05
 部室に戻り、柳に礼を言った。彼は練習に戻り、あとはマネで備品の収納をする。
 2つの部室を行き来して、消耗品のチェックをし、由比が備品ノートに色々書き込んで、刹那も一緒に片付けていく。レギュラー用の部室に初めて足を踏み入れたが、三軍用とは差が大きくて絶句してしまった。
 格差はある。あるが…声を失ったのは、それが理由ではない。
 明らかに、部室が綺麗だった。少し汗臭さは漂っているが、入った瞬間鼻に「ウッ」とくる蒸された男の匂いがしない。刹那は呆然と立ち竦んだ。

「どしたの?」
「あ、ううん…」

 気を取り直し、作業しながら部室を眺め、棚を眺め、酷い格差にやっぱり愕然とする。軽く眺めただけでも、床にゴミが落ちていない。第二部室なんか、何に使ったか分からない固くなったティッシュやら、お菓子の袋(中身がほんの少し残ってるやつ、最後まで食えよ)、黒ずんだ使用済テーピングの残骸…数え上げればキリがないほど、小さな細々したゴミが落ちている。
 あからさまにゴミまみれというわけではなくて…。後でやろうと思ってそのまま忘れたとか、とりあえず置いておいた物が落ちたとか、ゴミ箱に入り切らなかったとか、ロッカーからつい溢れたとか、そういう、ちょっとしたゴミが絶えない。
 もちろん臭いし、部室の隅にはいつから置いてあるかわかんねえ誰のものかも不明な埃まみれのタオルやら、ガットが切れたまま放置してある、多分置いていかれた昔のラケットやら、出しっぱなしのゴミ袋やテーピングやら、もう、もう……。
 それに比べてレギュラーの部室ときたら。
 消耗品棚だって、使った先からきちんと仕舞われているらしく、種類ごとに纏めて綺麗に並んでいる。ぐちゃぐちゃになっていない。
 作業していても、爪の甘い隠し方をされたエロ本が出てこないし。

「……」

 刹那は無言になり、目をつぶった。
 次やることは決まったな。部室の掃除だ。


 淡々と作業していると、最初は無言で手を動かしていても、段々集中力が途切れてくる。終わりに差し掛かった時、由比がニコッと刹那を振り返った。
「ねえねえ、今日ってさ、すぐ家に帰らないとダメ?」
「え?」
「あのね、良かったらだけど、一緒にカフェいかない?白凪さんコーヒー飲める?」
「あ、うん、好き…」
「良かった!駅とは反対になっちゃうんだけど、近くに美味しいとこがあるの!本屋さんのとこをまっすぐ…5分くらいかな?行ったところ!どう?」

 ワーッと喋ったあと、言いたいことを言い終えたのか、ふつっと黙ってニコニコーッと可愛らしく見つめてくる。小型犬みたいだ。そして、断られるとは思っていないような笑顔。うがった見方すぎだろうか。断られても気にしないだけかもしれない。なんとなく刹那は「ああ、幸村くんの幼馴染だな…」という印象を抱いた。
 けれど、誘い自体は嬉しい。
 戸惑いは一瞬で消え、刹那は「うん、行きたい」とにこやかにうなずいた。由比に気に入られたのだろうか。友達になれるかは分からないけれど、部長、副部長の幼馴染で、発言力のあるリーダー格のマネと親しくなって損はない。
 今日の会話のどれかが良かったのかもしれない。
 暗記力だろうか?
 柳とふつうに話していたこと?
 成績?
 何が由比の琴線に引っかかったのだろう。

 部活後、片付けとマネがつける部誌を書き終えると、刹那は着替えて、更衣室前で待っていた由比のところに合流する。
 先輩と話し込んでいた由比がパッと顔を明るくさせた。
「あっ、白凪さん、終わった?」
「うん」
「じゃ行こっか!お疲れ様で〜す!」
「お疲れ様です」
「どっか行くの?」
「そうなんです〜、聖美先輩に教えてもらった『calando(カランド)』行こうと思って!」
「へー、その子新人の子だっけ?仲良くなったんだ」
「ですですっ、めっちゃいい子なんですよ〜!」
「ふーん…ゴメン名前なんだっけ」
「白凪刹那です」
「白凪ね」
「この人はね、一軍マネの葛西先輩!高校の男テニのレギュラーの人と従兄弟でね、テニスめっちゃ詳しいんだよ〜」
「そうなんですね。よろしくお願いします」
「よろしく〜、じゃ、お疲れ」
「お疲れ様で〜す!」
「お疲れ様です」

