※グロテスクな表現を含みます

 あのときの司令官と言ったら、まるでこの世の終わりかのような顔をしていました。実際、司令官にとってあのとき確かに、目の前の希望が潰されたのでしょう。私たちがどれだけ声をかけても、希望はまだあると言っても、司令官は部屋から出て来なくなりました。
 あれから。鎮守府から去る者もいましたし、司令官と同じように部屋に篭る者もいました。わたしのように、毎日司令官の部屋の戸に声をかける者も、いました。司令官は毎日、どんなことをして過ごしているのでしょうか。部屋からは物音ひとつせず、声をかけても返事はありません。けれど、司令官はいつか、立ち直ってくれるはず、です。そのときまで、わたしたちは司令官のかつての命令を遂行し、司令官がいつ戻ってきてもすぐに職場復帰出来るよう過ごしています。
 朝のご挨拶をしても司令官の返事はなく、他の艦船の子達と顔を見合わせて「まずは工廠に行こうか」と普段通りに。かつての司令官の命令でそうしていたように、指令をこなしに行きます。まずは装備を作り、その次は艦船を建造。そして、艦隊を編成して遠征に行きます。遠征で出来るだけ資材を集め、以前のように司令官に「うちは万年資材不足だ」なんて嘆くことはして欲しくありません。遠征のための燃料、そして毎日の装備と建造のための資材。それだけしか消費しないこの鎮守府には、既に多くの資材が溜まっていました。大型建造だって、出来ます。ああ司令官、はやく元気を出してくれないでしょうか。わたしたち、司令官の指示で出撃したいです。新しい仲間に出会って一緒に喜びたいです。けれど、司令官の心の傷を抉るようなことはしたくありません。司令官がいつか、自分から、また一緒に戦おうと言ってくださるその日まで。わたしたちは待っているつもりです。

 遠征班を見送り、また司令官の部屋に向かいます。
「司令官。みなさんが遠征に向かいました」
「今日は鋼材を出来るだけ集めて欲しいとお願いしておきました、建造で多く必要ですからね」
「司令官、また一緒に、……なんでも、ありません」
 司令官の部屋の戸は、とても大きく、重く、感じます。きっとドアノブを回せばすぐ入れるはずなのに、扉を開けるのがひどく恐ろしく感じられます。ここから先は、足を踏み入れられないような。扉ひとつで、世界が断絶しているような、そんな気がするのです。
 誰もいない廊下の中にひとり。鎮守府は静かで、以前は賑やかだったなんて考えられないほどです。出撃でボロボロになっても、司令官が出迎えてくれて、よくやったと褒めてくれるだけで嬉しくて。装備を作るのに失敗して落ち込んでいても、吹雪は不器用だなあと笑い飛ばしてくれた。みんな司令官を信頼していて、どんなに強い敵がいても、司令官の采配と、みんなの力があれば勝てると確信していました。
 あのとき。まさか、敵の力があれほどだとは誰も思っていませんでした。司令官も読みを誤っていたのでしょうし、わたしたちも一度回った海域であったために油断していたのかもしれません。ひとりの仲間が、海の底に沈んでいきました。

「そろそろ工廠で建造が終わった頃ですね、見てきます!」
 扉にそう声をかけて、工廠へと向かいます。扉から返事はありません。いいんです、いつか、司令官はきっと。声をかけてくださるはずですから。
 工廠ドッグの戸を開き、響いてきた声。自己紹介のその声は、確かに、あの、沈んでいった過去の仲間、でした。
 わたしは彼女の手を掴むと、全力で走り始めました。この子さえいれば、司令官は。司令官はずっと、この子の轟沈を悔やんできた。けれど、この子は戻ってきてくれた。鎮守府の工廠ドッグでは時折、クローンが生まれるのです。すでにいる艦娘とまったく同じ性能を持った艦娘が、時折、生まれてしまうのです。わたしはその偶然とも言うべき奇跡に、大感謝です。

 手を引いて走ってきた先はもちろん、司令官のお部屋です。普段は重苦しく感じる戸も、いまはわたしたちと司令官を隔てるただの一枚の板でしかありません。ドアノブに手をかけると、胸が熱くなるような気分です。どうしてでしょう、涙が。燃料が、漏れているのでしょうか。この日が来たことが、嬉しくて嬉しくて。
 遠征班が帰ってきたら、きっとみんなで大宴会です。司令官復帰祝い、と称して。きっとみんな、司令官がかつてのように出迎えてくれたら遠征の疲れなんて吹き飛んでしまうでしょう。ああ、今日は。鎮守府にとって、なんて素晴らしい日なんでしょうか。
「司令官!新しい仲間が来たんです!誰だと、思いますか?」
 勢い良く戸を開くと、目に染みるような異臭が鼻をつきました。一体司令官は、どんな生活をしていたのでしょう。もう、と部屋を見渡すと、皺くちゃなまま床に落ちている司令官の制服が目に入りました。制服の下には、虫が湧いているようです。……司令官、司令官はどこにいるんですか?

「あ……ああ、司令官。司令官、こんなところにいたんですね。こんな丸まって。こっちにあるのは、遺書?死ぬことを考えてたんですか?もう。だめですよ」
 司令官に新しい仲間を紹介しようと後ろを振り向けば、廊下尻餅をついて震えるあの子がいました。ちょっと驚かせてしまったのでしょうか。いまの時代、引きこもり…というのはそう珍しくありません。司令官が心の傷を負って、すこしおやすみしていたからと言って、なんの問題があるのでしょうか?
「大丈夫ですよ、司令官はすこし落ち込んで、部屋に引きこもっていただけですから」
 にこり、上手く笑えたでしょうか。ああそれにしても。うずくまった司令官に纏わり付いた虫をどうしたらいいのでしょう。艦娘とはいえ、女の子。遠征班の子たちに、こんな虫だらけの司令官は見せられません。まずはお風呂、でしょうか?


140602
世界は確かに続いている

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