あと数センチの、その先に


いい曲だ、と思う。

クラウスさんから貰ったレコードをかけながら、溜まった洗い物を片付けていく。
自分以外誰もいなくなった店内はとても静かで、レコードから緩やかに流れる音楽が耳に心地良い。
以前貿易ステーションで偶然出会った時にお互いの趣味が合うことを知り、何度かレコードの貸し借りをしたことがあった。その中の一枚がとても良くて、どこの国のアーティストなのかとか、いつ発売されたのかなどをしつこく尋ねたオレに、見兼ねたクラウスさんがプレゼントしてくれたものだ。
好きなものを共有出来る同志が出来た礼にと、カウンターで袋に入ったレコードを渡された時は、嬉しいと同時に大人の余裕を見せ付けられたような、複雑な気分だった。
そう、なんせあの時クラウスさんの隣にはーー彼女の丸い瞳が、遠慮がちに袋へ向けられたことには気付いていた。けれど、それを見せることをしなかったのは、オレのちっぽけなプライドが邪魔をしている。
それでも、こうして店で貰ったレコードを流しているところ、オレは自分の欲に対してとことん弱いらしい。
ダサい。ダサすぎる。そうは思いつつも、流れる音楽を止める気にはなれなかった。

「…さむ、」

びゅう、と冷たい風が店内に吹き込んで、そちらを一瞥する。
見ると強風で扉が開いてしまったらしい。そろそろゲイザーさんに見てもらった方がいいかな。祖父の代から続く店だ、建て付けがおかしくなっていてもなんら不思議はない。
濡れた手をタオルで拭って扉の取っ手に手を掛けた瞬間、勢い良く此方側へ扉が開かれた。

「うわっ」
「…あ!ごめんなさい、大丈夫ですか?」

開かれた扉の向こうに立っていた彼女が焦った様子で此方を覗き込む。瞬間、ふわりと土の香りがした。

「あ、ああ。大丈夫」

近いって!内心そう叫びながら一歩後退すると、ミノリはほっと溜息を吐いて、その手に持っていた野菜の山を差し出してきた。

「これ、今朝採れたばかりなんです。良かったら使って下さい」

先程の香りの正体はこれか。色とりどりの野菜を受け取りながら、密かに納得する。
「いつもありがとな。大切に使わせてもらうよ」お決まりの文句を返すと、ミノリはぱあっと花のように笑みを咲かせた。

「良かったら、軽くなんか食べていくか?丁度落ち着いたところなんだ」
「…じゃあ、お言葉に甘えて。実はお腹ペコペコだったんです」

そう照れ臭そうに腹を撫でた彼女の背を押して、カウンターへ座らせる。
子供のように脚をぶらぶらと揺らして待っている様子にほのぼのとしながらも、そのリズムが流れている音楽に合っていることに遅れて気付いた。

「この曲、素敵ですね」
「…ああ、この間クラウスさんに貰ったんだ。あんたもその時、隣にいただろ?」
「あ、あの時の!」

ぱちんと手を叩いて此方を見つめる瞳に、なんだか居た堪れなさを感じて背を向けた。
隠していたわけではないけれども、小さなプライドとうちに潜む嫉妬心を見抜かれたようで、バツが悪い。
グラスに注いだ水をテーブルに置いてやり、これ以上ボロが出ないよう料理に集中する。
ミノリが大人しく待っている間、曲に合わせて口ずさんでいる歌声がどうにも耳について仕方なかった。




「ご馳走様でした!」

それから数十分、野菜をたっぷり挟んだサンドウィッチが乗っていた皿は、すっかり綺麗になっていた。
美味しかったー、と呟きながら水を飲む姿を眺めているだけで笑みが零れる。料理人として料理を褒めてもらえるのは純粋に嬉しいし、ましてやその相手が彼女であるなら尚更だ。
拭き終わった皿を食器棚に戻そうと布巾を畳む。と、ぴりっとした痛みが指先を走った。

「レーガさん?どうしました?」
「あ、いや…少しささくれが引っかかっただけ」

なんでもない、と布巾を置いて食器棚に向く。ガラス越しに映ったミノリはごそごそと大きなカバンを漁っていた。

「レーガさん、手出して」
「え?」

振り返ると片手に見慣れないチューブを持ったミノリと目が合う。言われるがまま片手を差し出すと、掌の真ん中にさくらんぼ大の白い塊が付けられた。
ああ、ハンドクリームか。そう思うよりも早く、ミノリの小さな両手がオレの手を包み込む。
突然のことに固まってしまったオレに気付いているのかいないのか、マッサージでもするように丁寧にクリームを塗り込んで行くミノリの目は、とても真剣に見えた。

「はい、出来ました。もう片方も塗っちゃいますね」
「…え、ああ、いや、こっちはささくれも無いし、大丈、」
「ダメです。…あ、心配しなくても、このクリーム料理中でも使えるやつなので大丈夫ですよ」

そういうことを言いたいんじゃないんですけど。
ミノリの細い指がオレの掌をするすると滑って行く。指の一本一本まで丹念に塗り込んでいるその様子は、はたから見れば恋人同士のようで、そろそろ理性を抑え込むのも難しい。

「…ミノリ、もう本当に」
「これで最後です。…はい、ぎゅー」

先程よりもふっくらとした気がする両手を包み込んでぎゅっと両側から圧迫される。
終わりました、と笑うその頬が仄かに赤いのに気付いた時、オレの中の理性がぷつり、と切れた。

「っ…レーガ、さん?」

ミノリの小さな手にそっと指を絡ませて引き寄せる、と、こちらを見つめるミノリの瞳が、所在無さげに潤む。…ヤバイ、このままじゃ本気で止まらなくなりそうだ。

「…ミノリ。こういうことは、他の男にはやっちゃダメ」

勘違いされてもいいの?そう続けるとミノリは口を数度ぱくぱくさせたと思いきや、きゅ、とオレの手を握り返してきた。
予想外の答えに胸が高鳴る。

「…レーガさんだから、したんです」
「……」

まったく、これで我慢出来る男がいるなら見てみたい。
とうに切れた理性を押さえつける術はどこにもない。絡ませた指を軽く引いて、すでに短い距離を更に詰めた。

彼女まで、後数センチ。
音楽なんて耳に入らないほど、このままミノリに溺れてしまいたい。
重なった唇は何よりも柔らかく、ずっと触れていたいと強く思った。


(2014/03/20)
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