01
 聞き覚えのある、甲高くて癇に障る聞くに絶えないおぞましい笑い声に刹那は思わず足を止めた。
「キャッハハ、仁王〜今起きたの〜?」
「ん…え、今何時じゃ?」
「もう4時半になるよぉ」
「オア……殺される……なんで起こしてくれんかったんじゃ」
「起こしたけどぉ、呻いただけで起きなかったの〜。あはは、殺されちゃうの?」
「おん…」
「ゴシューショーサマじゃあん!」
「誰に殺されんのー?」
「ブチョーだれだっけ?」
「幸村くんだよ!かっこいいよねー!」
「綺麗で女のコみたいだよね〜」

 テニス部の仁王と、あの女と、その友達が盛り上がっている。廊下から盗み聞きしていた刹那は彼らが動き出すのを感じ、慌ててその場を去った。
 階段を掛け下りると膝丈のスカートが揺れ、目にかかる鬱陶しい前髪がチクチクした。ずり落ちてきた分厚い眼鏡を押し上げる。
 心臓が激しくポンプし、全身に熱い血が巡る。

 はぁ?
 何、今の顔?

 彼らの中心で会話を回していたふてぶてしいあの女──前永絵麻(マエナガ エマ)。
 刹那はあの女と幼馴染であり、昔から嫌いだった。憎んでいると言ってもいい。あの女の声には吐き気を催し、笑顔を見ると全身を掻きむしりたくなるような蟻走感が走り、あの女が幸せに生きる人生をすべて奪いたくなるのだ。
 相手も刹那のことをそう思っているだろう。

 あの女のせいで刹那は小6の頃不登校になり、今でも男から性欲を向けられることに酷いPTSDを発症するようになった。
 もちろん、刹那も同じことをやり返してやったが、それでもあの女は能天気に笑っている。笑える。絶対許せない。耐えられない。
 二度と笑えなくなればいいのに。
 学校に通えなくなればいい。刹那みたいに、ズタボロになって、怒りと惨めさと復讐心でぐちゃぐちゃになればいいのに、あの女は図太く、ふてぶてしく、今も笑っている。

 あの顔……あの声……あの瞳。
 ふうん、と内心で思う。絵麻の今の好きな男はあいつなんだ。仁王雅治。
 じゃあ刹那のやることは決まってる。
 今まで通り、仁王雅治を奪ってやる。

*

 前永絵麻は仁王雅治が好きで、テニス部のファンらしい。数日の独自の調査を経て、刹那は色々と情報を掴んでいた。
 仁王のことには詳しくないから、彼があの女をどう思っているかは知らないが、彼自体の噂もいいものはあんまりない。女嫌いだとか、ファンに素っ気ないだとか、女友達は少ないだとか、ヤリチンだとか、女を取っかえ引っ変えしてるだとか……その噂が事実だとすると、仁王雅治と気軽に会話していた絵麻は、やや友達に近い位置にいるんだろう。
 焦れる気持ちが沸き上がる。
 絶対上手くなんていかせてやるものか。
 今までなら、絵麻の彼氏を奪ったり、好きな人を奪うのには時間をかけていたが、今回そんな時間は無さそうだ。
 あの女は肉食系だし、仁王雅治も噂通りなら拗れた恋愛観を持っているらしい。
 立海で熱狂的なファンを持った仁王とヤった絵麻の、勝ち誇った笑顔を想像するだけで喉の内側が痒くて痒くてたまらなくなる。

 仁王はサボり魔で、色々とサボりスポットがあるようだった。
 刹那は地味で、陰気で、真面目そうな見た目をしている。シャツのボタンは一番上まで止めていて、スカートは規定通り、前髪とメガネで顔が隠れていて常に俯いているから表情も見えない。
 存在感も希薄で、声も小さくて、友達もほぼいない。
 クラスにいてもいなくても分からない、背景に紛れるような存在。それが刹那だった。
 それが功を制して、誰かの尾行をしたり、会話を盗み聞きしたり、人混みに紛れるのは大得意だ。

 昼休みが終わった5時間目、あくびを噛み殺して窓の外を見ると、遠くの方にふよふよ何かが飛んでいるのが見えた。光を浴びて小さな虹色に光っている。
 シャボン玉だ。
 刹那は隣の席の、大して話したことはないがしっかり者で世話焼きタイプの女の子に、小さな声で話しかけた。
「あ、あの……」
「どうしたの、白凪さん?」
「お、お腹が痛くて…ト、トイレのあと……保健室に行きたくて」
 それだけでその子は分かってくれたらしく、力強くうなずいてくれ、「先生!」と手を挙げてくれた。お腹が痛くてトイレに行きたい、というのをきちんと具合が悪い、と言い替えてくれるオマケ付きだ。
 こういうことができるから、刹那は彼女に声をかけたのだ。思った通りに動いてくれてありがたさにほくそ笑みそうになる。

