布団を被っても、先輩が俺の腕を掴んだ感覚が抜けなかった。とろんとした表情と、ほんの一瞬盗み見ただけのすやすや眠る顔がぐるぐる脳裏に巡って、女の子の無防備な姿を見てしまった罪悪感からなのか心臓がばくばくして。結局眠ったのは何時のことだっただろう。
 昨日の練習の疲れも取れないまま、目覚まし時計が鳴った。
 学校を休むわけにもいかないしとなんとか起き上がって、ふと部屋を見ると誰かが、いる。サスケではない。昨晩とは打って変わって、ぱちりと開いた目の先輩だった。
 思わず目を擦る。あれ、なんで先輩が俺の部屋にいるんだろう。

「ごめんねてんまくん!」
「えっ、あっ、はい」
「昨日はわたし、寝ちゃったみたいで…」
「…そのことですか」

 「え?」と先輩が首を傾げる。まさか俺が先輩のことを考えてしまうことについて謝られたのかと思ったなんて、言えるはずがない。なんとかごまかして、布団から出た。四月とは言え、寝巻きじゃちょっと肌寒い。

「あと腕、ずっと掴んでたみたいだし…」

 …そう。それが、問題だった。細い腕の感触だとか、ほのかないい匂いだとか、今俺の瞼がすごく重たい原因はそのせいだと思う。
 と言えるはずもない。そんな、なんてことありませんよ。先輩にそう伝えると、にこにこ笑って「それならよかった」と言った。
 …俺に笑顔が向けられたのは初めてかもしれない。そもそも、先輩と会ったのは昨日が最初だったわけで。

「そういえば、先輩の名前を知らないです」

 いや、正しく言えば名前は知ってる。下の名前は。秋姉が昨日「なまえちゃん」と呼んでいたし。ただ、俺は先輩とそこまで仲良くもないし、下の名前で軽々と呼べない。「先輩」と呼べば通じるけど、名字もきちんと知っておきたかった。

「そ、そっか。知らないんだね」
「先輩は俺の名前知ってます?」
「てんまくん…だよね?」

 やっぱり先輩も、秋姉が俺を呼ぶのを聞いていただけみたいだ。相変わらず疑問符の付いた呼び方だった。

「俺は松風天馬って言います」
「へえ、すてきな名前だね。松風くん」

 松風くん。先輩の口が俺の名前を発した。疑問符も付いていないし、戸惑いもなかった。でも、なんだか複雑だ。急に距離が遠くなったような。

「私は、苗字なまえといいます」

 苗字、先輩。よし、覚えた。

「松風くん、学校に行く前にランニングするって聞いたから。その前に謝りたくて」
「…そうですか」
「私は一旦家に帰らないといけないし」

 先輩はそう言うと鞄を見せた。なるほど、教科書がないってことかな。
 なんて言えばいいんだろう。先輩はこれから家に帰って支度をして、学校に行く。俺はサスケと走って、学校に行く。学校は同じだけど、きっと先輩とは会わないだろう。今までに先輩を校舎内で見かけたことはない、気がする。大して気にもかけてなかったから、微妙なところはあるけど。
 気が付いたら、自然と口が動いていた。

「あの、先輩の家ってどのあたりなんですか?」





 木枯らし荘から歩いて十分くらいのところに先輩の家のマンションはあった。サスケが急かす分、実際には十分もかからなかったと思う。
 背の高いマンションを先輩は眺めていた、というか、睨んでいたように見えた。

「私の家はね、六階なの」

 天高く、先輩が指差す。俺は下から六階を数えて、そうしてやっと先輩の家の高さが分かった。

「あそこ、ですか」
「うん。ベランダに出ると、ちょっと怖いんだ」

 朝に先輩が俺の部屋に来てからやけに懐いているサスケの頭を、先輩が撫でる。にこにこしているけれど、あまり楽しそうには思えない。なんでだろう。
 先輩はなかなか家に戻ろうとしない。気持ち良さそうに目を細めるサスケと、楽しくなさそうに笑う先輩。先輩は話さないし、なんだか気まずい。

「せ、先輩は部活とか…」
「やってないよ」
「サッカーは好きですか?」
「ワールドカップの時だけ、試合見るかな」

 じゃあサッカーの話を振るのは、良くないかもしれない。ワールドカップの話をしたいけど、俺は逆にワールドカップをあまり見ていないし。
 …うーん。

「ごめんね。サスケくんのお散歩に来たのに」

 家に戻るの、気まずいのかな。先輩には悪いけど、そう感じた。
 昨日は秋姉が電話したって言ってたけど、そもそも先輩が夕ごはんの時間までずっと木枯らし荘にいた理由はなんだろう。女子の家の事情はよく知らないけど、暗くなるまで外にいるのって普通はよくないんじゃないかな。

「ありがとう、もう行くから。またね」

 先輩が笑う。やっぱり楽しそうには見えない。よく分からないけど。胸がずきずきするような、嫌な笑顔だった。

「今から俺、学校の準備してきます」
「うん?」
「急いでまた来ますから、一緒に学校まで行きましょう」

 サスケには申し訳ない、今日はあんまり走れなかった。

「でも松風くんの家から、私の家って学校とは正反対だよ」

 それは、ある。木枯らし荘と先輩の家の間に学校があるといった具合だ。ちょっと、いやかなり、遠回り。
 でも。

「大丈夫です。走るのは得意ですから」
「う、ほんとにいいの?」
「先輩さえ良ければ!」

 先輩が嬉しそうな顔をして、「じゃあ、私も急いで準備するね!」と返事をした。
 少し、ほっとした。嬉しそうな顔をしてくれて、俺の誘いを受けてくて。ずきずきするのも自然となくなった。





 先輩が小走りにマンションへ入って行ったのを確認してから、サスケと普段の朝のように家まで走る。いや、普段よりも少し早く。
 秋姉曰く、もう朝ごはんは出来てるらしい。部屋で着替えて、さっさとごはんを食べる。マンションまでの道なら、今来た道より近いのを知ってる。…よし。
 自分でもわかる。顔がにやけてることと、意識しなくても足が大きく前へ前へ動くこと。


110718
加筆修正 121201

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