手を繋ぐだのなんだの出来るはずがない。あいつ、だってあいつ。近寄るとなんかよく分からないいいにおいがするんだ。隣に座ってるのでいっぱいいっぱいだ。
ところで今日なんか俺のことを「神童くん」じゃなく「拓人くん」なんて呼んだ。「か、彼氏だし、…だめかな」なんて恥ずかしそうに言われたらどうしようもない。素っ気なく「いいんじゃないか」としか返事出来ない。やっぱりその時も、なんとも言えないいい匂いが鼻を掠めていた。
霧野は「神童は一年経とうが手も繋げなさそうだな」と俺を評した。失礼にも程があるが、的を射ている気がしないでもない。
しかし霧野の評価も多少は間違っていた。別に俺だって、結婚だとか成人するまでは清い付き合いでいたいなんて聖人みたいなことを考えてはいない。かといってアレなことをしたいとか極端な話ではないからな。ただ、その。手を繋ぐとか、キスをするとか、そういう行為に人並みに憧れは持っているわけだ。…それをなかなか実行に移せないだけで。
「一緒に帰りたいから」とみょうじは放課後の教室で俺を待っている。もちろん最初は断ったが、「彼氏と一緒に帰るのって夢だったの」と言われ、付き合い始めたばかりだった俺は、彼女の「か」の付く名称にやられて頷いた。彼氏、というのは今でこそ効力を発揮することが少ないが、当時はその単語だけでどぎまぎしたものだった。あれももう、三ヶ月も前の話なのか。感慨深いな。
部活を終え、教室に戻ると席でぐったりしたみょうじが目に入った。驚いて駆け寄ると、ただ眠っているだけみたいだ。少し安心。
寝顔なんて初めて見たが、やばいな。これ、あの、無防備だ。安らかな寝顔だな。起こしていいものなのか、少し迷う。とりあえず、近くの席の椅子を静かに持って来る。
シャープペンを握ったままのところを見ると、今日も自習しながら俺を待っていたみたいだ。机には英語のノートに教科書、それから電子辞書が広げられていた。
「みょうじ、」
規則正しい寝息。
「……なまえ」
今もし、みょうじが起きたら。俺はなんて言い訳しようか。「彼女なんだからいいだろ」?俺はいい匂いもしないし無理だ。みょうじには効かない。
そんな考えは無駄だったようで、名前を呼んでも寝息は乱れることがなかった。
部活も終了する時間で、校庭からは生徒の声がちらほら聞こえる程度。俺が教室に戻る時には、校舎内では一人、教員とすれ違っただけだった。廊下からは足音も声も、なにも聞こえない。
「なまえ、起きてないよな」
机の上でペンを握ったままの右手を上から、被せるように握る。…冷たい手だ。
心臓がうるさい。脈が速いのが分かる。なんでこんな匂いがするんだよ。余計に緊張するのはこれのせいだ。
さて、どうするか。キスするべきなのか。ていうか俺はさっきまで、するつもりだった。が、手を握ったらもう十分というか、今の俺のキャパシティを越える区域だ。キスだぞ、キス。
手を離し、乱雑に持って来た椅子を戻す。「んむむ…」となまえの唸る声が静かな教室に響いた。
「あれ…拓人くん?」
「…やっと起きたか。帰ろうぜ」
「えっ、わ、私寝てた?うわー!ごめんね!」
いや、俺こそ色々とごめん。…口には出せないので心の中で謝っておく。
「変な寝言言ったりしなかった?」
「特にはないな、静かだったし」
「そっか、ちょっと安心」
変な寝言を言うなまえを想像して、少し口元が緩んだ。
「そういえばなまえは、普段何時頃に寝てるんだ?」
「夜?うーん…色々だなあ」
…ちょっと待て、今名前で呼んだぞ。なまえは気付いてないみたいだが。それが救いだな。
「今日はあんまり眠れなさそうだなあ」
「なんで?」
「今ちょっと寝ちゃったし」
「なるほどな」
「拓人くんに名前で呼ばれちゃったし」
ああ、気付いてたのか。ちょっと死にたくなった。羞恥心で。
「…俺の彼女なんだから、別に構わないだろ」
効かないとは分かっていても口から出ていた。彼女は俺みたいに単純じゃないはずだとは分かっている。
こくんこくんと一生懸命首を縦に何度も振り、「私、その。嬉しいよ!」なんて言うなまえには敵いそうもない。
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