「ついて行こうか?」
「う、ううん。恥ずかしいから…」
「そうだよね。お大事にね」

 小声で断りを入れ、視線を避けるようにひっそり教室から出る。どうせ教室に戻る頃には、みんな刹那が抜けたことなんて忘れている。
 廊下の奥の階段を上がって、いちばん上を目指した。
 扉を開くと、屋上にはまず小さな花壇が広がっている。見回してみても、仁王はいない。一通り歩き回ってみても人影はないけれど、風に乗ってフェンスの向こう側にシャボン玉がふわふわ流れていた。
 視線で辿ると、給水タンクの影からシャボン玉が生まれては消えている。

 これってどうやって登るんだろう……。
 悩みながらウロウロすると、錆びたハシゴがあった。ボロくて折れそうだ。でも仁王が登れるなら、たぶん大丈夫なはず。
 ちょっと怖気付きながら一歩一歩足をかけると、軽快なカン、カン、という金属音が響いた。
 屋上に来たときから刹那の存在に気付いているだろうに、シャボン玉は相変わらずきれいに飛んでいる。

 タンクの上は青い空が思いのほか近くて、遮るものがない景色が目の前に広がっていた。

 ──やっぱりいた。
 仁王が、コンクリートに寄りかかってシャボン玉を吹いている。表情は前髪で隠れて見えないけれど、チラリとも刹那のほうを見もしない。
 でも、かまわなかった。
 刹那は笑顔で話しかけた。

「こんにちは」
「……ピヨ」
 無視されるかと思ったけど、返事をしてくれて少しおどろく。意外と律儀なタイプ?仁王とは話したこともないし、クラスも同じになったことがないので、あんまり知らないのだ。
 いくら尾行が得意といっても、人気(ひとけ)がないところで堂々と追い回すわけにもいかないので、せいぜい彼のお気に入りスポットをいくつか近くまで追いかけたり、クラスで過ごしている様子をうかがったりだとかだ。

 刹那は景色を見回して、風を感じた。
 下を見ると落ちそうでちょっと怖いけれど、見晴らしがとってもいい。青空の下、こんな高い場所にいるとどこか清々しい気分になる。
「こんなとこ登ったの初めて。景色いいね」
「プリッ」
 彼は一応返事(?)っぽいものは返してくれたけれど、会話する気があるのかないのか分からない態度だ。
 その場に座り込んで、足をぶらぶらさせながら景色を眺める。車が走っているのや人が歩いているのが小さかった。
 雲はほとんどない。サボって抜けるのは久しぶりで少しドキドキしたけど、穏やかな空気に緊張感も薄れていく。
 ごはんを食べたあとということもあって、横になったらお昼寝できそうだ。
 仁王は、突然あらわれた闖入者にも気を止める様子はなく、またシャボン玉を吹き始めた。

 しばらくぼうっとしていると、チャイムが響いた。屋上で聞くと音が少し遠く聞こえた。
 刹那のクラスは6時間目はたしか国語だ。
 仁王はどうするのかと、あえて隠す気もなく堂々を振り返って彼を眺める。すると、彼も刹那を見ていた。
 彼の鋭い切れ長の瞳は、その美しさもあいまって野生の獣のような、けれど気だるげな美丈夫にも見えた。
 かち合った視線を逸らさずに見返しても、彼には目が合ったとは認識されないかも。刹那の前髪は長くて、メガネもあるから。

 特に意味のない、けれども緊張感もない、不思議な沈黙が続いたあと口火を切ったのは彼だった。
「……お前さん、俺に用があるんじゃないのか」
「うん」

 お、しゃべった。
 内心そんなことを思いながらうなずくと彼の眉毛が怪訝そうに弧を描いた。やや戸惑ったような表情は仁王の彫刻のような美貌にずいぶん人間味を持たせた。
 遠目からしか見たことがなかったけれど、目じりはシュッと切れ長で形がよく、でも意外と睫毛は短くて唇が薄く、ぷるぷるしていて、男の子っぽい顔つきをしている。唇の右端にあるホクロがセクシーだと騒いでいた女の子の気持ちが少し分かった。
 綺麗とか美形というより、セクシーで涼やかで、意外と正統派な顔立ちだ。カッコイイなぁ、やっぱり。テニス部で一番好きなのは、1年の頃隣の席になった柳くんだけど、顔だけでいうなら仁王が一番かっこいいかもしれない。

 見つめながらぼーっとそんなことを考えていたからか、仁王がもう一度言った。
「……で、用事はなんなんじゃ?」
 相変わらずのクールな態度だったけど、その中に呆れや戸惑いが混じっている気がする。突き放しそうなタイプに見えるのに、やっぱり、意外と仁王は優しいというか、人間味がありそうだった。

