「ねー、なんか教室くっさくない?」 「するするー。なんだろ……絵具ぅ?」 教室の後ろの方で、そんな会話が交わされたのが耳に入った。 絵具、と言う言葉にぎくりとする。ふっと俯いたものの、会話に耳をそばたてた。 確かに今日の朝はあの部屋にいった。足りなかった画材を運び入れるためだ。その中に確かに絵具もあった。けれどその臭いが今になって臭うだろうか、ない、ない。そうは分かっているものの気にせずにはいられなかった。実は何処かに絵具をつけてきてしまったのかもしれない。ちらと制服を見直したが何処にも絵具は付着していない。 もしかしたら本当は彼女たちにバレているのかもしれない。バレているからこそ、遠回りに私の事を言っているのかもしれない。そんな思考が頭の中でぐるぐると駆け巡る。そう思ってしまえば疑心暗鬼に陥るのは早かった。 クラス中の視線が背中に刺さる。嘲笑を受ける。また一人、ひとり。 ( 幻覚だ、これは私の想像だ、そう解かっているのに ) 独りはもう、いやだ。 机の下で握った手の平が微かに震えていた。
「ちさー、古典のノートありがとう……ってどうしたん?」 「ふぇ、フェリクス……。なんでもないです。」 ひょっこりと顔をのぞかせる友人に、はっと意識を現実に戻された。泳ぎに泳いだ視線を悟られないように目を伏せて柔和な笑みを浮かべる。条件反射だ。 「……あ、ノート。」 フェリクスからノートを受け取ろうと手を伸ばす。しかし彼はそれを渡す事はなかった。ぱっと伸ばされた大きな手に手首を掴まれる。は、と言葉を零し彼を見上げる。不機嫌そうな緑色の瞳に困り果てた私が薄く映っている。 「ちょっとくるんだしー。」 掴んだ手首を彼は容赦なく引いて、私たちは煩い教室を後にした。 手首を掴まれている間、彼はずっと無言だった。一言さえ口を開かなかったし、こちらに目もくれなかった。何も喋らないことが怖かった、どこに行くのと言いたくても喉に詰まった様で言えなかった。自分でもその時やっと気づいた。自分の目からじんわりと熱いものが湧きあがって、同時に喉の奥から嗚咽が漏れそうになっていることに。
やってきた屋上は空が嫌味な程に青かった。その隅の方で震える手で膝を抱える。隣に腰掛けたフェリクスは黙ったままだったが、一限目のチャイムが鳴った頃になるとやっと口を開いた。その頃には私の震えも、動悸も収まりつつあった。 「なあちさ。何が怖いのか俺には分からん。だって教えてもらってないし。俺が信じられんから、ちさは言えんないんしょ?」 「……フェリ、クス。」 「けどなそれでも俺はずっとちさの味方やし。……それだけは信じろし。」 ゆっくりと彼は私の髪を優しく撫でて、少し辛そうに呟いた。 ごめんなさい。ごめんなさい。そんな言葉で許されるだなんて思ってないけれど、貴方をまだ信じられなくてごめんなさい。まだ一緒にいた時間は短いけれど、誰よりも優しいのを私は知っているハズなのにね。 「フェリクス、あの……あ、ありがとうね。」 そして、そんな私と友達になってくれたこと、見捨てないでくれること、沢山の感謝の気持ちが同時にあふれる。彼は嬉しそうにくしゃりと笑顔を浮かべた。 「ん、やっぱりちさは笑ってるのがいいし! なんかあったら、直ぐいうんよ?」 「……うん。ところで、フェリクス。」 「んー?」 「私のノート、君のお尻の下で踏まれてぐちゃぐちゃなんだけど。」 「あ。」
フェリクス・ウカシェヴィチという私のここで出来た最初の友人は、本当の私も偽りの私も受け入れてくれる大切な友人だ。( あの日、手をさしのべてくれてありがとう )
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