 葛西に背を向けた刹那は脳内で(怖〜〜〜〜ッ)と叫んだ。
 ァ怖〜……。
 話した内容は普通だった。
 だが、なんでタバコを吸っていないのか分からない先輩だった。歌舞伎町でギラギラの黒コーデに身を包んでガードレールに寄りかかってホストとたむろしてる状況じゃないのが不思議なくらいコテコテの雰囲気を持っている。もちろんメイクはナチュラルで立海テニス部としてふさわしい様相だったのにも関わらず、明らかに新宿の女だった。
 怖ッ……。
 自然な茶髪に、オレンジのイヤリングカラーが入っていてそれが見事に似合っていた。ボソボソ喋るクールな美人で他人に徹底的に興味が無い代わりに気に入った子には姉御肌のギャル。たぶんそういうタイプ。知らんけど。

「今から行くとこはね、なんか本場の豆?からこだわって挽いてるんだって。えへへ、精市からの受け入り。精市は柳から聞いたってゆってた」

 ヘラヘラ笑っている由比を横目でチラリと見て刹那はおののく。ちょっと引いた。
 なんでこいつあんな怖い女の先輩にも気に入られてるんだよ。すっげーな……コミュ力Sかよ。刹那は由比もある意味で怖かった。由比に嫌われたら人権がなくなるんだろうな。周りが勝手に由比に同調して嫌っていくに違いない。彼女はニコニコして人懐っこいから先輩に可愛がられるのかもしれない。

 刹那は小学校の時は周りにチヤホヤされ、不登校時代はママの職場の大人のおねえさんたちにチヤホヤされ、顔を出している時は男にチヤホヤされているが、"同世代"の先輩との関わり方は分からない。
 部活に入り、先輩後輩の縦社会から逃れることは出来ない以上、自分が先輩に気に入られるとは思えないため、気に入られている由比に金魚のフンみたいにくっついている方がいいだろう。
 でも別に由比と話すことはないので、困ってしまう。
 今何故かちょっと仲良く出来そうな雰囲気になっているがそれもいつまで続くか。…

 東門は見慣れたレギュラー陣とボウフラたち(ファン)の軍団がいた。由比が「ごめんね〜」と声を掛けるとサッとボウフラが少しはける。よくこの中をふつうに突っ切っていけるなと、もはや感心してしまう。由比にも、後ろにくっついている刹那にもビシビシ視線が突き刺さった。
 ファンクラブの掟として「マネに敵対しない」というものが不文律であるので、マネを始めてから嫌な目にあったことはまだないが、ファンたちの「何あの子」という感情が露骨に背中に感じ取れてゲンナリする。
 仁王の彼女として目立つのとは違う疲労が肩に乗った。

「みんなお疲れ〜」
「お疲れ。今日は先帰ってるよ」
「はーい」
「ん、寄り道?」
「そー」

 幸村精市が返事をして、たむろしていた男たちが気を引かれたように由比を見、刹那を見た。会話するのを少し後ろで眺める。ふと目が合った幸村が星がまたたくように微笑み、会釈を返す。真田と幸村が門を去っていって、仁王と柳生は2人でなにか話し込んでいる。
 あの公園の夜以来、仁王と刹那は、可もなく不可もない初期の頃の他人行儀かつ距離感を探る馴れ馴れしさの関係を保っていた。仁王は刹那を観察してはいたが、何も言わなかった。ふたりはただの他人だった。

「え、『calando』行くの?オレも行きて〜んだけど」
「知ってるの?意外」
「元カノに連れてってもらったことあんだけどさ、あそこのケーキマジで美味くね?インスタも見てるぜぃ。最近新メニューが出たから気になってたんだよ」
「まだ行ってないんだ?丸井いつも新作はすぐ食べに行くのに」
「やあの店、静かすぎて1人では行きづれえじゃん?」
「あー分かる」
「だろぃ?なぁオレも一緒に行ってい?」
「何何?丸井先輩も行くの?ケーキ屋?」
「切原はヤダ」
「はー!?なんでそんな意地悪言うんすか!?性格悪ッ!」
「ほらもううるさい、大人っぽいお店だから切原いたら悪目立ちしちゃうもん」
「へ?もしかして由比先輩自分のこと大人っぽいとか思ってる?笑」
「あぁもう絶対連れていかないや」
「ねえ〜〜!!ジョーダンじゃないっすか〜!」

