お母さんはなにも言わずに、お夕飯の時間になれば「ごはんよ」と言い、「早くお風呂に入りなさい」と言い、「おやすみなさい」と言えば「おやすみ」と返してくれた。お菓子の話は一度も出なかった。それが逆に辛かった。
蘭くんに「メールとか、いつでもしていいから」と言われたことを思い出して、眠る前に携帯の電話帳を開いてみた。姉のメールを打つところなんて見たことがなくて、文面もちょっと想像がつかなかった。そのせいでメールなんて機能自体あんまり使っていなかった。でも、きっと蘭くんなら私が思うままに打ったメールに返事をくれるだろうと思う。
新規メール作成画面を出して、なにかメールを打とうと思った。でも大した話題が思い付かないし、唯一思い浮かんだのは拓人くんの彼女の話。…メールでする話じゃない。
三十分くらい悩んでから「おやすみ」にかわいい絵文字を付けて送信した。五分と経たずに「おやすみ」が返ってきた。わくわくして、どきどきする。また、メールしてもいいかな。明日もし蘭くんと話せたら、そのことを聞こう。
その夜は嫌な夢を見た。姉が今の私を見て、酷いことを言う夢だった。びっくりするくらい涙が出た。
もう記憶も薄れつつあるけれど、「なんのためにそんなことしてるの」と言われた気がする。拓人くん、は違うな。もうお姉ちゃんのことを好きなわけじゃ無いし、お姉ちゃんの真似をする私を嫌がってる。お母さんのため。でも、そのお母さんには昨日私が酷いことを言った。自分?
誰のため、そんなのわからない。
学校についたら蘭くんがまっさきに声をかけてくれた。「目が真っ赤だけど、」となにか言いかけて、はっとしたように言葉を切った。
「蘭くん、私って友達?」
「え」
「相談、聞いてくれる?嫌ならいいんだよ」
彼の顔が見れない。お願いをするのは、すごく図々しく感じた。
はあ、と蘭くんのため息。引いたかな。私なんかが相談なんてふざけてるって思われたかな。
「当たり前だろ。いくらでも聞くし、遠慮なんかしなくていい」
顔を覗きこまれて、ちょっとびっくりする。少し泣きそうになったけれど、なんとか踏ん張れた。優しい幼なじみが二人もいて、私は幸せだと思った。今更過ぎるけど。
しばらくすると担任の先生が来て、私も蘭くんも席についた。ホームルームの途中、一度だけ蘭くんと目が合った。なんでかな、どきどきする。
部活が終わった後ならいくらでも話せる、と言われたので、図書室で待つことにした。暇潰しにハードカバーの本を一冊。
外が薄暗くなってきて、本も読み終わる頃に蘭くんは図書室に来た。息が荒いところを見ると、急いで来たみたいだった。
「あの、ごめんね。走らなくてもよかったんだよ」
「俺がただ、早く来たかっただけだから」
「そ、そっか…」
私のために、と考えると嬉しい。
「どうする?ここで話すか」
「うん。もう人もほとんどいないし」
教官室に明かりはあるけれど、図書室の中にはもう生徒は一人もいない。声量にさえ気をつければ、私のおかしな話をしてもいいはずだ。
一旦、本を元あった本棚に戻してまた席につく。蘭くんはもう息を整えていて、私が座ると「それで、やっぱり神童のことだろう」と言った。
「違うよ、蘭くん」
「あれ」
「拓人くんは仕方ないもん」
なぜか蘭くんの口元がにやりと笑う。
「蘭くんは、髪が長いひとって好き?」
「…なんで?」
「あと、甘いものが大好きで、誰にでも優しくて、表裏がなくて、友達がたくさんいて、」
言ってる途中で、蘭くんがぐにゃりと歪んで見えるようになった。それでも止まらない。
姉はいつもきれいな長い髪を丁寧にとかしていて、甘ったるいお菓子を食べるのが好きで、優しくて、その性格のおかげで友達がたくさんいて。だから小さい頃の拓人くんは姉を好きになった。
「……それで、こんな顔してる女の子」
最後に私の顔を指差した。
引いたかな。涙を両手で、目を擦るように拭っていたら、「また目が赤くなるぞ」と言われてしまった。そんなこと、気にしないのに。でも、とりあえずハンカチで押さえるように涙を拭き取った。
蘭くんの顔を見る。引いてはない、みたい。
「俺は昔から変わってない。神童も大して変わってないけどな」
「そんなことないよ。みんな変わってるよ」
「変わったのはお前だろ」
「私はお姉ちゃんなんだもの」
それも、ボロボロだけど。
「なまえがあいつになれるわけない」
「…なれるよ」
「なんでそんなこと、してるんだよ」
夢の中の姉と同じことを言った。今日一日、そのことを考えてた。答えは出てる。
「みんな、お姉ちゃんが好きなんだよ。私も、みんなに好きになってもらいたかった」
汚い答えだけれど、これは本音だった。拓人くんもお母さんもお姉ちゃんが大好きだった。私は同じ顔なのに二の次。どんなに頑張っても、お姉ちゃんには勝てない。それなのに、そのお姉ちゃんがいなくなってしまった。みんな悲しそうだった。スライドパズルみたいに、お姉ちゃんの位置に私が入れるかもって思った。かしゃって、ほんの一つの動作。簡単だと思ってた。
「そんなの、元々なまえが好きだった奴はどうするんだよ」
「いないよ、そんなひと」
「…ここにいる」
「でも、お姉ちゃんも好きでしょう?私がいなくなったと思えばいいよ」
「そういう好きじゃないんだ」と蘭くんが声を荒げた。
「ずっと、見てたんだ」
なんとなく、蘭くんの「好き」が分かった。たぶん、私がちょっと前まで拓人くんに持っていたのと同じ感情だと思う。
「蘭くんと話せてよかったよ。また明日ね」
「…送ってくよ」
「寄り道したいところがあるから、ごめんね」
そう言えば蘭くんはもうなにも言えないみたいだった。早足で図書室を出る。
本当は寄り道なんかしない。早く家に帰って、やりたいことがある。
110821
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