オレンジ色が灯る中、少しずつふくらみ始めた生地をしゃがみ込んでぼんやりと見つめる。調理実習でシュークリームを作ることになった時から、出来上がったものを渡したい相手は決まっていたけれど、それをいかに不自然でないように渡すかは、決められないまま今に至っている。頭の中で何度も繰り返すシミュレーションは、何度でも失敗に終わった。どうしようかな、と小さく吐いたため息は、カーディガンの袖口に吸い込まれていく。やっぱり、渡すのはやめて自分で食べようか。そう思うけれど、いつもはあまり変化のないその顔が、幸せをかみしめるような表情に変わる瞬間を思い出しては、思考は振り出しに戻った。



昼休みの喧噪でざわめく廊下を少し早足で抜けていく。
いつもどおりいつもどおり、そう唱えながら、やはりいつも通りとはいかないそわそわとした気持ちでふたつ隣の教室を覗く。廊下側から二列目、一番後ろの席にいつもある姿は、今日に限って見当たらなかったけれど、その代わりにいつもなら自分と同じ教室にいる筈の人物の姿があった。一度踵を返そうとして、だけどやっぱり、と思い直して三年三組の教室に足を踏み入れる。

「岩ちゃん、マッキーは?」
「ん?おお、今便所行ってる。なした?」

読んでいた雑誌から顔を上げた岩ちゃんは、わたしが「いや、ちょっと」と口ごもるのを見ると、一度きょとんとした表情をして、けれど何か思い当たる節があったらしい、「ははーん」という顔をした。

「おーおー、ついにか」
「なにが。多分岩ちゃんが想像しているようなことじゃないと思うけど」

思い当たる節。
つまりはわたしのマッキーに対する気持ちのことだろう。それを知る数少ない中の一人である岩ちゃんは、たまにその類の話をすれば、「当たって砕け散れ」などと、縁起でもないことを言ってくるけれど、一応、気にかけてくれてはいるようだった。

「じゃあなんだ、決闘の申し込みでもすんのか?」
「相撲でもとれってか」
「髷結ってやろうか」
「なになに、決闘?」

背後から聞こえた声に振り返ると、いつの間にやってきたのか、嫌味なぐらいに整った顔を少ししかめた及川が、「わー、名字ちゃん野蛮!」などとほざいた。その顔面をひっぱたいてやりたい気持ちがわき上がって来たけれど、ごまんといる及川ファンのみなさんの反感を買うことなどしたくはない。上げそうになった手のひらを拳にしてぐっと堪える。

「黙って及川。あと出来れば舌噛んで一週間くらい喋れないようになって」
「ひどい!」
「うるせーぞ及川」
「岩ちゃんまで!?っていうか名字ちゃん持ってるの、それシュークリーム?」

わたしが後ろ手に持っていたものを目敏く見つけたらしい及川の言葉に、体がぴしりと固まった。ギギギ、と首を動かして及川を見上げると「顔がこわい!」と大変失礼な言葉が降ってくる。

「なんでわかったの」
「えっ、俺もさっきもらっちゃったから」

「調理実習で作ったんでしょ?」と右手にわたしの持っているものと同じ、授業で用意された紙袋を揺らす。食べちゃおー、と紙袋をがさごそとしだした及川から、岩ちゃんの方へと視線を移した。

「・・・そういうことか」
「まあ、そういうことですよ」

今度こそ「なるほどな」という表情をした顔と目が合って、苦い気持ちになる。
及川はというと、特になんの感想もなさそうな表情でこちらをちらりと見遣っただけだった。気まずいような恥ずかしいような雰囲気をごまかすために教室の中をぐるりと見渡す。そうして視線を教室の後方の扉に向けた時、再び体が固まることになる。
この教室に来た目的の人物が現れたというのに、「どうして帰ってきた!」と叫びたくなるわたしは身勝手というものだろうか。


「おー、おかえり」
「なんか人増えてんな」
「マッキー人気者じゃーん。あれ、まっつんもいる」
「教科書借りにきた」
「及川は何これみよがしにシュークリーム食ってんの?」
「貰いものだからあげないよ?」
「オイ、雑誌にクリーム落とすなよ?ぶん殴るからな」

バレー部がぞろぞろと揃えばまあ随分な迫力があるなあと、一連の会話を眺め聞く。いざ本人を目の前にしてみても、やはりどうしたら良いものかわからず、敵前逃亡したい気持ちでいっぱいだ。じり、と一歩後ずさったところで、マッキーの顔がくるりとこちらを向いた。

