前に一度、聞いたことがあった。逃げないのかと。そうすると彼女は笑って、「どこに逃げるって言うの」と答えた。逃げ場なんて探そうと思えばいくらでも見つかるに決まってる。彼女は逃げないだけの臆病者だ。
 彼女は誰より他人のことを考えていた。でも、俺のことなんか1ミリも考えていなかった。



「プールに行こうって誘われちゃった」
「へえ。行くのか?」
「まさか」

 夏休みも近くなった猛暑の中、なまえは見てる方まで暑苦しいカーディガンなんか羽織って顔を真っ赤にしていた。流れる汗をタオルで拭きながらも、袖を捲ろうともしない。見たいとも思わないし、彼女も見せたくないと思っているのだろう。

「もうすぐホーリーロードが始まるんだってね」
「……あー」

 去年は試合の度、応援に来てもらっていた。「今年も行くね」と応援する気満々のなまえに、なんと言えばいいのか。今年の雷門の結果はもう出ている。一回戦敗退だ。




 今の世の中、サッカーが全てだ。サッカーをしていればいい大学に入れるし、きっと就職だって上手くいく。立派になるという言葉をどう解釈するかは人に寄るだろうが、少なくとも俺はそれ相応の収入がある人間になることだと考えている。というか、考えるようになった。いくら彼女が救いたくたって、先立つものが無ければならないわけだ。
 サッカーだってただすればいいってものでもない。フィフスセクターの指示通りに動かなくちゃ意味が無い。好き勝手にプレイ出来るのが望ましいが、指示を聞いていればなにもかもが上手くいくと言うのなら仕方ない。それもこれも、早く「立派」になって彼女を救いたいが為なのだ。

 転校することを伝えると、なまえは寂しそうに「メールとか、電話するね」とだけ言った。

「…他に、ないのか」
「えっと…」
「悪い、気にしないでくれ」

 引き留めて欲しいわけじゃない。俺は行かなければならない。今俺が行動を起こすことで彼女が救えるなら、さっさと起こすべきだ。大体、彼女に「おいてかないで」なんて言われたりしたら、俺はどこにも行けなくなる。

「転校しても会えないわけじゃない」
「そうだよね」
「会ってほしい。ほら、どこか出掛けたりさ」
「…離れたって友情は変わらないよ、ね!」

 泣きそうになった。俺にどうしろっていうんだ。俺が、頑張らなければならない。俺が立派になるまで彼女をずっと支えていたかった。ここにいたって、どうしようもない。革命なんて成功するかも分からないものに頼るほど、俺の未来は不安定ではいけないのだ。




 「もしもし」と声が聞こえた。どうにも電話越しだと機械がかっているが、話し方は彼女そのものだった。

「試合、来てたのか」
「ううん。ごめんね」
「いいんだ、どうせ負けたし」

 返事は無い。

「篤志くんが試合を楽しめたんだったらいいんじゃないかな」
「そういうもんじゃ、ないだろ」
「じゃあ、どういうもの?」

 ううん…言葉に詰まった。
 もう言ってしまってもいいか。

「例えば、今からサッカーで活躍してれば才能を伸ばしていけばサッカー選手になれるだろ?」
「うん」
「サッカー選手になればスゲー金持ちになる。で、結婚して嫁を幸せに出来る」
「あの、なんの話?お嫁さんが欲しいの?」
「要約すると、そうなるな」

 はぁ?と言われた。彼女の機嫌を損ねたらしい。まあ、突飛な話だったのは認める。

「恥ずかしい例えだが、シンデレラだ」
「電話切っていい?」
「黙れ。嫁さんの実家は良い所じゃない。少なくとも嫁さんにとっては」
「はいはい」
「それで、金持ちの俺がそこから脱出させてやるわけだ。嫁さんは家から脱出出来て幸せ、俺は好きな女と結婚出来て幸せ。一石二鳥だろ?」

 なまえは適当な相槌を打たなくなった。俺の名前が呼ばれたが無視。黙れって言っただろ。話聞けよ。

「まあなんだ、そんなこと言っても俺は負けたし」
「え」
「そんな夢みたいな話も敵わなくなったわけだ」
「……そっか」

 反応が薄い。もちろん反応を見たくてこんな話をしたわけでもないんだが、彼女はネガティブな発言に対して敏感で、こんな話をすれば怒ると思ったんだが。

「お前はさ、どうなんだよ」
「なにが?」
「家から出たいとか思うわけ?」
「そんな、直接的に聞くんだね」

 電話の向こうからくすくすと笑い声が聞こえた。なまえの、目を細めた笑顔が思い浮かぶ。

「お前さ、そうやって笑ってたらなんとかなると思ってるだろ」
「どうだろう?そうかな」
「もしお前に取り返しがつかないことになったら、困るのは俺なんだよ」

 うむ、言ってしまった。勢いで電話を切る。すぐになまえから着信があったが、なんとなく無視してしまった。
 いろいろまとまらないことを言ってしまったし、取り返しがつかないのは俺と彼女の関係だ。困る。

 今度はメールが来た。恐る恐る、開く。どんな内容にしたって電話よりはダメージが少ないはずだ。
「私も篤志くんになにかあったら困るよ」
 そういうことじゃないんだが、彼女と俺の気持ちが大して変わらないことは大体分かった。

 俺は臆病者だ。立派になれないとかなんとか言って、彼女に気持ちを伝えることすらしていなかった。もし俺が気持ち伝えたら、彼女の生傷は減るだろうか。俺が、彼女が傷付くのが嫌だと理解してくれるだろうか。
 気が付けば走り出していた。もし俺が、立派になれなくてもきっと彼女を幸せにする。シンデレラじゃなくても、普通の「いい奥さん」くらいにしてやる。


120216
臆病者は走り出す

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