07

 電車に揺られて暗くなった窓の外を眺める。部活を始めて遅くなることが増えたとはいえ、ここまで帰宅が遅れるのはひさしぶりだ。きっと祖母が心配している。
 闇に反射する自分の顔と、線を引いて流れていくネオン。

 一人になると楽しかった余韻があれど、急激に肩の力が抜けた。僅かに手のひらが震える。
 妙に気分がハイテンションで心臓の動悸がなかなか収まらなかった。楽しかったな。久しぶりにゲーセンに行ったし、同世代の男子と遊びに行くのも、仁王以外とは久しぶりだ。幼馴染は東京に住んでいるから数ヶ月会えていないし…。

 切原への態度を後悔はしてはいないが、自分らしくないことが、刹那は自分でも不思議だった。たしかに刹那の口は悪いが、それは内心で毒づく時だけで、見せるのは幼馴染の侑士にくらい。それも、苛立ったり、心の余裕がない時だけで、ほとんどの場合刹那はわりと穏やかな口調だ。

 街灯の下を思考に耽りながら鞄をゆらゆら揺らして歩く。影が黒く伸びている。
 帰り際に考え事はしたくないと思ったのに、気付けば刹那はいつも自分の脳内と対話してしまう。解散してからもう20分も経とうというのに、刹那の心臓は未だにドキドキとして、走り出したいようなせわしない鼓動に襲われていた。
 息も少し上がりそうになる。
 興奮と楽しさ……そういうものかと思っていた。でも、ちがう。

 これは動悸だ。
 身体に安堵と興奮の特徴が如実に現れていて、刹那は初めて自分が酷く緊張していたことに気付いた。
 でも刹那は人見知りってほどでもないし、他人と関わる時に好かれるか好かれないか気にすることも、気まずさを気にすることも、相手の反応が気になって不安になることも滅多にない。自己中だからだ。
 ふとさすった自分の手のひらが冷たい。

「……?あ」

 そして気付いた。簡単なことだった。
 刹那は怖かったのだ。

 自覚した途端、歩みが止まる。思わず立ち尽くしてしまった。数分、そうして固まって、小さく絞り出すように「あー……ハハ……」と乾いた笑いを零した。自分を嘲る笑いだった。

 楽しかったのも、話が合うのも事実だったのに、刹那は年下のあんなバカっぽい少年が怖かったのだ。…
 ゆっくりとまた歩き出す。
 自分に敵対的で、声が大きくて、嫌悪を表に出すことを恐れていなくて、頭が悪くて、衝動的に動きそうな……切原はそんな、刹那が苦手とする……いや、恐怖する属性を兼ね備えていた。
 だから無意識な防衛反応として、攻撃されたら反射出来るように、舐められないように、あれほどマウントを取るような態度になった。
 自分の行動を思い返して分析する。心がズシッと重くなる。
 冷静に考えればいくら切原が考えなしのバカだとしても、全国常連の強豪に入り、暴力沙汰を起こすわけがないし、由比や丸井や桑原がいたし、そもそもみんながみんなレイプや暴力という手段に走るわけがない。あいつらと一緒にするほは切原にすこぶる失礼だ。
 そう頭では分かっていても、咄嗟に身構え、いつ自分に悪意が向くか、過剰に捉えてしまう。思考していなくても身体も心も勝手に恐れてしまう。

 人類の半分を加害者だと思って生きていたくないのに……。
 罪悪感と自嘲、虚しさに諦めの笑みを浮かべ、楽しかったはずの時間が色褪せるのを感じ、クッ、と軽く唇を噛み、だが、何事もなかったかのように唇に微笑みを浮かべた。


「ただいま〜」
「刹那ちゃん!」

 パタパタと軽い足音と共に祖母が小走りで駆けてきた。優しげな眉がこれでもかと垂れ下がっている。
「遅かったじゃない!心配したんだよ、なにかあったのかって…」
「ごめん、部活の後友達とカフェに行ってたら思ったより遅くなっちゃった。でも連絡したよ?」
「こんなに遅くなると思わなかったわ!陽もすっかり落ちて…刹那ちゃんはただでさえあの事があるんだから……。帰り道何もなかった?」
「うん、大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「ほんとよ、もう…。ご飯はどうする?カフェで食べてきたの?」
「んーん、たべる!おなかすいた〜」
「じゃ、準備するから手を洗ってきちゃいなさい」

 祖母の心配が全身を包んで、刹那はくすぐったさを感じた。いまだに「おかえり」と玄関まで出迎えてもらうことすら新鮮に温かさを感じる。
 母はよく言えばおおらかなのびのびとした…マイペースな人で、悪く言えば楽観的で常識がなく…共感性に欠けた人だ。昔から夜の仕事をしていて昼夜逆転していて、朝学校に行く頃には寝ていて、帰ってくる頃には同伴ですでに家にいないか、慌ただしくメイクしているかで、ほとんど共に過ごす時間がなかった。
 小学4年生に上がる頃には「刹那ちゃんはママと違ってしっかり者だから安心だわ!」と言って、東京と神奈川を行ったり来たりするようになった。昔の知り合いが六本木で店を出すことになり、そっちに顔を出すようになったのだ。
 だから、刹那は小学生ながらにしてほとんど一人暮らしだった。
 小学5年で事件が起き、東京の母の元に引っ越してしばらくは母の店に出入りして一緒に過ごしたが、瑛士さんと知り合って彼に懐いてからは、ほとんど忍足家で過ごしていた。

