「ここで待ってて」
先輩は優しい。私はその優しさに甘えている。
先輩の家に来たのは初めてじゃない。雨の日に一度、来たことがあった。
蘇るあの日。私は静かに目を閉じた。
その日雨が降ると言うのは、お天気お姉さんの発言とは違うものだった。曇りとしか言ってなかったのになー、なんて考えながら私は窓にかかる水滴を眺めていた。
私は置き傘があった。
それは、いつ買ったか思い出せないようなありふれたビニール傘。小さくて軽く、家にあるものよりかわいくないけど愛着はあった。
帰りに傘立てを見ると、傘はなくなっていた。誰かが間違ったか、誰かがパクったか。はたまた公務員さんにすてられたか。
どれでもいいけど、私はどうやって帰ろうか。
親は遅くまで仕事でいない。兄弟もいない。叔父さん叔母さんを御呼び立ては少し申し訳ない。
だからといって走って帰れる距離じゃない。体育苦手な私なら間違いなく無理。遠いし。濡れたら、後が怖い。風邪とか。
「あれ。どうしたの?」
「先輩…傘がなくて」
「あー…なるほど。ちょっと待ってて」
緑色の髪が個性的な井浦先輩。なんだか今日は大人しめ?前会った時はかなり騒がしい人だったと思うんだけど。
そんなことを考えながら、先輩を待つ。先輩はバタバタと走りながら、鞄を持ってきた。一緒に帰ってくれるのかな。
「俺はほら、傘あるから!」
「うわ、ありがとうございます」
「いいっていいって」と笑いながら先輩はその、髪と同じ緑色の傘を差した。
「かわいいですね、この傘」
「そうかな、無地なんだけど」
「緑色が…かわいくて」
そう言うと、なぜか先輩が赤くなる。緑って傘の緑だよ…ていうか緑がかわいいって何言ってんの私…
その後相合い傘状態で歩くこと10分。…会話が、ない。
そもそも先輩とは一度か二度話した程度で、知人レベルの知り合いだった。それが相合い傘…なんだから仕方ない。
でも井浦先輩明るそうで、こんな気まずくなるようなタイプじゃなかったはずなのになあ。
「あ、あの…っうわ!?」
話し掛けようとした瞬間、水が飛んできた。勢いよく通ったトラックのおかげで、スカートから靴までびしゃびしゃに。
「うわ…あの、俺ん家近いんだけど寄ってく?」
「い、……お言葉に甘えさせていただきます」
いえ、と言おうとしてこのひどいスカートの有様を見て、先輩にお世話になることに。ある程度乾かさないと、寒いし。
先輩の家は本当に近かった。すぐに家について、先輩は家のなかにまたバタバタと駆け込んでいった。私はといえば、ぽたぽた水滴を玄関先に滴らせていた。
先輩はタオルを持って来てくれた。私にそれを渡すと、また奥に入って今度はオレンジジュースを持ってきてくれた。
「あの…ほんとにすみません、お構いなく」
「いや、ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうから…どうする?スカート…」
「大丈夫です、多分………これ、いただきますね」
心配そうな先輩の顔と、甘くすっぱいオレンジジュース。肌寒い雨の日に、私は恋に落ちた。
「ごめんごめん」
先輩はまたオレンジジュースを持ってきてくれた。あの日と同じだ。
この気持ちに先輩は気づいているのだろうか。応えてくれるのだろうか。
それはこれから数秒後にかかっている。
「先輩、あの…!」
あの日から今日まで
100207
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「見えない臓器の名前は」
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