放課後、部活にも委員会にも所属していないわたしは早々と帰宅し、けれど鞄を部屋に置くとすぐに玄関へ向かった。兵太夫くんから電子辞書を取り戻すという使命がわたしにはある。彼もまた帰宅部だ、今頃はもう家に居るに違いない。居なかったらおばさんに頼んで無理矢理にでも返して頂くつもりだ。

「お母さん、ちょっと出かけてくる」
「あら、帰ってきたと思ったら。どこ行くの?」
「兵太夫くんの家」
「笹山さんのとこ?ちょうど良かった、これ持って行ってちょうだい」

そう言って母親から持たされた紙袋の中身は、親戚の家から段ボールいっぱいに送られてきた柿だった。毎年秋になると送られてくるそれを、昨日は夢前家に結構な数を持って行ったのだけれど、まだまだたんまりと余っているらしい。携帯と財布だけで身軽に出かけようとしていたのに、がさりと渡されたそれはなかなかに重い。めんどくせえな、と思いつつ拒否すれば話が長くなりそうなので言うことを聞いておく。外に出てみれば、空はすでに橙色に染まりはじめていた。さっさと行かないと日が暮れるな、と自転車のカゴに紙袋を放り込んだ。

兵太夫くんの家はわたしとさんちゃんの住む住宅街から、自転車を五分ほど走らせたところにあるマンションの一室だ。小学生の頃、さんちゃんに連れられて初めて訪れた時には、マンションにあるオートロックの機械やエレベーターが珍しくて、子供心にわくわくしたのを覚えている。今やそんな気持ちも忘れて、あくびをしながらエントランスで兵太夫くんの家の部屋番号を押す。おばさんが出るかと思いきや、少し間をあけてインターフォンから聞こえた声は兵太夫くんのものだった。

「名前ですけど」
「あれ、めずらしい。何か用?」
「辞書取りに来たんだよ。今日言ってたじゃん」
「ああ、そんなこと言ってたね」

すっとぼけた言い草に何か文句を言ってやろうとしたら、ぶつりとインターフォンが切れて同時に目の前のガラス戸が開いた。ため息をひとつ吐いてマンションの中に入る。エレベーターで六階へ上がり、通路の一番奥に位置する部屋のチャイムを押す。しばらく待つとガチャリと鍵を開ける音がして兵太夫くんが出てきた。

「いらっしゃい」
「ん、これうちの母親から」
「おばさんから?」
「毎年恒例の柿」

ああ、今年も立派な柿だね。新聞紙に包まれたそれをひとつ取り出して兵太夫くんが笑う。

「まあ上がんな、お茶ぐらいは出してあげる」

電子辞書だけ受け取ってそのまま帰ろうと思っていたけれど、断る理由もないのでお邪魔することにする。リビングで待っておけという言葉に従って部屋の奥に進む。どうやらおばさんは留守らしい。椅子に腰掛けて待っていると、しばらくして兵太夫くんもリビングにやってきた。その手には電子辞書。お帰りマイパートナー。

「はい、ありがと」
「・・・兵太夫くん、ありがとうって言葉知ってたんだね」
「喧嘩売ってんの?」

ガン、と座っていた椅子を蹴られたので「滅相もございやせん」と手を揉むと「大概にしときなよ」とのお言葉である。

「柿食べる?食べるならむくけど」
「あ、食べる。わたしまだ食べてないんだよね」
「はい、お茶」
「ありがと」

出されたお茶に口をつけながら、キッチンに立って包丁をもつ兵太夫君を眺める。その姿はなかなか様になっていて、昔からの付き合いがなく性格の悪さを知らなければ、わたしだって同じ学年の女の子達と同じように「かっこいい〜」だなんて黄色い声を上げていたのかもしれないと思った。想像しただけで寒気がする。
そんなことを考えながら、わたしは兵太夫くんが喋り出すのを待っている。柿の皮をむく手元へ向いたままのその顔に視線を送り続けていると、兵太夫くんの口がやっと開いた。

「なに?」
「・・・なんか、話あるんじゃないの」
「なんだ、気付いてたの」

ちらりとこちらを見ただけで、すぐに手元に視線を戻して白々しく笑う兵太夫くんに呆れて顔をしかめる。

「兵太夫くんがわたしにお茶出したりするなんて、何かない限りあり得ないでしょ」
「心外だね。僕だって客をもてなす心くらい持ち合わせてるけど?」

客人の座ってる椅子蹴ったのはどこのどいつだよ。そう言うと兵太夫くんは「だって来てるのは客じゃなくて名前だもの」と笑った。

「まあ大した話でもないけど」
「なに」
「んー、いつになったら三治郎に好きっていうのかなって思って」

いきなり核心をつくことを言われて喉に流しかけていたお茶でむせ返る。あからさまに動揺したわたしを見て、性格の悪いぱっつん野郎は嬉しそうに笑った。実に腹立たしい。

「なんの話?」
「え?三治郎のこと好きなんじゃないの?」
「・・・好きだけど」
「僕が言ってるのはそういうんじゃないよ」
「どういうのだよまどろっこしいな性悪」
「名前、あんまナマ言ってるとしばきあげるよ」
「嘘ですごめんなさい」
「もっとさ、特別な意味でってことだよ」
「特別・・・」

その意味を考え込んで、手元のグラスを見つめる。兵太夫君がキッチンからこちらに来る気配がして視線を少し動かすと、テーブルの上に柿の並んだお皿が現れた。食べれば?という言葉に促されて、フォークを手に取る。口に運んだ柿は、例年通り甘くておいしい。柿をもごもごと頬張りながらテレビのチャンネルをザッピングしている兵太夫くんの横顔を眺めて、多分きっと、ごまかしはきかないんだろうなと苦笑いをした。それに気がついた兵太夫くんは訝しげな顔をしてこちらを睨む。

「・・・なんなの」
「大事に思ってくれてるっていうのは、ちゃんとわかるから」
「それがわかってなかったらベランダから吊るしてるよ」
「・・・サド山」
「あ?」
「いえ、なにも」
「・・・で、わかるから?」
「大事に思ってくれてるならそれでいいかなって思うよ」

ちらりと兵太夫くんの顔色を伺うと、ひどく不機嫌そうな顔をしている。怖い怖い。ベランダから吊るされそうだ。けれど本当に、そう思っている。今の心地よい関係が崩れるくらいなら、前進なんてしないままで、このままが良いと思う。

「・・・今の立ち位置失うのが怖いってか」

全てを見透かしたように兵太夫くんは言う。なんとなくわかってはいるのだ、物言いはきつくたって兵太夫くんがわたしのことを思って言ってくれていることぐらい。そうでなければこの人はこんなことをわざわざ口に出したりはしない。

「後悔したってしらないからね」

その言葉はちくりと心を刺す。けれどわたしにはこの生温い心地の居場所を捨ててまで欲しいものなんてないから、その痛みには気がつかないふりをしておく。

「兵太夫くん、」
「・・・なあに」
「ありがとう」

そう言うと、兵太夫くんは「なに、気持ち悪いんだけど」と言いながら少し照れくさそうに笑った。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -