20
 目が覚めると、涙が一筋流れていた。まだ早朝で、同室の女子は誰も起きていない。そっと抜け出して顔を洗った。
 刹那にとって大切な思い出の一つではあったが、爽やかと言うにはあまりにも気分が重くなる夢だった。

 自分の幼さが嫌になる。
 侑士にはダメなところも嫌なところも全てさらけ出して、過激な八つ当たりを繰り返してきたので、今更侑士に取り繕うことなどはないが、始まりが始まりだったために、今更彼に素直になれないところがある。
 侑士には嫌なところを見せられるし、ワガママばかりで、好き勝手に振る舞う。
 刹那は侑士が好きだが、彼は、刹那に付き合わざるを得なかっただけだ。ずっと。
 関東大会で彼を見たからこんな夢を見たのかもしれない。

 いつか捨てられる日が必ず来る。我慢の限界を迎えた侑士が刹那を切り捨てる時が。元々自分に価値はないのに、その上彼に対する刹那にはいいところがまるでないのだから当たり前だ。
 忍耐力の切れるいつかに怯えながらも、どこか諦めて凪いだ気持ちにもなる。
 その日が来るなら、早く来てほしい。
 だから刹那は侑士の忍耐力と我慢強さを試して煽るような、可愛げのない行動ばかり取ってしまうのかもしれない。
 捨てるなら早く捨ててほしい……。
 早く……早く……。
 その日はたぶん、近いだろう。
 侑士の大切にしているテニスを利用したのだから。

 バスに揺られて、また何時間も高速を走り、やっとのことで立海に帰ってきた。さすがに大会後の上、長時間の移動の後のため、練習は基礎練と調整メインの軽いものだ。
 バキバキと関節を鳴らし、太陽を睨む。地球温暖化なんて嘘だ、なぜまだ七月なのにこんなにも蒸し暑いのか。クーラーが恋しい。刹那はマネージャーだが、この灼熱の中で汗だくになる選手を憐れんで、日焼け止めを塗り直した。

 稲葉に言われ、刹那は一軍につくことになった。といっても、ドリンクの用意、コーン立て、ボール拾いなど本当に簡単な雑務だったが…。
 もしかしたら、本格的に全国後は一軍に上がれる可能性があるな。三年が抜ければ穴が大きくなるし……。内心でほくそ笑む。元々二軍でマネをしていた人からは反感を買うだろうが、それは由比に気に入られていればなんとかなることだ。
「白凪!古いボール、チェックしてくれる?」
「はいっ!」
「白凪さん、この籠あっちに運んでおいてもらっていいかな?」
「は〜い!」
「白凪さん、氷を…」
「作ってあります!」
「白凪、」
「はいっ!」
 い、一軍って忙しいな。三軍と違いマネージャーも誰かが必ず何かの仕事をしているし、呼ばれることも多い。だが、忙しければ忙しいほど、なんだか楽しかった。
 朝の夢で陰鬱になった気分が忙しさで紛れる。
 手が空いたら仕事を探して、刹那も走り回る。気付いたら背中が汗だくだ。あんまり日焼けしたくないから、上ジャージは脱がないけれど。

「終わった〜!」
 調整どころか、かなり本格的な打ち合いまでしていたように思うけれど、一軍にとってはこれが軽い練習らしい。一軍と三軍のコートは離れていて、間近でちゃんと見ることが少なかったから少し圧倒された。
 三年も二年も関係なく、みんな練習の時も真剣味がある。

「おつかれ〜」
「あ、由比さん。お疲れ〜!」
「大変だったでしょ。でも、急だったのにめっちゃ動いてくれてて良かったよ〜!」
「ほんと?えへ、良かった」

 更衣室で着替えながら、にこやかに由比と談笑を交わしたが、ここで「わたしって一軍に…」なんていう、余計な詮索は言わないでおく。
 伝えられる時は、伝えられるべきタイミングで言われるだろう。
「明日はオフだ〜!丸一日オフはほんとに久しぶりだよ〜」
「大会で忙しかったもんね」
「今日も早く終わったし…何しよー?白凪さんはこの後予定ある?calando行かない?」
「あー…ごめん、お誘いは嬉しいんだけど」
「あ、いいのいいの、気にしないで!どっか遊び行くの?」
「ううん、切原の英語見なきゃいけなくて」
「例の勉強会?白凪さんも教えてたの?」
「なんか昨日幸村くんに頼まれて、英語を担当することになったんだ〜。この後ちょっと部室で見てあげるつもり」
「うわー、みんな大変だね…」
 刹那をいたわっているようにも、切原を哀れんでいるようにも取れる。おそらくどちらもだろう。

