わたしは朝から柄にもなく焦っていた。別に学校に遅れるからとか、宿題やってないとかではない。そんなことで焦るわたしではないし、たとえ遅刻したとしても宿題を忘れて先生に怒られたとしても次から頑張ろうと思うだけで特にわたしは気にしない。まぁこれは仮定の話であってわたしはしっかり今日の英語の訳の宿題は半分やって残りはマルコに見せてもらおうと思ってるし、現にわたしは始業時間の30分前だというのにもう学校に着いている。
そんなんじゃない、そんなんじゃないのだ。
わたしはハァハァと息切れしながらも走る足は止めない。まったく、日頃運動してないのがこんなとこで裏目に出てしまうとは、わたしは小さく舌打ちをし自分のだらけた私生活を少しだけ呪った。
*
「エ―スどこ…!!」
ガラッと開け放った扉。乱れた息、乱れた髪の毛、乱れた制服。クラス中の(まぁまだ早い時間だからそんなにいなかったけど)視線がざっとこちらを向く様は少しばかり身構えてしまう。しかも違うクラスだから尚更だ。そしてクラス中を見渡すと見知った顔を見つけた。あっちもわたしに気づいたのか手をあげた。
「よぅ、なまえ」
「マルコ!あぁレッスン3の英語の訳見せて今日三時間目に提出なの!…あ、そうだ、じゃなくて、エース!エースは!?」
「おいおい落ち着けよい」
朝から早いねと感心するのを他所に乱れた息ももろともせずあたふたとマシンガントークで話すわたしに一旦落ち着く様諭してきた。あら朝はメガネかけてるのね。
「エースはまだ来てねぇよい。おまえも知ってるだろ?来るのが遅いってことくらい」
「もう…!!末代まで呪ってやる!箪笥の角に小指をぶつけてもがき苦しむのを親子三代続ければいい…!」
「…非道すぎるなそれ」
わたしがギリッと親指の爪を噛みなが言うと、口角を引きつらせたマルコが目に入る。
「電話したのか?」
「したわよぅ何度も!なのに出ないの…!絶対携帯見てないよあのバカ!何の為の携帯なのよ!」
「あー、納得」
納得じゃないし!ああもう、とむしゃくしゃするわたしに再度落ち着けと言ってきたマルコ。落ち着けたらわたしだってこんな朝早くに学校来てないし!めざましテレビ見てるし!今日のわんこ見てるし!なんてキーキー叫ぶわたしに今日のわんこ見てんのかよ、なんて暢気に言ってきた。そんなマルコの暢気な声にも込み上げてくる焦りは止まらず、どうしようどうしようとブツブツ口から出てしまう。
「…どうかしたのかよい?つかなまえ…、その帽子どうした?」
ギクリ、とした。
それとなんでズボン履いてんだよい、と素朴な疑問をしてきたマルコにうっ…と黙りこむ。痛い所を突かれた。いやこれはきっと誰もが思うであろう疑問だと思う。
「…や、やーねマルコったら!わたしのパンツが見たいからって!ふぐっ!」
「てめ、!!声でか…!!」
瞬時にザワッとした室内にマルコはハッと気づき咄嗟にわたしの口を両手で押さえた。マルコの手は大きくしかも両手な為口だけでなく、鼻の穴まで塞がれた。何て言う不可抗力!きつ!苦し!殺人事件!とバシバシと手を叩くが頬を染めクラスの反応を気にしているマルコには全く気づいてもらえなかった。
わたしが嫌がおうにも死を受け入れた瞬間マルコは事の重大さにハッと気づき手を離してくれた。
「わ、悪い…」
「ごほ…!、…それがシャバの空気を吸ったマルコの最期となるのだった…」
「何勝手に人殺してんだよい!」
「パンツ見たさに犯罪はダメだよマルコ君…」
「…!!てめ…!誰のせいだよい誰の!」
憤慨するマルコを他所にちらっと右上にある時計に目を移す。──…8時2分。
「めんごめんご!エースいないならいいや…!またね!あ、もし来たらわたしが探してたって伝えておいて!」
あぁ…!?、とまだ頬を染めご立腹のマルコにじゃあね、と手を降り距離を置く様に離れた。大丈夫ごく自然にやってのけた。そして教室から出る時に、それとこのそばかす野郎!って伝えて置いて、と今わたしに出来る最大の八つ当たりをエースに残した。
たく…、はぐらかされた、なんて呟いたマルコの言葉はもう教室から出ていたわたしの耳には届かなかった。
プルルルプルルルー…。果てしなく続く無機質の音。あぁもう!またしても電話に出ないエースに舌打ちをする。何かあったんじゃ…という心配をするほど今のわたしには全く余裕がなかった。なので携帯のボタンをカチカチと打ち、『豆腐の角に頭打って死ね』という非人道的なメールを送れたのだ。彼女がこんな危機的状態にあっているというのにエースはなにやってんのよ!今日のわんこ見てんのか!と憤慨した。今日のわんこ見てたら絶対に許さない、わたしが見れなくてエースが見れるなんてそんな理不尽な現実認めない、なんてジャイアニズム全快で廊下に響き渡るほどの舌打ちをした。
そして、はた、と歩みを止めた。そう、気づいてしまったのだ。一番の不安要素に
──もしエースがこのこと知ったらどう思うかな?
ピタリと止まった動き。廊下の真ん中で突っ立っていると朝の部活終わりであろう生徒が不思議そうにこちらを見ては歩いていく。
──こんなわたしを、エースが受け入れてくれるだろうか?いや、寧ろ嫌われてしまうのでは?
ドク、ドク、自分の鼓動が嫌に聞こえてくる。"別れよう"、わたしの姿を見ながらツラそうにそう言うエースの姿が目蓋に浮かぶ。
エースにこのことを告げることがこんなに恐いことだなんて、わたしは無意識の内にスカートをギュッと握っていた。わたしはエースを信じてないのだろうか?そんな背徳的な考えを振り払おうとするが、一度抱えてしまった不安は簡単には拭い取れない。
無意識に頭に手がいく。
あぁ、こんなことになるなんて朝のめざましテレビの占いでは言ってなかったのに…、気を抜くと溢れ出てきそうになる涙を喉の奥で塞き止めた。
…今日はもう帰ろう。
わたしは携帯をスカートのポケットに入れ、鞄を取りに行くために自分のクラスに戻った。
時刻は 8時7分