ラナ

 名前を呼ばれた。
 幻聴でも聞こえたのだろうと、ぼう、としている頭を、一、二度振った。今は、疲れている場合じゃないのだから。眼を見開け、現実を直視しろ。そして、考えろ。

 我が軍(といっても、二個師団程だが。)は圧倒的とは言わないものの、戦いには優勢だった。と言っても、相手が軍国であるからであって、普通の国の侵略ならば余裕で退ける程の働きをしていた。私も青毛の馬を駆って、平原を黒い風が通ると称されるまでに駆け回った。敵だからと言って人を”国を守る”という大義名分の下で斬るのはとても嫌だったから、剣の背を使い向かって来る人の波を倒し続けた。
 余りにも甘えた考えだったのだ。人を殺さずに、平穏を手に入れようなど。矛盾を自分でも分かっていた。けれど、分かりたくなかったのだからしょうがない。そう思ってしまったのは、自分の勝手な憶測だが、我が祖国プロイセンは、このフリードニアを併合するであろうと思ったからだ。もし、フリードニアの実情をフリードリヒさまが知っていたとしたら。
 敵地がどんな場所なのかと一人偵察にいったことがある。初めフリードニアの街を見た時の感想は、酷い、これに尽きる。大して整備されていない道の端には人々が転々と倒れており、腐敗臭が鼻を突く。年端もいかないような子供が項垂れている痩せ細った母親の腕の中で昏々と眠りについていたりしていたのも目にした。その一方で軍服を着た者が轍の残る道の真ん中を堂々と歩いては、獲物で人々を脅している光景もあちこちで見られた。

 結論。この国は、少数の軍人が牛耳っている。これだけでも十分な収穫だった。
 フリードリヒさまは、恐らく知っていたのだろう。この目も当てられないような惨状を。軍人は畏敬の念を国民から持たれる者だが、それが畏怖の念ではいけないのだ。やがてそれは、国に反乱を巻き起こし、自然に国は滅んでしまうことにつながる。
 だから私は逆にそれを利用した。フリードニアの国民を少し煽り、反乱を起こさせる。もともとこちらに攻められ後退を繰り返していたフリードニアの軍隊は隙を突かれて簡単に、その殆どが壊滅状態に陥った。

「(だと、言うのに)」

 眼の上が腫れ上がっている所為か僅かにしかない霞む視界目いっぱいに映るのは血に濡れた軍靴だった。それに自分の血も交じっていることは、己が一番良く知っていた。ああ、頭上で卑しい笑い声をあげているのが聞こえる。

「(あと、少しで、貴方の元に帰れたのに)」

 国境を越えようとした時だった。国境は谷で、私たちはその谷の細い道を歩いていた。ここを通れば祖国へと入ることができる。そんな時だった。谷の上から決死の覚悟でフリードニアの僅かに残っていた敵が飛び出してきたのは。地の利を生かす方法を彼らは私たちより一枚も二枚も上を行っていたらしい。二個師団の殆どが敵の奇襲によって命を落とした。馬も、人もその多くが谷底に落ちていったのを間近に見た。今でも薄れゆく意識の中で、部下たちの悲鳴が木霊して、しみついて離れない。大丈夫ですよ、私ももう直ぐそちらに行きますから。虚ろな目で少しだけ空を見上げれば西の斜光が反射した一振るいの剣が私に降り降ろされようとしていた。

 ごめんなさい、またお会いしましょう。ギルベルト。
 どうか、貴方に幸あらんことを。 

( あなたが覚えてくれる限り、私は貴方と共に )
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