部屋の掃除をしていたら、日記が出てきた。どうやらそれだけ書庫に入れ忘れていたらしい。どれどれ何時のだ? っとページを読み進めていくととあるページでぴたりと手が止まった。自分でも忘れていることがあるんだな。否、忘れたかっただけか。独り合点して指先で文字をなぞった。( ”ラナ・リット” )
 ああ、そうか。そろそろなのか。日付を見て、俺は少しだけ表情を歪めた。

「兄さん……何処か行くのか?」
「おう、ちょっと出掛けて来るわ。」
「夕方までには帰ってくるように。」
「Ja.」

 手に持ったブーケには、俺には似つかわないような可憐な花々で彩られていた。今更、とも思う。今更、約束を破った俺なんかが行ってもいいのかと。最後に交わした忘れないでという台詞に、俺は頷いたと言うのに。口元に浮かんだのは苦笑だった。
 でも、お前も約束守んなかったし、この位許してくれよ。
 とある谷の近くにある石碑にそう投げかけて、ブーケをそこにそっと置いた。
 散って行った二個師団の奴らと最後まで祖国の軍人として戦おうとしたフリードニアの軍人を讃える為か、慰めるためだったかは忘れたがそんな目的で作られたこの石碑には多くの名前がつづられていた。その中に一つだけ、女の名前があった。
 英雄とも言われていると、アイツが知ったらどんな顔をするんだろうか。やっぱり謙遜して僅かに赤面して微笑むのだろうか。否、戦死してしまった私などとのたまう可能性の方が大きい。お前はそうゆうやつだった。何よりも俺のことを考えて、親父のことも気にかけて、最終的にはその意思を汲んでフリードニアを直ぐに併合できるように取り計らったり色々していた。( 大半は、のちに知ったことだけれども )
 今でも目を閉じれば浮かび上がる姿がある。忘れていた、そんな簡単なことじゃない、きっと俺は”忘れていたかったんだ。”お前がいなくなったことを認めたくなかったんだ。俺は、”おかえり”ただ、その一言が言いたかっただけなのにな。

「そういや、言えてなかったな。」

 まあ、思い出したのが今日の朝だけどよ。

「おかえり、ラナ。」

 俺はもう国じゃなくなっちまったけど、お前をこの身体に確かに抱いて、歩んでいくよ。笑ってそう呟いた刹那、柔らかな風が頬を撫ぜた。谷から聞こえて来る風の音が、まるで唄のようだった。悲しいような、苦しいような、そしてどこか一歩を踏み出す勇気をくれるような、そんな音だった。

「まるで、別れの唄みてーな音しやがってよー……。」

 忘れていた俺に対しての仕打ちにしてはとても悲しい仕打ちじゃねえかと、一人ケセセと笑いを零した。目頭がなんだか少しだけ熱いし、鼻がつんとする。こんな真昼間の時間帯に来たからか俺以外に人はいない。なので俺は寂しさを紛らわせるために盛大に独り言をつぶやく。余計に虚しさを加速させているような気がしないでもない。

「でも、別れの後には出会いがあるものですよ?」
「ああそうだな。でもあいつとはもう二度と会えやしねーしなあ。」
「そうですか、それで、そのアイツって誰ですか?」
「フリードニア戦の英雄っていやあ分かるだろ?」
「もしかして……こんな顔だったりしますかね。ギルベルト?」

 見開かれる目と、考えることを止めてしまいそうになった俺の思考。今や頭の中は真っ白で、ただただ茫然としていた。今の声は、
 振り返ろうとしてもどうしてか身体が思う様に動かなかった。ああ、自分が震えているのが分かる。恐怖では無く、歓喜とでも言うべきか。真白くなった思考の中で、ただその字だけが躍っていた。
 目の前にぴょんと飛び出た”アイツ”が薄く笑んでいるのを、涙で霞んだ瞳で確かに目の当たりにすると、頬をぼろぼろと涙が伝っては落ちていく。上手く回らない舌をなんとか動かして「幽霊?」と問う。目の前のアイツは頭を振って、まさかの言葉を口にした。

「幽霊なんかじゃないです。私は、フリードニア。貴方と同じ亡国ですよ。ラナ・リットでもありますけどね。」

 にへらと屈託のない笑みを浮かべたお前が酷く愛おしく感じて、俺はそんなお前がまた何処かへ行かないようにとありったけの力でその小さな体を抱きしめた。あたふたとしているのが伝わったが、ただただ暫くの間はその腕の力を緩ませることはなかった。
 涙がお前の肩を濡らして、俺の胸もあたたかな水滴のせいで濡れていた。

 始まりがあるものは、終わりがあるのだ。
 そしてその逆もまた然り。
 それはこの世界が始まった時から決まった、ただ一つの変わらない定めである。
 だから、この終わりも運命なのだ。
 新たに、始まる運命のためにも必要な終わりなのだ。

「おかえり……っ!」

 一言、かみしめるように呟いた言葉はまさに終止符だった。
 また、新たな始まりの針が動き出した。
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