「名字は何してんの」
「え」
「なんか用あったか?」
「ああ、いや・・・」

あなたにシュークリームを渡しに、だなんてそのまま言える筈もなく。
口ごもるわたしを見てマッキーは少しだけ疑問を浮かべた表情をして首を傾げた。

「マッキー、シュークリーム食べたいなら名字ちゃんがくれるってよ」

直後、背後から聞こえたとんでもない言葉に、慌ててその声の方を振り返る。

「は?」
「ちょっと!及川!」
「えー、違った?」
「ちが!違わないけど!ああもう!マッキー!はい!」
「おお、なに怒ってんだ」

もうやけくそだ、と右手に持っていた紙袋をずい、と突き出す。マッキーはめずらしく驚いた顔でその身を少し後ろに引いた。

「調理実習で作ったから、あげる」
「えっマジでくれんの?」

わたしの言葉で、にわかにその表情が明るくなったのを見て、勢いづいた心にブレーキがかかった。強ばって苦しかった胸のあたりも空気が抜けたみたいにやわらかく楽になる。及川は「マッキー良かったね〜」なんて呑気に笑っていて腹立たしいけれど、今回ばかりは少し感謝しなくてはいけない、のかもしれない。

「食って良い?」
「ど、どうぞ」

がさがさと紙袋からシュークリームを取り出すマッキーを眺めながら、もう一度、緊張で体が強ばる。自分たちで食べた時には、なかなかの出来の良さに「お店開こ!」などと調子づいたことを言っていたけれど、実習とは無関係の、しかも好きな人に食べてもらうとなると話は別だ。
一口、二口と食べて、もごもごと動く顔のその表情を伺う。喉がごくりと動いて、言葉を発する為に口が開いた、と思った瞬間、背中に何かがぶつかった。思わずよろけて、マッキーの方に倒れ込む。ごつ、と今度は頭に何かがぶつかった感触がしたと同時に頭の上で「んぐ」というくぐもった声が聞こえた。一瞬の沈黙のあと、「ピタゴラスイッチかよ」という松川の声が耳に届く。おそるおそる目線を上げると、そこには手に持ったシュークリームを自分の顔にめり込ませているマッキーの姿があった。わたしが一歩後ずさると、マッキーがシュークリームを顔から離す。その口まわりと鼻の頭にはシュー生地に包まれていたカスタードクリームがべっとりとついていて、マッキーが呼吸をする度に鼻についたクリームがふるふると揺れる。その光景があまりにも面白すぎる。面白すぎるけれど、必死で笑いを堪えた。

「な、何が起きたの?」
「及川が雑誌にクリーム落として岩泉が及川殴ろうとしてそれを避けた及川の頭が名字にぶつかってよろけた名字の頭が花巻の腕に当たって花巻の持ってたシュークリームが顔面に」
「ああ・・・」

一連の流れをすべて見ていたらしい松川の説明で、大方の状況を理解する。
わたしと岩ちゃんと及川、それぞれにマッキーに対して謝罪の言葉を述べてみるけれど、当の本人といえば、「おー」なんて適当な反応で、おかまいなしにシュークリームを食べ続けている。

「いや、顔拭けよ」
「名字、これ超うまい」

岩ちゃんの突っ込みになんて耳も貸さずに、クリームまみれのまま幸せそうに食べるマッキー見て、堪えていた笑いがついに漏れた。その様子が可笑しくて、求めていた通りのその反応と表情が嬉しくて、どうしようもなかった。


昼休みの終わりを報せる予鈴が鳴って、教室の雰囲気が先ほどまでとは違うざわめきに色を変える。三組の教室を出て、一人選択教室に向かう。三年になってからというもの、選択科目が増えたおかげで教室移動が多くなったなあなんて考えて歩いていると、頭の上にずしりと重力がかかる。何事かと思って見上げると、先ほどまで教室でクリームまみれの顔を懸命に拭いていたはずのマッキーが、不思議そうな顔でこちらを見下ろしていた。重力の正体はマッキーの腕だ。

