チャイムが鳴る。鍵が開いてるのは分かっているのに、なまえは毎回律儀に来訪を知らせてくる。
ソファに寝っ転がったまま惰性でテレビを眺めていると、ドアの開く音と足音が響いた。
「おじゃま〜」
「おん」
「トイレットペーパーと柔軟剤買ってきたよ。なくなりそうだったよね?もう補充してた?」
「しとらん。助かる」
「良かった、じゃ詰めとくね」
来たばかりなのにあくせく洗面所に向かう彼女の後ろ姿を仁王ら横目で見つめる。なまえとの付き合いはもう随分と長い。中学から顔見知りで、深く付き合うようになったのは高校からだ。
だが彼女というわけではなかった。
「あひたははいはらおほして。はひひ。おひれるひはひないからはー」
戻ってきたなまえがコンビニ弁当をテーブルに広げ、口いっぱいに詰めながらもにゃもにゃ言った。
「何言うとるかわからんて」
呆れ笑いしながら返すと、ごくん、と嚥下音と同時にもう一度言う。
「明日早くてさー、8時に起こしてくれる?起きれる気がしなくて」
「俺もたぶん寝とる」
「あんた寝汚いけどすぐ目覚めれるじゃん。頼んだよ」
「だる」
辛辣な仁王の言葉をなまえはスルーした。
夕飯はもう食ったが、漂う匂いになんだか腹が空いてくるような気持ちになり、起き上がって無言で飯に視線をやっていると「はいはい」となまえが弁当をずいっと寄越した。
仕方ないなあ、と呆れたような、子供を見つめるような眼差しに仁王は毎回尻の座りが悪い気持ちになりつつも、悪い気はしない。
なまえ以外にセフレはいたが、ここまで長く続いている女はこいつだけだった。家を知っているのも。
ごく身内以外にこの一人暮らしの家を教えていなかった。テニス部の連中くらいで、大学で話すようになった奴らにも言っていないし、言うつもりもない。
知らん奴らの溜まり場にされるなんて勘弁だ。
なまえにも教える気はなかったが、きっかけは丸井だった。元々なまえと丸井が仲が良くて、高校の時に紹介されて親しくなった。
家に来た時も、酔っ払った丸井がなまえを連れて押しかけてきたのだ。
うんざりしたものだが、なまえならまぁいいかと思った。
他のセフレみたいになまえは仁王に見返りや気持ちを求めてきたりしない。何かを望まない。なまえも仁王の他に会っているやつがいるようだし、そのくらいの淡白さが心地よかった。
気も利くし、長い付き合いだけあって無言もダラダラした時間も気にならない。
今では、週2くらい泊まりに来るが、自分だけの空間になまえがいることが自然となっていた。それだけ当たり前なのに、いつまでも「他人の家」としてのマナーは踏み越えて来ないところも楽だった。
そう、楽だった。
歯を磨いて、部屋に置いているパジャマに着替え、電気を消す。仁王は眠そうにベッドに膝をついて布団に潜り込もうとするなまえの腕をぐいと引っ張る。
勢いに、仁王の胸に鼻をぶつけたなまえが「ゎぷ」と気の抜ける声を出す。
「間抜けな声じゃのう」
仁王はクク、と低く笑い、彼女の顎を掬う。
不満そうな目を無視して唇を合わせる。
舌を入れると歯磨き粉のスーッとした味が口の中に広がった。
だが、さらに深く口付けしようとしたところで胸を押され、なまえが顔を背けた。
「明日早いんだってば…」
困ったように、だがしっかりとした声。
なまえは仁王の腕から逃れると、「また今度ね」とあやす様に言い、背中を向けた。今夜は本当に乗り気じゃないらしい。
暗闇の中で彼女の流れる髪と、静かな吐息が聞こえる。
仁王は彼女の腹に手を回し、引き寄せると髪の中に顔を埋めた。
「ねぇ、雅治ってば…」
「やらんよ。このまま寝るだけじゃ…」
呟くと、くるりと身体をこちらに向けて「甘えたい気分なの?」とからかいの含んだ、優しい声で言った。
「プリッ」
肩を上からグイグイ押される。その力に抗わず、下の方に身体をずらすと、柔らかい胸に頭を抱え込まれ、手のひらが仁王の髪をやんわりと撫でた。
風呂上がりのボディーソープの匂いと、女の甘い匂いがダイレクトに鼻の中に香ってくる。
普段ならそのままその気になってなだれ込むところだが、仁王は黙って目をつぶった。甘やかされるのもたまになら悪くない。なまえの心音が規則正しくトク、トクと聞こえる。
頭を撫でる手つきが、だんだんとゆっくりになっていく。
「のう」
「……ん」
小さく呼ぶと、ほとんど寝かけている眠そうな声が返ってきた。仁王は一度唇を舐め、何気ない口調でつぶやく。
「……明日、合鍵渡しとくぜよ」
「…あいかぎ?」
トロトロした声で、よく分かっていないように、あいかぎ、ともう一度繰り返す。
「ん…なんで?」
「不便じゃろ」
「べつに…もうなれたし…」
仁王はもどかしくなった。
なまえの、踏み込んで来ない距離感も、求めてこない弁えたところも、束縛しないさっぱりとしたところも。
そこが気に入っているはずだった。
けれど、それだけで足りなくなったのは仁王の方だった。
やがて、深い呼吸音とともになまえの胸が上下した。眠ってしまったらしい。
仁王は起こさないように彼女の右手に触れ、その薬指に光る細い指輪をそっとなぞった。
その鈍い煌めきが恨めしい。
なまえからの告白を断ったのも、セフレとして受け入れたのも仁王だ。だから今更……今更虚しくなる資格は仁王にはない。
けれど、もう遅いとしても、この他の男からもらった指輪を外して、仁王の家に「お邪魔します」ではなく、「ただいま」と帰ってきてほしいと、思ってしまった。
仁王は目を閉じた。
甘い香り。
この胸に包まれるのが自分だけであってほしい。
なまえに同じことを望んでほしかった。いつしか諦めた仁王に何かを望むということを、もう一度。
明日の朝、合鍵を渡そう。
なまえは喜ばないだろう。きっと困惑して、苦笑しながらやんわりと断るかもしれない。
そうさせたのは仁王だ。
仁王はなまえとの関係に約束が欲しかった。