お願い、わらって

 痛いような冷たさだ。いや、実際に今頬に当たるそれは確かに”痛い”ものではあるのだけれど。余りの焦りに一周回って逆に冷静になってしまっていた。
 目の前の彼は浅い呼吸を繰り返してその深い色をした藍色の瞳に一抹の焔を灯した。それは恋情か、愛情か、それとももっと別の何かなのだろうか?
 どれにしても、私に危機が迫っていることに変わりは無かった。


「ベラ君。」
「名前、名前。」


 壁際に追い詰められてなおかつ顔の横に刺さったナイフと彼の腕に阻まれて動くことができない私は動くことが困難だった。


「兄さんも姉さんもなんで……俺のことを解かってくれない。」


 つぅー、生暖かいものが頬を伝う。ぴりりとした僅かな痛みと熱にそれが自分自身の血液だと言う事を知る。
 ベラ君が壁に突き刺したナイフを引き抜く。薄らと付いた自分の赤にクラリとする私とは裏腹に彼はとても恍惚とした笑みを浮かべていた。付着したてらりと光る赤に指を這わせて言う。


「やっぱり、俺には名前しかいないんだ。だから名前、俺と結婚しよう? そうすればずっと名前は俺を見てくれるでしょ。」


 怖かった。彼の目が、それがとても恐ろしかった。ロシアさんは何時もこんな思いをしていたのだろうか。今なら純粋に同情ができるような気がする。ひやりと背中に冷たい汗をかきながら私は思ったことを口にした。


「それは、どうかな。」


 だって所詮、私は人間で貴方は国なんだ。
 いつだって時間の流れは残酷だ。


「愛してしまったら、私貴方のこと置いていけないもの。」


 でも、そんなことできないから。
 ぽたぽたと降ってきた温かな水滴と、頬に流れるしょっぱいそれを私は零れ落ちる前になめとってしまった。




 お願い、わらって

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