「教室戻んねえの?」
「次選択教室なんだよ。マッキーは?」
「顔洗いに便所。すげえべたべたするから」
「ごめんってば」

予鈴がなった所為か、人がまばらになり始めた廊下をさらに人気の少ない方に進んでいくものだから、ざわめきが遠くに感じる。

「うまかったからいーよ。つーか俺も選択家庭科にすりゃ良かったかな」

やはりべたつきが気になるらしい、口回りをぺたぺたと触りながら「結構いろんなもん作んのな」とマッキーはひとりごとのように呟く。

「まあ実習以外が結構めんどうだけどね。マッキー選択なんだっけ?美術?」
「おー、つーかさ」

ぺた、ぺた、ぺたり。マッキーの手が動きを止める。

「なんで俺にくれたの」
「え?」
「さっきの、シュークリーム」

放られた言葉の、その問いかけの意味をゆっくりと理解して、頭の中が真っ白になる。立ち止まったわたしに倣うように、マッキーもその足を止めた。呆然と見上げたその顔はどういう感情も伺えない無表情で、心もとない気持ちになる。

「えっと、マッキーがシュークリーム好きなのを、思い出しましたので」

嘘は、言っていない。
わたしの中身すべてを見透かしてしまいそうな、温度のない目に見つめられて、息が詰まりそうになった。ふ、とその目がやわらかく緩んでわたしを射抜くことをやめる。再び歩き始めたその長い足につられて、わたしも歩みを進めた。

「んー、まあまあ嬉しいけどな。60点」

マッキーのこの表情がちょっと苦手だ。少し横目に、その目を細めてこちらを見下ろして笑う。その表情にいつも、心臓が跳ねる。

「60点て、なにが」

シュークリームの味が?
そう聞くとマッキーはぶはっ、と吹き出したあと、おかしそうにくつくつと笑う。

「いや、あれはまじでうまかった。85点くらいはやるよ」
「あざまーす」

口の中が乾いて、そう返すのが精一杯だった。あとの15点はなんなの、とか、いつもなら出てきそうな突っ込みめいた言葉も、今日はてんで駄目だ。一切出てきやしなかった。

「じゃあわたし上行くね」
「ん」

ちょうど良いタイミングで現れた階段に心の底からほっとして、手を振ってマッキーに背中を向ける。わたしの気持ちは多分、気付かれている。正直なところ気が気でないけれど、今はこの場から立ち去って一人になるのが優先だ。そのまま階段を一段、二段と昇っていこうとして、けれど三段目に足をかけた時、響いた声にそれは阻まれる。

「60点って話な」

その声を無視する訳にもいかず、ゆっくりと振り返る。窓から注ぐやわらかい光の中に立つシルエットは、絵画みたい、とまではいかないけれど、計算し尽くして切り取られた写真みたいで、とてもきれいだと思った。思わず見惚れて、ゆっくりとこちらに近づいてくるマッキーをぼうっと見つめる。階段のすぐ下、わたしより二段分低い場所でその足が止まる。

「俺お前のこと好きだからさ、俺のこと好きだから、とかだったら100点満点だったんだけど」

たしかにそう動いたはずの唇はどうにも現実味がなくて白昼夢でも見ているのかと思う。視線を少しだけ上に動かす。真っ直ぐにこちらを射抜くその瞳に、脳がしびれたみたいに何も考えられなくなった。心臓が耳元で鳴っているような感覚がする。そんな筈はないのに、心臓はわたしの胸のあたりで動いているのに。何か言葉を発さなければとは思うけれど、どんな言葉も形を成さなくて、唇は震えて、わたしはただ口をぱくぱくとさせるしかなかった。真剣な表情をしていたマッキーのその顔がくしゃりと笑う。張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。

「動揺しすぎ」
「マッキーが、変なこと言うから」

やっと出てきた言葉は情けなく震えている上、可愛げがなくていやになる。

「・・・お前、一世一代の告白を変なことて」
「いや、そういうことじゃなくて」
「で、実際のところどうなの」

いつも通り笑っているけれど、その目はまた、さっきと同じようにわたしを真っ直ぐ見つめる。マッキーの鼻の頭に、まだ少しクリームが残っていることに気がついてしまったけれど、それどころではない。鼻の頭にクリームなんて、間抜けな顔である筈なのに、その顔がかっこいいだなんて。わたしはどうかしてるんだろうか。盲目とはなんておそろしい。右手に触れたその指の温度と、微かに香った甘いにおいで頭がぐらついて、心臓が狂ったみたいに速く鳴る。何か言葉を吐き出さないと、わたしはこのまま死んでしまいそうだ。



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