 部活に精を出す青少年たちの強い友、ギャッツビーで身体を拭いて、シトラスの制汗剤を振り撒くと、刹那は部室に向かった。
 ノックをすると誰かの返答が返ってくる。
 ドアを開けると、半裸が並んでいた。切原や丸井などはパンイチだった。

「ギャア!!!」

 バタン!!!光の速さで扉を締める。
 着替え中なのかよ!じゃあ返事するなよ!汚いものを見てしまい、背筋がゾワゾワする。教室で男子が普通に着替えるから、多少耐性はついたとは言え、できるだけ見たくないことには変わりない。

「ごごご、ごめん!!」
「別に気にすんなよ笑」
 ドアが空いて丸井が顔を出した。下は履いていたが、上半身は肌色だ。
「服着ろって!」
「げぶっ!何すんだよ!」
 またドアを思い切り締めた拍子に丸井の頭が鈍い音を立て、ドア越しに何やら「いてえだろぃ!」だのなんだの喚く声が聞こえたが、黙殺した。
 ガチャガチャとドアノブが回すのを抑え「着替え終わった?」と三回ほど念入りに確認し、おそるおそる覗き込むと、ようやく全員が服を着ていた。
 安堵して胸を撫で下ろす。

「お前、大げさだろぃ。デコ赤くなりそうなんだけど」
「丸井くんが悪いよ」
「着替えなんか普通だろ。どんだけピュアなんだよ笑」
「普通に見たくない、むさい、暑苦しい、セクハラ!」
「すげー言われ様…。こんなイケメン裸パラダイス、クラスの女子なんかだったらキャーキャー喜ぶのに」
「猥褻物陳列罪!」
「ブハッ!わいせ…そんな言う?www」

 何がおかしいのか丸井はパチンとガムを弾けさせて、プルプル震えながら笑っている。刹那はまだ心臓が青く鼓動を刻んでいた。男子の裸は《あの日》を彷彿とさせるから大嫌いだ。あの日……つまり三人の男に夜道に公衆トイレに連れ込まれてレイプされた日だ。

 なんで男の汚い裸をわざわざ見なきゃいけないんだ。最悪だ。
 マネージャーになるとはこういうことなのか……。
 慣れる日が来ると思えない。
 マネになって一ヶ月経ったが、着替え中に出くわしたことはまだなかった。

「まったくもう…とりあえず、切原、ミニテストしよっか。単語練習はしてきた?」
 ブツブツ言いながらも、頭を切り替えて切原に尋ねると嫌そ〜うにしながらノートを差し出した。
「いっすけど…初日なんだしカンタンなのにしてくださいよ!」
 ノートを開いて確認する。ページ数枚に渡って汚い字で、きちんと練習してあった。飛ばしているものもないし、スペルも合っているし、書き殴ったのが丸分かりではあるけれども、無駄に余白を作ったりわざとバカみたいにデカい字で書くようなズルはしていない。
「何なに、今日もベンキョー?白凪が教えんの?」
「ククッ、宿題出されとるん。本格的じゃのー」
「寄ってくんな!あっち行ってくださいよ!」
 仁王が切原の肩にもたれかかり、丸井がくせっ毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。切原が振り払ってうがー!と叫ぶ。遠目から幸村、柳、真田がこちらを眺めている。
「ちょっと邪魔しないでよ。切原、書き取りちゃんと出来てるね!昨日あんなにたくさんした後、これもちゃんとやったんでしょ?頑張ったね!」
「え?…まぁ、だって、部長たちがうるせーだろーと思って…」
「ふふっ、たしかにね。でもこれなら三人とも満足だよ!疲れてたのにえらいね!」
「…ヘヘッ、まぁ?噂の二年生エースっすから?」
「チョロッ!つかこんな簡単な単語練習でんなベタ褒めされんの?オレも白凪に教わりてー」
「豚をおだてて木に登らせるんが白凪のやり方っちゅーわけか」
「誰が豚だよ!」
「誰もおまんの話しとらんて。自覚がありすぎて過敏になっとるようじゃのう」
「なんだとテメー」
「ああもう、うるさい!私語禁止!しっしっ!」
「追い払われた笑」