 じゃあ、今からお願いすることは受け入れてもらえないかもしれない。
 そう思ったけれど、とりあえず言ってみる。

「あのね、わたしと付き合わない?」
「…気持ちは嬉しいが、今はテニスのことしか考えられん。すまん」

 予想はしていたが、それにしたって即答でバッサリ振られた。しかもめちゃくちゃ優しいお手本みたいな断り方だ。
 刹那は思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
 振られたのにも関わらず朗らかに笑いだした刹那を、仁王はなんじゃこいつ、とでも言いたそうな目付きで眺めていて、それにもますます笑いそうになってしまう。

「ごめん、思いのほか誠実な返事だったのも、即答されたのも面白くなっちゃって。噂ってアテにならないんだなって」
「…プリッ」
 仁王の表情からは戸惑いが消え、何を考えているか読めなくなった。鳴き声みたいな返事はめんどうくさくなったのか、煙に巻こうとしているのかよく分からない。
 刹那は笑いながら続けた。
「うーん、ダメ元で言ってみるんだけどね、」
「……」
「わたしに彼女のフリをさせてみる気ない?仁王くん、モテるでしょ。いつも女の子に囲まれたり、話しかけられてるけど面倒そうだし」

 これはここ数日の観察結果だ。
 否定も肯定もせず、刹那を観察するように横目で見ている。
「例えば部活帰りに一緒に帰る彼女がいるってだけでも、女の子をあしらう理由になると思うんだけど、それって仁王くんのメリットにならないかな?……ダメ?」
 小首を傾げ、とっても悲しそうな顔を作って彼を見上げてみたが、今は前髪で顔が見えないから意味がない行為なんだった。
 仁王は目を細めて、返事ではなく疑問で返した。それは確信を持った響きだった。

「おまん、俺んこと別に好きじゃないじゃろ」
「え、うん」
 間違っていなかったので、刹那はあっけらかんとうなずく。そもそも最初から好きだなんて言っていない。
 仁王は眉をしかめた。
「…じゃあ何でそんなこと言ってくるんじゃ?」
「メリットがあるからだよ」
「テニス部と付き合うことにか?」
 それは、終始淡々としていた彼が初めて見せた、吐き捨てるような声音だった。女嫌いというのは、もしかしたら本当なのかもしれないと思わせるような。

 ここで返事を間違えたらまずいんだろうなぁ。
 それは分かったけど、けど仁王のことを知らなさすぎて、彼の気に入る返事なんか計算できなかった。
 だからとりあえず、事実だけ口にする。

「仁王くんじゃないと意味ないの」

 絵麻は尻軽で恋多き女だ。それにモテる。男子から気のある素振りを見せられたら、すぐに満更じゃなくなって付き合い始めるから、奪うのもめんどうくさいのだ。
 けど、たぶん仁王は、絵麻が初めて自分から好きになった男の子だった。
 彼と話している時の、ドキドキしているのを隠すような素振りや、甘えすぎないように、けれど女の子らしさを意識したような声、少し赤くなっている楽しそうな顔。
 幼馴染だから分かる。
 あの女は仁王に明確に恋をしている。
 気になってるとか、ファンだとか、人気者と付き合ってみたいミーハー心だけじゃなく、彼に恋をしている。

 彼は不可解そうに小さくため息をつき、飽きたのかパステルイエローの吹く棒みたいなやつを弄び始めた。
 やっぱりダメそう。
 急ぎすぎているのは分かっているけれど、でも諦めたらあの女に可能性が生まれてしまう。
 未練がましく「気になってる女の子でもいるの?」と聞こうとして、口を噤む。それは悪手な気がした。たぶんだけど、踏み込まれるのが嫌いそう。

「仮にそれに俺が乗ったとして…」
「!」
 シャボン玉を吹きながら彼が言う。刹那は前のめりにならないよう自分を律しながら、うん、と相槌を打つ。
「おまんにどんなメリットがあるかは知らんが、女子から総スカンを食らうことは間違いないぜよ」
「心配してくれてるの?意外。優しいんだね」
 わざとからかってみると、仁王は嫌そうに顔をしかめた。それに笑いながら立ち上がって、彼の方に近付く。
 話しながら、刹那は彼の性格を把握しようと努めていた。

