毎年熱く盛り上がるという秋の球技大会は今年も例年に漏れることはなかったようで、バレーボールやバスケの試合が行われている体育館は喧噪と熱気に満ちていた。得点係を終えて外に出ると、その体育館の熱が夢だったみたいに外気はひんやりとしている。鈍い色をした空は雨を降らしそうで、けれど予報では雨は明日からって言っていたし、なんてことを考えながら、男子サッカーの試合が行われているグラウンドへ向かう。そろそろうちのクラスのチームの試合が始まる時間だ。グラウンドの方から吹いてくる風は、空模様に似合わない明るいざわめきを孕んでいるから、試合はもう始まっているのかもしれない。バレーボールの得点係さえなければ、そのひとつ前、さんちゃんが出ている試合も見られたのになと、自分のじゃんけんの弱さを少し呪った。けれどその途端、強い風がびゅう、と吹きつけてきたものだから、自分で自分を呪ったりするものじゃないと反省する。
グラウンドを見渡せる場所まで来て、目を凝らして様子を伺うと、見知った顔がいくつもピッチを駆け回っているのがわかった。どうやら試合は始まっているらしいので、どうせ遅れて行くのならば飲み物でも買ってから行こうと、自動販売機の方向に足を向ける。ジャージのポケットの中の小銭入れをちゃりちゃりと鳴らしながら自動販売機に近づくにつれて、その傍らに見知った後ろ姿があることに気が付いた。やっぱりすぐに試合を見に行こう、今すぐに、と踵を返そうとしたところで、その後ろ姿がくるりとこちらを振り返る。そしてわたしの姿を確認し、にんまりと笑った。

「名前じゃん、ちょうど良かった」

にんまり笑いを愛想の良いにっこり笑いに変えて、兵太夫くんはちょいちょいと手招きをする。逃げると後が面倒だろうと思って大人しく手招きされる方に近づくけれど、にっこり笑った兵太夫くん以上に不吉なものなんてこの世にあるのだろうか。何にちょうど良いのかなんて聞きたくもなかった。

「お金貸して」

手のひらをこちらに差し出して悪びれる様子など一切なく、予想していたものと一字一句違わないその言葉を口にする姿はいっそ清々しい。清々しいまでに腹立たしい。

「やだよ、ぜったい返ってこないもん」
「この間のテスト、誰のおかげで追試免れたと思ってんの?」
「・・・兵太夫大先生のおかげでございます」
「だよねえ、奢ってもらってもいいぐらいだと思うけど?」

反論する余地のない言葉に、わたしはこう口にするしかない。

「・・・おっしゃるとおりです」
「ミルクティーね、あったかいやつ」

確かにテスト前にさんちゃんの家へやってきた兵太夫くんが、すごく嫌そうな顔をしながらも懇切丁寧にわかりやすく噛み砕いて勉強を教えてくれたことはとても感謝している。おかげで追試を免れるどころか普段よりも点数は上がり、先生にはお褒めの言葉まで頂いた。けれどそのふてぶてしい態度を目の当たりにすると、このぱっつん野郎を呪った瞬間、強烈な風が吹いてきてどこからともなく飛んできた空き缶とかがその横っ面に直撃したりしないかな、と思わざるを得ない。

「兵太夫くんなに出てたの」

ガタン、と音を立てて落ちてきたホットミルクティーの缶を伸ばした袖で掴み、それを差し出して尋ねると、兵太夫くんは「あー、バスケ出てた、負けたけど」というなんとも覇気のない返事をよこした。どうせ長袖長ズボンのやる気のない出で立ちのまま適当に参加していたのだろう。

「あ、三治郎はさっきの試合勝ってた。次が準決勝だって」
「ふーん」
「相手チームに乱太郎いたからさ、鬼のようにマークついてて面白かったよ」

くくく、と笑いながら兵太夫くんが話すのを見るに、その光景は相当面白いものだったようだ。見ていなくても大体想像はつくもので、いつもどおりに笑った表情を顔に貼り付けたさんちゃんが、ひたすら猪名寺先輩をぴったりマークしていたのだろう。そして猪名寺先輩が半泣きで逃げ回る。春の体育祭でも似たようなことがあった気がする。

「それは、ちょっと見たかったかもなあ」

頭の中に浮かんだ光景にわたしもついつい笑いを漏らす。「気の毒だよねえ、乱太郎も」と兵太夫くんは言っているけれど、絶対に大笑いしながら見ていたに違いない。機嫌良く笑っているその横顔をちらりと盗み見た。会話が途切れて心臓のあたりが少しひやりとしたけれど、兵太夫くんは楽しげな顔のままミルクティーを飲んでいるから、多分、大丈夫だ。
あの日以来、兵太夫くんがわたしのさんちゃんへの想いに関して言及してくることはない。この間のテスト勉強の時にも、さんちゃんが席を外して二人きりになるたびに、何か言われるのではないかとひやひやしていたけれど、結局何を言ってくることもなかった。あの時のわたしの言い分で納得しているとは到底思えないから不気味ではあるけれど、兵太夫くんの言葉は口に出されれば出されただけ正しさが浮き彫りになって、きっとわたしの心を痛めつけるから、そのまま放ってくれていたら良いなと願っている。余計な事を言われる前にさっさとこの場を離れようと、少し迷ってホットココアのボタンを押した。さっきと同じように伸ばした袖で熱い缶を取り出したところで、兵太夫くんが「あ、三治郎」などと抜かしたものだから、うっかり手を滑らせてしまう。ガシャ、と音を立てて落ちた缶にため息を吐く。腹立たしいにやけ面がこちらを向いていることを予想して兵太夫くんのほうを睨んだけれど、予想に反して兵太夫くんはグラウンドの方を向いたまま、挙げかけたらしい手を中途半端な位置で止めている。不思議に思ってその目線を辿る。その先には間違いなくさんちゃんがいたのだけれど、一緒に知らない女子生徒もいて、さんちゃんと楽しげに話しているところだった。ジャージの色からして、さんちゃんや兵太夫くんと同じ二年生だろう。