 刹那は、息子の侑士と娘のえりちゃんが羨ましかった。自分にはなかった普遍的な家族な形がなんだか眩しくて…別に自分の境遇に不満があるわけじゃないし、母のことも大好きだったけれど、心のどこかで憧れていた。
 奥さんの和美さんは凛とした聡明な心の広い人で、他人の刹那にもとても優しかったけれど、やっぱり刹那はよその子だった。

 だからちょっと帰宅が遅れたくらいでこんなにも心配そうに、温かく迎えてくれる人が自分の帰りを待っているのが、なんだかとても……。

 夕食のカレーを味わいながら、ばあばはまだブツブツと小言を言っている。当たり前のように彼女も一緒に夕食を食べていた。
「刹那ちゃんはまだ13歳なのよ?連絡しているとはいえ、これからは部活のあとはあまり寄り道しないようにね。あと1時間も遅かったら、警察に相談しようかと思ったんだよ」
「警察?ふ、ふふっ、そんなに?」
「笑い事じゃありません!世の中には親切な人ばかりじゃないんだから…」
 そこまでとは思わなかった。びっくりして、思わず笑ってしまう。まだ20時を少し回ったくらいなのに。珍しくちょっと怖い顔で祖母がピシャンと言うが、心配だと思うと、なんだか嬉しい。
「分かった?刹那ちゃん、お約束よ?」
「うん、分かった。でも、今は三軍マネだからいいけど、二軍とか、一軍に上がったらちょっと難しいかも…」
「まぁ……どうして?」
 祖母の眉根がギュッと寄る。
「やっぱり強豪校だから…部活は長くても7時くらいには終わるけど、レギュラーはその後近くのコートで遅くまで自主練してたりするみたい。一軍マネになったら選手のケアもしたりする必要があると思うんだよね…まぁ、ずっと先の話だけど」
「そうなの……」
 不満そうだったが、数瞬思案した末に、明らかにしぶしぶというように祖母がうなずいてくれて、刹那はほっとした。
「立海は部活も有名だものねぇ…。でも心配だわ。お迎えに行ければいいのだけど…」
「そこまでしなくていいよー」
「…駅まではお友達と一緒なの?」
「うん、まぁ」
「それじゃあ、今日みたいに遅くなる日なら学校の最寄り駅からタクシーで帰ってくるのはどう?それなら夜道を一人で歩かなくていいものねぇ」
「うーん、いいけど、もったいなくないかな?」
「何言ってるの!佳恵(よしえ)から生活費も振り込まれてるし、刹那ちゃんのために使わなきゃ。子供が遠慮なんてしなくていいの」

 ……佳恵?
 一瞬その名前に停止して、ああ、そういえば母の名前だったと思い出す。
 刹那が薄情なのではなく、母は常に源氏名の「桜子」をいつどんな時でも場所でも名乗っていた。周りの人はみんな桜子さんと呼ぶから、ママの本名が咄嗟にピンと来ない。

「分かった。じゃあ、遅くなる時はそうするね」
「お約束できる?」
「うん」
「良かった、これでばぁばも気を揉まずにすむわ」
 安堵に胸を撫で下ろし、ようやく祖母がほっと表情を緩める。心配性ではあるが、こう……愛されている気がして、刹那はまばたきをパチパチして、小さく綻んだ。
「ほんとう刹那ちゃんは佳恵と違ってとってもいい子ねぇ。どうしてあの子からこんなにいい子が生まれたのかしら。部活もお勉強も頑張って、真面目で、言うこともきちんと聞いて、お手伝いも積極的で…」
 祖母がしみじみと言う。感心した褒め言葉の中に母への苦にがしさがあって、刹那は無言でそれを流した。母と祖母はとても仲が悪いのだ。
 余計なことは言わず、もくもくとスプーンを口に運ぶ。
「中学の頃のあの子ったら本当に手が負えなくて…補導されて、何度あの子を警察まで迎えに行ったか知れないわ。本当にみっともない……」
 祖母のことは好きだが、誰であっても母の悪口は聞きたくない。

「ばぁば、大変だったんだね」
「そうなのよ!佳恵ときたら…」
「あ!ねぇねぇ、このカレーって明日の朝も食べれるかな?すっごく美味しいから、欲張りだけど、明日の夜もこのカレーがいいな」
「ま、ふふ、そんなに気に入ったの?」
「うん!具がごろっとしてて大きいのに、柔らかくって、ばぁばのカレー大好き。おかわりしたら明日の夜の分なくなっちゃう?」
「た〜んとあるから好きなだけお食べ。タッパーで保存しようと思って鍋いっぱいに作ったの」
「やったー!じゃ、おかわりしちゃおうかな」

 あまりにも分かりやすい話題変換だったが、祖母は気をよくして、にっこりとカレーの話題に乗ってくれたので、刹那はほっと息をついた。
 娘の自分でも母はイカれていると思うから祖母はそりゃあもう手を焼いただろうと思うし、刹那が立海への進学を希望するまではほとんど絶縁状態だったから仲もいいわけはないが、やっぱり好きな人が好きな人のことを悪くいうのは聞いていて嬉しいものではない。
 それに、刹那は他人の悪口を聞くのが好きではなかった。
 虐められてその痛みが分かるようになったから、悪口や陰口や揶揄を聞くと、それを思い出して陰惨な気持ちになる。

 刹那は、好きな人とは楽しい話をして楽しい時間を過ごしていたい。一緒にいることで笑っていてほしい。

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