明るい場所だった。暖かい場所だった。柔らかくて、すごく居心地がよかった。ずっとそこにいたかった。そこから出てしまったら暗くて冷たいところに居続けなければならなくなるとぼんやり感じていた。
「久しぶりだね」
懐かしい声がした。明るくて暖かい声だ。俺を安心させるような、なまえの声。顔を上げるとなまえが明るく暖かく優しい笑顔を俺に向けていた。
何年も彼女には会っていなかった気がする。毎日一緒にいたと思うんだけど、なぜだろう。不思議だ。
「返事もしてくれない?」
俺がなにも言わずに顔を見つめていると、イヤミを言った。やっぱり懐かしい気がする。彼女の言葉は少しちくちくしていた。ちくちくを受け止めて、俺は返事をする。
「すまん、えっと。悪いが久しぶりか?」
「なんで?」
「だってほら、いつも一緒に遊んでるじゃないか」
「………ああ、そうだったね。冗談のつもりだったんだ」
冗談を言うような顔じゃなかったような。でもなまえがそう言うならそうなんだろう。

「ジャンルカは最近どう?」
「どうって、別に…」
「ゴンドラ漕ぎにはなれた?なれそう?」
「どうだろうな…」
そういえば俺の夢はゴンドラ漕ぎだった。いつも追い掛けてる夢を忘れるなんて、どうかしてる。なまえは俺の曖昧な答えに苦笑して、「しっかりしてよ」と言った。ゴンドラを漕ぐ練習を最後にしたのはいつだっただろう。ずいぶん前のような、つい最近のような。手にはオールの感覚が残っているような気がする。
「なりたいな、ゴンドラ漕ぎ」
「ふうん…」
「応援してくれよ」
「もちろん、してるよ」
「そうだよな…うん」
なまえは練習によく付き合ってくれていた。俺の漕ぐゴンドラに乗りたいとよく言っていた。確か俺も、いつか彼女を乗せたいと思っていた。それで、彼女に告白したいと思っていた。でも、出来なかったのだ。どうしてだろう。目の前にいるのに、告白なんて本当はいつだって出来るはずだったのに。
「喉渇いたね」
「いいや…俺は別に」
「そっか、ならいいんだけど」
喉は渇いていないし、腹もすいていなかった。とてもとても満たされていた。
「そういえばなまえはコーヒーが飲めるようになったのか?」
「…なってない」
「それじゃあ"大人の女"になれないんじゃないか」
「うん、なれなくていいんだ」
少し辛そうな笑顔だ。明るくない、暖かくもない、作り笑いだった。なぜこんな顔をするんだ?ずっと彼女は憧れていたはずだ。カッコイイ女の人、とやらに。
「憧れはどうしたんだ?」
「憧れてるよ…今も、カッコイイ女の人。でももう駄目だから」
「そんなこと、ないだろう」
「ジャンルカはひどいよ。私のこと忘れちゃったの?」
「忘れてない、今だってこうして話してるじゃないか」
名前だって憧れだって好き嫌いだって、なまえをよく覚えてる。忘れられるはずがない。なまえが悲しい顔をするようなことを俺は言っていない。だってよく覚えてる。忘れてることはなに一つない。彼女との思い出はいつまで経っても忘れたくない。だって、だって、だって。もう二度と彼女には会えないのだ。二度と更新されない思い出たちを忘れてしまったら、彼女はどうなるのだろう。俺はどうなるのだろう。

「なまえ、しばらくここにいていいか?」
「ジャンルカはここにいたいの?」
「…たぶん」
「今日のジャンルカは曖昧だね」
明るい笑顔が彼女に戻った。ただ、暖かくはなかった。暗にここを出ていけと言っている様だった。でもここは居心地がいい。出て行きたくはない。
「うーん……コーヒーってさ、どうやったら飲めるかな」
「ミルク入れて砂糖入れればいいんじゃないか」
「…とっくに試したよ」
「じゃあ飲まなきゃいい」
「飲みたいんだって……えっなに、泣いてるの?」
否定しようと首を振るものの、目から流れ出るものは止まらない。
「ここにいるのは楽しいな」
「そうかな?私は退屈だけど」
「俺はなまえがいる」
「…そりゃどうも」
「やっぱりここにいない方がいいのかな、俺は」
「さあ…私からはなんとも」
「さっきからどっか行けって目で言ってる」
「いやそんなことないよ、全然」
焦ったように言い訳するなまえ。絶対に「そんなことは」ある。昔からなまえとよく話していた俺がそう思うのだから、ほぼ間違いない。彼女は分かりやすいんだ。目を見ると全部わかる。

「なまえ、本当はもっと大人になってから言うつもりだったんだが」
「うん、なに?」
「好きだ、その、だいぶ前から」
「ああ…知ってたよ」
「返事もくれないの、か?」
なまえの口調を真似てイヤミを言うと、困ったように笑った。明るく暖かい笑顔だ。
告白は俺が一流のゴンドラ漕ぎになって、ゴンドラを漕ぎながらするつもりだった。それが夢の一つだった。でも叶うことがない。今しなければいけないと思った。もう彼女とは会えないのだろうから。
「私も好きだったよ。ていうか、好き、です」
「…そうか。素直に嬉しいな」
「ニヤニヤするのやめてよ」
「なまえこそ」
告白が上手くいって嬉しくない人間がいるわけもなく、笑いは止まらない。いつの間にか涙は止まっていた。
「俺はまだ戻れるかな」
「うん。きっとね」
「またここに来れるか?」
「たぶんね」
「また会えるよな」
「少なくとも、私はまた会いたいと思ってるよ」
明るい笑顔だった。暖かい笑顔だった。優しい声色だった。また会いたいと強く願った。今は一緒にいてはいけないと思った。でも、いつの日にかまた一緒にいられるようになると思った。
「がんばれ」
懐かしい声が最後に響いた。


目を覚ますと、白い天井が見えた。体が重く、怠く、少し肌寒く感じた。…居心地が悪い。でも嫌いじゃない。頑張れるだろう。
彼女と同じ交通事故に遭った。でも、俺は死ななかったみたいだ。彼女に追い返されてしまったからかもしれない。
しばらくしてチームメイトが俺を見舞いに来た。意識が戻って良かった、と暖かい笑顔で言った。


101017
明るく暖かく柔らかい

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