とある週の月曜日。 クァンシさんをデートに誘った。 デートと言えるのかすら分からないけれど、公安の近くにある喫茶店へ行きませんかと誘った。 あの時の私はどうかしていたのだ。 金曜日の昼休憩が入る十二時十五分。 その時間に喫茶店で待ち合わせをした。クァンシさんは悪魔が出れば遅れるかもしれないと言った。私はその時はキャンセルして構わないと言ったが、彼女は真剣な瞳で 「そんなわけにはいかない。どんな悪魔でも一分で倒す。だが場所によっては遠いかもしれないから遅れるかもしれない…」 と最後の方の言葉はしぼんでいく。後ろにいる岸辺さんは呆れたように笑みを浮かべた。 それでも、私との約束を守ろうとしてくれるクァンシさんの姿勢が、私はそれだけでとても嬉しかったのだ。 実を言うと、金曜日は指定休の為仕事は休みだった。 私に時間の余裕があれば、遅れて来てしまうかもしれないクァンシさんと少しでも長く時間を一緒に過ごせるかもしれないという浅はかな気持ちがあったからである。 木曜日の夜。 何を着て行こうか。いや、でもいつもよりお洒落をして行くとクァンシさんに気を遣わせてしまうかもしれない。でもせっかくクァンシさんと二人で時間を作っていつもと違う場所で会うのだから、いつもよりも可愛いと思ってほしい。 その夜は明日が楽しみでいつ眠ったのか分からないし、あまりよく眠れなかった。 *** 金曜日。 十二時十分。あと五分で約束の時間になる。 結局私はいつもの白いワイシャツに黒のスカートにストッキングに黒のパンプス。上から薄紫色のカーディガンを羽織った姿で喫茶店へ向かった。 つまり、事務局で仕事をする“いつもの格好”である。 でも、少しいつもと違う私を見て欲しくて唇だけピンクのグロスを付けた。唇がぷるんとして見えて、可愛くて今日の為に買ったのだ。 席に座った時に出されたお冷が空になる。 どうしよう。緊張してきた。 腕時計の針が十五分を指した。 約束の時間だ。きっと今日は任務が入っているのだろう。 *** 時計は十三時を回った。 遅れたって仕方がない。向こうは命を賭けて戦っている。 やっぱり休みの日にして良かった。もし出勤日ならもうとっくに事務局に戻っている頃だ。今日はクァンシさんに合わせてずっと待てる。 注文しない私をそわそわと盗み見する若い店員さんに申し訳無くて、私はアイスコーヒーを一杯注文した。 本当はクァンシさんが来てから注文する筈だった。だって悪魔討伐をして疲れた足で喫茶店に来て下さったのに、座り仕事の私が先に快適な店内で美味しい飲み物で喉を潤していたら、優しいクァンシさんだとしても嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない。 他の人からどう思われようとどうだって良かったけれど、クァンシさんからは少しでも嫌な気持ちを私に持って欲しくはなかったから。 もう少しだけ待ってみようかな。 十四時になっても来ない時は、諦めて帰った方がいいのかもしれない。 この想いも、約束も。 *** もう身体はぼろぼろ、というよりドロドロだ。最後に戦った泥の悪魔のせいだ。 時刻は十七時を過ぎ、街に時報が鳴った。 午前中、街に蛾の悪魔が出たとかで出動要請が出た。本部を出る時に定番となった事務局の前を通っていったが、彼女の姿は見えなかった。たまたま出ていたのかもしれない。 蛾の悪魔は直ぐに倒した。その時十一時五十分。これなら彼女との約束にゆうに間に合いそうだ。 「クァンシ、これから飯に行かないか?」 「…行くわけない」 岸辺は私のこの後の予定を知っている筈なのに下らないことを言ってくる。何としてでも十二時十五分までには終わらせたい。 その時だ。トランシーバーが小さく唸り、連絡が入る。 《鏡の悪魔が出現、手の空いているデビルハンターは早急に現場に向かって欲しい。住所はー……》 「…岸辺、現場にはお前一人で行け。私は彼女との約束がある。」 「おいおい…」 「…仕方ない。五分以内に終わらせるぞ。」 バディがうんぬん言われてもいいから私はこの時帰れば良かった。そうすれば約束の時間に間に合っていたのに。 岸辺は煙草を吸いながら、呆然とベンチに座る私の隣に座った。 「…まぁこんな日もあるだろ」 「…もうお終いだ。約束を守らない奴等信用されるわけがない。」 せっかく誘ってくれたのに。 今週を乗り越えられたのは彼女が約束を作ってくれたからだ。それだけを楽しみにやってきたというのに。 「帰ろう、クァンシ」 「…あぁ。」 今帰れば、帰路につく彼女に会えるかもしれない。約束を破ってしまったことを謝ろう。優しい彼女ならきっと、分かってくれるはずだ。 泥が乾き始めてかたまり出している。スーツに付いた泥を払い落とし、本部へと向かった。 *** 「名字さん、いますか」 事務局に残っていた女性職員をつかまえて尋ねる。すると意外な答えが返ってきた。 「名字さん、今日お休みですよ?」 あの娘は今日休みだったのか。 それなのに私の時間を気遣って休憩時間に会おうと言ってくれたのか。 もしかしたら…… 「…岸辺、」 「ん?」 「今日はもう終わりだな」 「あぁ。報告書を書いたら終わりだ」 「お前に任せる」 「え?あ、オイ!」 悪魔を倒す時よりも速いスピードでその場を離れた。向かうは、約束の喫茶店だ。 チリン、チリン ドアについた鈴が軽やかに鳴る。 喫茶店の窓から入ってくる夕陽が眩しい。 店内には複数人の客がいる。 あの娘は、あの娘は何処だ。 もういなくなっているかもしれない。いや、いなくなっていて当然だ。 でも、どうしてだろう。あの娘は喫茶店にいる気がした。 窓際の一番奥のテーブル。 そこに座る女と目が合った。 途端、女が立ち上がり、私に向かって頭を下げた。私は息が上がっている事など忘れて早足で向かう。 『クァンシさん…』 いたのは、あの娘 名字名前だった。 約束したあの時間からずっとここにいたのだろうか。空いたグラスが一つ、テーブルの上にはあった。 『あ… これ、ごめんなさい。何も注文せず待ってたらお店の方に申し訳なくて… 先に一杯頼んでしまいました』 なんて、気まずそうに笑みを浮かべて話す。 そんなこと、どうだっていいのに。 むしろ一杯だけ?私がこれだけ待たせてしまったのに。 「約束の時間、守れなかった。ごめん」 それを聞くと彼女は眉を柔らかに八の字に下ろす。 『クァンシさんに何かあったんじゃないかとも考えていたんです。何も無さそうなので安心しました』 緩やかに弧を描く黒い瞳は夕陽に照らされていつもと違う輝きを放ち、とても美しかった。 『あ!私ったら立たせたままでしたね!座りましょう!…って疲れてますよね。また後日に、』 「好きだ」 気持ちが溢れてしまった。私が言った言葉に、名前さんは目を丸くした。まるで鳩が豆鉄砲を食らったようで、可愛かった。 『い、今、何と……』 「私は名字さんが好きだ。気の迷いでも何でも無い。」 『そ、それはお友達として……』 「違う。性的に、好き。」 『あ……』 夕陽のせいなんかではない。茹で上がった蛸のように頬を真っ赤にした彼女は、口を半開きにしたまま腰が抜けるように椅子に座った。はくはくと口を動かすのを見ながら、私も向かい側に座った。 「…そんな反応を見てしまうと、期待してしまうよ」 それを聞くと困ったように眉を下げ、私を見た。頬はまだ赤い。可愛い。もっと困らせたい。もっと色んな表情が見たい。 『ど、どうして、私なんかを……』 そんなの、口に出せばキリがない。 「貴女ほど魅力的な人に私は会ったことがないよ」 散々待たせてしまった彼女に、私の話でまた待たせてしまうのは申し訳なく感じる。好きになったところを言うのは、また次の機会にしよう。 「…返事はまた今度でもいいよ。時間を掛けてくれても構わ、」 『私も好きです!!』 豆鉄砲を食らった鳩のようになるのは、今度は私の方だった。食い気味の美しい黒い瞳はお世辞などでは無く、真剣そのものであった。 気持ちが通じ合うとは、こんなにも嬉しいものだっただろうか。こんな気持ち、いつぶりだろう。 テーブルの上でぐっと握られている小さな拳を上から包み込む。拳は少し震えていた。目が合って視線が交差する。 恥ずかしそうに目を泳がせる彼女の姿が愛おしくて、私はこの場でキスしてしまおうと身を乗り出した。 「ご注文は何になさいますか?」 空気を読まない店員。 *** 喫茶店を出る頃には空は真っ暗だった。 「家まで送るよ」 『いえ!とんでもない!私の家、ここからすぐなんです!逆に私がクァンシさんを送ります!』 「名字さんより私の方が強いのに?」 『…滅相もないです』 気まずそうに目を逸らすこの顔も可愛い。知らない表情をまた一つ知ることが出来た。 「名字さん、」 『あ、あの…』 おずおずと隣を歩いていた彼女が立ち止まり私の方を向く。 『名前…、で呼んでいただいてもいいですか…?』 「…名前…?」 私が名前で呼んだ途端、彼女は俯いていた顔を上げて、目を輝かせた。また頬が赤くなっていく。そして嬉しそうに『はい』と返事をした。 『あ、クァンシさん!今日は満月ですよ!』 名前が繋いでいない方の手で空を指さした。雲ひとつない夜空で煌々と満月が輝いている。 「名前」 『はい』 「月が綺麗だね」 『そうですね!』 私の言った意味は伝わっているだろうか。きっとあっけらかんと笑って言う彼女は本当の意味を分かっていない。それでもいい。 今日の私は生きてきた中で一番気分が良い。 2020.08.09 |