日本を出てきた私達が住み着いたのは中国の繁華街なんかではなく裏の路地をもっと奥へ進んだあまり環境が良いとは言えない場所に住んでいた。 窓から入る空気は酷く煙たく、咳き込んでしまう。洗濯なんて外に干せたもんじゃない。それに干したら全て盗られてしまう。 騒音なんて耳元で太鼓を叩かれた方がマシなくらいだ。人々の暴力と喧騒、喘ぎ声。 まともな人間には生きられない、生活するには底辺も底辺な場所であることは確かだった。 それでも私と名前は一緒にいられるだけで良くて、幸せだった。 私が悪魔を討伐した金で買ってきた食材で名前がその日の飯を作る。名前はどんな料理でも作れた。味も繁華街の中華飯店に負けないくらい美味かった。でも切り落とさずに動物の原型がそのまま残った肉(豚の頭や鳥丸一匹)は苦手だったようで、心底嫌そうな顔をして肉を持つ私を拒絶した。その反応も可愛くて何度かわざと買ってきたこともある。 決して豊かな生活ではなかったが、それでも私達は一緒にいられるだけで良かった。 日本を出て私達を知る者はお互いしかいない。それで十分だった。 食べて、身体を合わせて、愛し合って、疲れたら寝る。その生活が全てだった。 全てが愛おしく、初めて“ 生きてる ”と、実感した。悪魔と対峙した時にも感じなかった生命力を。 *** 中国に渡って三年が経つ。 仕事も安定してきて、そろそろ街中の方へ引越し、生活基準を上げようか。なんて話していた頃だ。名前も私同様、あまり贅沢をしようとしない。 『クァンシと一緒に居られるならどこでもいい』 それが彼女の口癖だった。 その日は春らしくなってきて間もない頃だ。 春と言ってもまだ肌寒い夜で、その日は雨も降っていたから特に寒かった。 “民間のデビルハンターの手には負えないから討伐してくれ。“ 元帥からの司令だった。 しかし私は断った。何故ならその日は名前が餃子を作る日だったからだ。私は名前が餃子の皮から練って作る餃子がこの世で一番好きだった。それを名前に話せば、 『餃子も私も逃げませんから。お仕事してきてください。お金が入れば、餃子よりもっと良いものが食べられますよ』 と手を握って言われた。名前は分かっているのだ。私が名前に手を握られたら頼まれごとを断れないことを。 本当は、名前の作る餃子以上に良いものなんて無い。私だって、これ以上のものは要らないくらい満足している。しかし名前には良い生活を提供してやりたかったので、仕方なく悪魔の討伐へ向かった。 「行ってくる」 『はい。お気をつけて』 そう言って名前はいつもいってらっしゃいのキスを頬にする。でもその日はどうしても唇にして欲しかった。 だけどその時は我慢した。 頬にキスをされた後、名前と目を合わせると少し恥ずかしそうに頬を赤らめて笑う彼女はいつになっても本当に可愛かった。 顔に掛かった髪を耳にかけてやるとくすぐったそうにまた笑う。私が名前の誕生日にあげたバレッタが後頭部でちらりと輝いた。一度外してまとめ直し、また留めてやる。 ありがとうございますと言う彼女はどこか嬉しそうだった。私は世話をされることが多かったが、時々私が名前の世話をすると嬉しそうにするのだ。 『傘を忘れないで下さいね』 「うん。 もう暗いから必ず鍵を締めるんだよ」 『はい。 クァンシが帰ってきたらすぐ鍵を開けますね』 ふっくらとした唇から出る言葉はいつも優しい。名前とキスがしたい。帰ってくれば我慢せず唇を食い尽くすまで私からすればいい。 その時はそう思っていた。 今となってはこの時我慢などせず貪りつくようにキスをして、仕事なんて忘れるくらい名前を抱き潰していれば良かったのかもしれない。 顔も知らない他人を守る為の悪魔討伐等行かず、 世界で一番愛おしいあの娘の傍にいれば良かった。 『今日も生きて帰ってきてね』 おまじないのような言葉に頷いた。 「いってくる」 手を振る彼女に見送られ、名前と二人で過ごしたあの幸せな部屋を出た。 これが私と名前の最期である。 *** 討伐を終え、中国の公安に悪魔を引き渡した頃、空が曇り始め、一気に暗くなった。 ごろごろと唸る曇天の奥では稲光が見えた。 と思った頃、雨が降り始める。名前の言う通り傘を持ってきて正解だった。 雨足はどんどん強くなる。 傘に落ちる雨音が激しくなり、履いていた靴にも水が入ってきて不快だ。 足元ばかりに気を取られていると程近くで雷が落ちる音がした。耳がビリビリと感じる程大きな音だ。しかもそれが何度も、何度も。地響きさえ少し感じる。 これは大きいのが落ちたな。今回の雨は災害レベルなのかもしれない。 名前はあまり雷が得意ではないから、布団にでもくるまっているだろうか。 私はそんな彼女の姿を想像しながら早く帰ってやろうと足を早めた。 *** どこか焦げ臭かった。 家へ近付けば近付く程臭いは濃くなる。 そして視界に入ったのは私たちの住んでいた五階建ての鉄筋コンクリートのアパートが全焼していた姿だ。 雨のおかげと言うべきか、既に火は消えていた。私たちが住んでいたのは四階。跡形も残さず鉄筋の枠組みが侘しくいくつか立っているだけだ。 絶望とはこのことだ と、 どこか客観的になっている自分がいる。 溢れる野次馬の波を押しのけて前へ出る。走査線を張る中国の対魔課関係の者に声を掛け、現状を尋ねた。 雷の悪魔が現れたそうだ。 稲妻をアパートのアンテナに落とし、そこから火が広がったらしい。人々は火が回る前に外へ避難しようと出てきた者も多くいたそうだ。だがそれを雷の悪魔が狙い、稲妻を落としたらしい。 何度も、 何度も。 私が見知らぬ誰かの為に悪魔を討伐している時に、 私の大切な人は悪魔の被害に巻き込まれてしまったかもしれない。 彼女の姿を探した。 遺体に日本人女性らしき遺体はあったか。 捜査官達は見ていないと言った。 正確には彼らも分からなかったのだ。 雷の悪魔の霆(いかずち)によってそこにいた人間は皆、焦げた屑のようになっていたからだ。人の形を留めていたものもあったが、人相や髪の色、それが男か女か、それさえも分からない。 それでも名前を探し続けた。いてもいなくてもいい。いなければ、名前が何処かに逃げた証になる。 此処で探し続けていれば、戻ってきた名前が私の名前を呼んで気付かせてくれるかもしれない。 『心配したのよ』と。 『お家燃えてしまいましたね。これからどうしましょうか』と。あの柔らかな笑みを浮かべて。 そして私はそんな彼女に言うのだ。 「お前がいれば、他には何も要らないよ」と。 きっとあの娘はそれを聞けば嬉しそうに笑う。 私の大好きな、あの愛しげな笑顔。 私だけに向ける… あの そんな妄想も雨が強くなると共に掻き消された。 一つの人の形をして焦げた遺体の近くに、 見覚えのあるバレッタを見つけた。 焼死体特有の背中を丸め手足を曲げたファインディングポーズのようなそれの背丈は先程まで私との夕食を楽しみにしていたあの娘と似ている。 手に取り、焦げて炭ついたそれを指で、服で擦ると小さな赤いハートの形をした石が見えた。私が誕生日に名前に贈った。先程家を出る前に私がまとめて彼女の髪に留めてあげた、あのバレッタだ。 「名前…」 最期をどんなふうに迎えたかすら分からない。 雷の音は大きくて怖かっただろう。 火が回る焦げ付く臭いは苦しかっただろう。 一人で、心細かっただろう。 倒れた手のひらは緩く握られていた。 それは丁度バレッタを握るくらいの隙間。もしかしたら御守りのように握り締めていたのかもしれない。 名前が握りしめて守ってくれたから黒くなったものの屑にはならず、こうして私と名前をまた会わせてくれた。 抱き上げようと肩を握ると、 ぼろぼろとそれは崩れてしまった。 もう抱きしめることさえ出来ない。 人の焼ける臭いとは、物の焼ける臭いより最悪だ。 私はこの臭いを忘れない。 木々に咲いていた花が雨によって散っていく。 名前が好きだと言っていた花が、散っていく。 何も知らない者達は散った花びら等知らずに踏んでいく。 雨は嫌いだ。 私の愛しいものを全て奪っていく。 2020.09.06 |