「あー、あれうちのクラスの女子だ」

兵太夫くんの、どことなく気まずそうな声が右耳から左耳にすり抜ける。愛想良くにこにこと笑いながら話すさんちゃんと、少し照れくさそうにはにかんで話している様子の女子生徒の姿は、傍から見ればきっと微笑ましい光景なのだろう。一目見て、その人がさんちゃんのことが好きなのがわかってしまった。

「顔引きつってるけど」
「なんのこと」

兵太夫くんが鼻で笑ったのがわかって、どうってことない振りをしてココアの缶を拾う。プルタブを開けるその指先は、どうにも上手く動いていない気がした。心臓の打つ音がいやにはやい。立ち去ることも難しくなって、その場に立ちすくんだまま、ちびちびとココアに口をつける。さんちゃんのいる方を見る気にはなれなくて、目線は足下の石畳の模様を追っている。わかってしまうものなのだなと、そう思った。わたしだからなのだろうか、わたしでなくてもなのだろうか。
少しして兵太夫くんの「おー」という声に顔を上げると、さんちゃんが手を振りながらこちらに歩いてくるところだった。わたしもそちらに手を振り返すけれど、視線はさんちゃんを通り越してその後方、嬉しそうに友達らしき人と笑い合っている先ほどの女子生徒に向いてしまう。果たしてわたしは自然に笑えているのだろうか。そう思ったところに右上から兵太夫くんの「だから顔引きつってるって不細工」という暴言が降ってきた。図星であろうとそれに黙っていられるわたしでもなく、やり場のわからない感情を拳に詰め込んで、兵太夫くんの飲んでいるミルクティーの缶に狙いを定める。

「うるさいぱっつん野郎」

コン、と軽い音を立てて缶の底を叩くと、タイミング悪くミルクティーに口をつけていたらしい兵太夫くんは衝撃をもろに喰らってその中身を吹きこぼした。一瞬の静寂のあと、兵太夫くんの顎をつう、と伝って乳白色の滴が落ちる。ざまあみろ、と笑い出したいわたしと、出来心でした、と謝りたいわたしがせまい頭の中でせめぎあって、けれど兵太夫くんのこれ以上にない満面の笑みを見てあっさり後者に軍杯が上がる。

「あっはっは、なにしてんのふたりとも」

一連の流れを目にしたさんちゃんは大笑いしながらこちらに近づいてくるけれど、こちらはそれどころではない。わたしの顔を鷲掴みした兵太夫くんの手にギリギリと力が込められていく。

「このクソ女まじでしばく」
「いたいいたいいたいごめんなさい調子のりました本当にごめんなさい」
「謝れば許されるとか思ってんなよ」
「反省、反省しています!」
「それももう何度も聞いてんだよ」
「いたいいたいいたい」
「はい兵太夫、タオル使いな」
「ああ、ありがと」

さんちゃんが差し出したタオルをきっかけに、兵太夫くんの手はわたしの顔を離れたけれど、力を込められていた所には痛みの余韻が残る。じんじんとするところをさすりながら、心の中だけで兵太夫くんに対する悪態をつく。くたばれぱっつん。

「名前もいい加減学習しなよ」

兵太夫と言い争って勝てたことなんてないでしょ、とさんちゃんはこちらを小馬鹿にしたような顔で笑う。そうだけどさあ、と不機嫌に顔を歪ませるふりをして、わたしの心は優越感に浸されていく。さっきの人は、さんちゃんがこういう顔で笑う事を知っているだろうか。愛想良く笑うだけじゃない、怒ると少し口が尖る、泣く時は声をあげない、笑うときはお腹を抱えて笑う。そういう色んな表情を、わたしはあの人よりも多く知っている。だからきっと大丈夫、そう思いたかった。

「それより今試合してるの名前のクラスじゃない?見に行かないの?」

さんちゃんの言葉に、そういえばと思い出して顔を上げる。

「そうだった、応援行ってくる」
「いってらっしゃーい」
「あとで覚えてろよ」
「だからごめんって」

兵太夫くんのおそろしい目つきから逃げ出すようにその場をあとにしてグラウンドへ向かう。温かいココアを両手で包めば、吹いてくる冷たい風もさほど悪いものではなくなった。けれど。

一歩、また一歩と歩く度に、心に暗い色をしたもやが広がっていく。大きく息を吐いてもそれは晴れることがなく、胸の奥は締め付けられる一方だ。あの人にとって、さんちゃんは特別だ。それを思うと歩みを止めてしゃがみ込みたくなってしまう。
さんちゃんはわたしだけの特別ではない。
はっきりと突きつけられた現実を前にしてようやく、兵太夫くんの言葉の意味をきちんと理解出来た気がした。きっとあの人の想いは現状維持を望むような中途半端な気持ちではないのだろうと思った。頭の中にさんちゃんとあの人が笑顔で寄り添う姿が浮かんで、兵太夫くんの言葉が頭を巡って、それを掻き消したくてぎゅっと目を瞑る。ちかちかとする瞼の裏でも消えてはくれないその光景が、近い未来に現実になったとしてそれでもわたしは、今のままで良いと、大事に思われているだけで、近くにいる幼なじみのままで良いと、本当にそう思えているのだろうか。




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