う勘ちゃんと目が合って、いよいよわたしも声をあげて笑う。
「春はお花見して、夏はどうしようね」
「えー、そんな先の話してどうすんの」
「楽しみは多いほうが良いからね」
勘ちゃんの望む春に、その向こう側の日々に、わたしは居たい。いまのところ程度の可能性でいい。気休めでも構わない。全部わかったその上で、わたしはそれを望んでいられる。
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