「だからね、アイディアがあるんだ。わたしだって虐められたり、悪目立ちはしたくないもの」
 仁王の隣に、人一人分くらいの距離をあけて座り、メガネを外すと、ポケットからパールの可愛らしいピンを取り出して、彼に見せる。
 それで、顔を覆っている鬱陶しい前髪をねじってパチンッと止め、腕につけているヘアゴムで慣れた手つきで髪の毛を三つ編みに纏めた。
「ね、ほら。こうしたらわたしって分かんなくなるでしょ?」
 ニコッと花の咲くような笑顔を向けて見せると、仁王は何度かまばたきをした。まぶたが少し厚めで、少し眠たそうな目つきに見える。
 彼の気だるげなアンニュイさは、この瞳から漂っているのかもしれない。
 自分の顔が男の子に大きな効果を発揮することを、刹那は知っていた。こんなにイケメンな仁王にも効くか分からなかったが、どうやら全く効果ナシというわけでもないっぽい。

 刹那は小首を傾げて、さっきは意味のなかった、捨てられた子犬のような表情で仁王を上目遣いで見つめた。
「ね、ダメかな……?」
 彼はその途端、氷のように冷めた瞳をした。
 ──あ、失敗した。
 後悔するヒマもなく、仁王が顔を背ける。

「わざわざ知らん奴の悪巧みに乗ってやるほど、俺は優しくはないんでな」

 あーらら。
 さっきの優しいんだね、を皮肉って仁王が素っ気なく言う。機嫌を損ねてしまったらしい。
 なるほど、仁王は媚びる女がお嫌い。脳内にインプットする。

「そっかー、残念」
 自分では明るく言ったつもりだったが、思いのほか本当に残念そうな声になってしまった。それにも落ち込んでため息をつく。
 諦めるつもりはないけど、どうしようか。
 コンクリートの壁に寄っかかって、流れる雲を眺める。こんなときでも空は憎々しいほど素晴らしく晴れ渡っている。

「……」
「……」

 仁王はふつりと黙り込んだが、刹那のことを邪魔に思っているのは明白だった。その証拠に、シャボン玉がぷかぷか流れてこない。
 顔を出しているときに、男の子にあからさまに邪険にされるのは慣れていなかったので新鮮だった。

 どっちも黙っていたけれど、その沈黙の時間は意外と気まずくなかった。まぁ、そもそも刹那は人に合わせないので他人と接していて気まずく思うことがないだけかもしれないが。
 この後はどうしようか。刹那は空を眺めながら思案した。
 保健室に行くと行った手前、顔を出した方がいいだろう。お腹が痛くて、とか生理が重くて、薬が切れていてトイレで動けなかったとでもいえば、保健室の先生は優しいからたぶん大丈夫だ。
 前髪を下ろした刹那はただでさえ真面目でおとなしい、無害そうな生徒に見えるのだし。

 遠くの方からちいちゃな子供たちがワイワイ騒ぐのが聞こえる。
 お散歩の時間かな。
 もう少し、こののどかな非日常を味わうのも悪くないかもしれないと、目を閉じて聞いていると、横から視線が突き刺さるのを感じた。

「…なに?」
 瞑ったまま尋ねる。
「起きとったんか」
「寝ないよー、具合悪いって抜けてきたから保健室に行かなきゃだもん」
「…ピヨ」
 また意味のわからない返事だ。でもたぶん、あっそみたいな意味だろう。
「その鳴き声かわいいね。なに?鳥?」
「プピッ」
「新しい鳴き声だ」
 小さくクスッと吹き出したが、彼に会話する気がないのは分かった。もう進展ないしいいや。
 あんまり付き纏ってもうざがられるだけだし……いや、もう遅いか……。
 三つ編みをほどいて手で梳かし、ピンを外す。前髪の下にメガネをかける。そうしたら、野暮ったい地味女の完成だ。
 立ち上がってスカートの裾を払った。

「…なんでわざわざそんな格好しとるんじゃ?」
 どうでも良さそうな声だったが、仁王から話しかけてくれたことに「お!」と思う。興味を持ってくれたとは思わないが、すこし嬉しい。ちょっとだけ進展したようで。

「鬱陶しいじゃん、見た目で寄ってくる人たちの相手するの」
 なんて言えば好感度が上がるか考え、共感を狙ったほうがいいかなーと答えを出した。
 その答えはちょうど刹那の本心だった。
 横目で彼の反応を盗み見たが、やっぱり何を考えているか分からない。

「じゃ、またプレゼンしに来るね」
「諦めてなかったんか」
 ニコッと音の鳴る笑顔で肯定し、刹那は手すりを降りた。
 意外と仁王って普通に喋ってくれるんだなー。
 噂ではどんな爛れた男の子かと思ったけれど、フィルターを剥がしてみた彼は、ちょっと変わっていて絡みづらいだけの、優しさが垣間見える男の子だった。
 絵麻はこういうところを知って好きになったんだろうか。
 それなら、なおさらあの女なんかの恋をみすみす成功させてやるもんか。

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