 手で払うと静かにはなったが、散る様子はない。切原の集中力も欠けるだろうし、恥ずかしいだろうし、やりづらいだろう。刹那にとっても死ぬほど邪魔だった。

「じゃあ、一問目。よく聞く簡単な単語からね、playの意味は?」
「それは覚えてるっす!試合!っすよね?」
「正解!いきなり当たったね!さすがテニスプレーヤー!」
「トーゼンっすよ!」
「試合は名詞の意味でしょ?もう一つ、動詞の意味を書いてたと思うんだけど、それは覚えてる?」
「めーし?どーし?」
 あ、そっからか…。内心でずる、と力が抜けそうだが、にこやかに優しく笑顔で教える。切原には怒るのは逆効果な気がするし、覚えていないことに怒っても仕方がない。
「名詞は、テニスとかゲームとか、物の名前ね。動詞は走るとか食べるとか、行動のこと」
「へー」
「じ、じゃあ、playのもう一つの意味考えてみよっか。行動を表す動詞、だよ」
 へー、て。ほんとに分かってんのか?そこはかとなく不安が浮かぶ生返事だが、根気強く繰り返していくしかない。中学一年の夏でこの理解度……というかもしかして一人称や三人称についても分かってなかったりする?あとでまた問題用紙確認しないと……。
 先についてのプランを練り直していると、丸井と仁王がニヤニヤしているのが目に入った。切原も恥ずかしそうにイライラしている。ほんとにこいつら邪魔だな……。なんでまだ残ってるんだよ。暇なの?

「あー、えっと…なんかあった気がする……。プレイ、プレイ…試合する?」
「惜しい!名詞が試合だもんね。でも、ちょっと違う意味があるの」
「なんだっけ……?あっ、あ!遊ぶ!遊ぶ遊ぶ!!」
「せいかーい!!よく思い出せたね〜!!」
「っしゃあ!」
 小さくガッツポーズをする切原を大袈裟に褒め称える。まだ一問目だが、この調子だとかなり時間がかかりそうだ。
「もう一度繰り返してみようね。playの意味は?」
「試合、と遊ぶ!!」
「すごい!名詞は?」
「めいし……」
「物の名前が名詞ね」
「あー、で、行動がどーしね!めーしが試合、どーしが遊ぶ!」
「正解!!調子いいじゃんっ!やるじゃんっ!」

 褒めてはあげるが、ペース的にやがて集中力を欠くのは明白だ。初日だから、と言って単語カードを最初に一通り読むように言うと、「え、カンニングあり!?」と切原は目を丸くした。
「カンニングじゃなくて、テスト前の詰め込みみたいな感じね。覚えられるだけ覚えちゃっていいよ」
「やりぃ〜!さっさと終わらそっと」
 ほんとだよ。さっさと終わらせてくれ。心の底から思う。一問でこんなに時間を使うとは思っていなかった。だが、うんざりするほどではないし、少しだけ面白い気分でもある。

「白凪優し!って思ったけど、覚えてなさすぎてやべーもんな。赤也〜頑張れ〜ぃ」
「丸井くん邪魔しないで!」
「へいへい」
「なんか可愛らしいの使っとるのう」
「ん?」
 会話をぶった切って仁王が割り込んだ。手元に視線が注がれている。黒猫のアイスパックだった。それを部活後いつも顔や首元に当てているのだ。
「これ?保冷剤。可愛いでしょ〜」
「何一人だけ涼んでんだよ」
「ちがうよ!顔冷やしてるの〜」
「同じだろぃ」
「肌赤くなって痛くなるから保冷剤必須なの」
「ホントだ、首まで赤くなっとる」
「ギャッ!」
「ギャッwww」

 首筋を仁王がついと指でなぞった。飛び上がるようにして悲鳴を上げ、首を抑える刹那に二人が笑う。本当に本当に帰ってほしい。
「けっこう反応いいよな、白凪って」
「からかい甲斐がありそうじゃ」
「……」
 イライライラ。ぷいっと顔を背けて、切原の勉強を再開させる。こんなヤツら相手にしてられない。また二人が背中で「お、拗ねた」「拗ねたのう」と含んだ笑いを零した。


 一時間以上かかったが、なんとか意味とライティングのミニテストクイズが十問ずつ終わった。切原は快哉を叫んだあと、ぐったりと机に突っ伏している。
「お疲れ、がんばったね!約束通りご褒美あげるから、ちょっと待っててね」
「あれマジなんすか?」
 ガバリと顔を上げ、喜色に滲む声を上げる。瞳が期待できらきらと輝く切原に頷き、第二部室の古い冷凍庫からガリガリくんを取り出すと、小走りで彼の元に戻る。

「安いのだけど…」
「いぇーい!全然いいっす!やった!!」
「うぇ、マジ?白凪そこまですんの?」
 驚愕した丸井が素っ頓狂に叫んだ。「オレにも教えてくんね?じゃあ」と刹那の周りをうろちょろしている。
「あとこれ、こういうの食べる?」
「じゃがりこ!!食うっす食うっす食うっす!チーズ美味いっすよね、分かってんじゃないすか!」
「良かった〜」
「なんでお前そんなに赤也に甘いの?なんで?は?オレには?お前赤也好きなの?さすがに趣味悪いと思うぜ」
 う、うるせえ〜。
「どういう意味だよ!」
 ギャンギャンじゃれ合い始めた二人にため息をつく。やっと終わった……。

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