 なんだか人数が増えそうな雰囲気だ。静かに会話を待っていると、同じく所在なさげに会話を見守っている桑原の姿が目に入った。勝手にちょっと親近感が沸く。
 切原がごねて、結局丸井・桑原・切原も一緒に行くことになった。申し訳なさそうな由比に、にこやかに「大丈夫だよ」とうなずく。
 爆速で準レギュたちとの交流の場が整えられていき刹那は言葉もなかった。いきなり仲良くなろうとは思わないが、認知のきっかけにはなるに違いない。彼女の金魚のフンをしているだけで絵麻の憧れの男たちと「きっかけ」が作られることに新鮮な驚きを感じる。
 こんな風に、誰かをきっかけに交流関係が繋がりそうな機会がほとんど初めてだった。

 歩き出した3人の後を桑原と並んでついて行く。
 由比たちが振り返って柳生と仁王に手を振った。仁王の何を考えているか分からない、静かな鏡のような目から視線を離し、会釈をして前を向いた。
 縁があれば仲良くなる、と前言ったことを思い出した。
 由比が縁を繋いでくれたから、仲良くなるかどうかは刹那次第だ。三軍マネの分際で準レギュにどうアプローチしたらいいのか、親しくなるべくアプローチするべきなのか、どう動くのが正解なのか爆速展開すぎてもう分からない。なるようにしかならないと、刹那は仁王の鏡の目を頭から振り払った。

*

 丸井、切原、由比がギャーギャーじゃれ合いながら進む数歩後ろを刹那はそっと着いて歩く。身の振り方に戸惑い、考えるのもなんだかめんどくさくなって、彼らをボーッと観察するようなしないような曖昧な足取りで歩く横を、気遣うような雰囲気を醸し出した桑原が歩いている。

「あー、白凪だよな。ちゃんと話したことなかったよな、オレは桑原だ、よろしく」
「知ってるよー、桑原くん有名だもん。律儀にありがとうね」
「そうか…え、有名?」
「うん」
「まぁこの学校でけーけどハーフってあんまりいないしな…」
 そこじゃないでしょ。困った顔で頭をく桑原のトンチキさに刹那は小さく笑う。これを言ってるのが仁王なら何を白々しいことを、と思うところだが、桑原は本気でわかっていなさそうだった。
 褐色で日本人離れした顔立ちや、ブラジルの情熱的なイメージに反して、彼は仕草も話し方もなんだか控えめだ。
「ふふっ、テニス部は人気だもん。桑原くんもモテてるよ」
「えっ、オレも!?あいつらだけじゃなくて?」
「何言ってるの、少し強面だけど優しくて話しやすいってみんな言ってるのに。自信持ちなよ」
 最後の一言は余計だった。少し偉そうだったかと様子を窺ったが、彼は「マジかよ、ハハ、いやー、なんか照れるな」とはにかんで頬を掻く。刹那はその反応に好感を覚えた。
 否定するでもなく、他人の賞賛を素直に受け止めて、なおかつ謙虚だ。仁王や刹那よりよっぽど性根がまっすぐなんだろう。

 当たり障りのない会話をしていると、例の喫茶店に辿り着いた。買い出しに行ったマリンショップよりよっぽど近い。
「ここだよ!見た目からもうオシャレじゃない?」
「うん、とっても素敵!」
「へー、たしかになんか大人っぽいっすね」
 由比が得意げに振り返った。
 外観はコンクリートではなく、やや古ぼけたダークカラーの木材と白い煉瓦で出来ていて、昭和のモダニズムを感じる。店名が書かれた看板には写実的で味のある黒猫が描かれていた。刹那は一目で心惹かれた。仁王もここを気に入りそうな気がする。

 うねるような不思議な形の取っ手を押して扉を開けると、かろらん、かろりん、のような不思議な、けれど聞き馴染みのあるようなドアベルが鳴った。
 由比が慣れたように奥の方の席に向かう。店の中は静かで薄暗かった。鈍い金色、滲むような橙色のような柔らかい光が満ちていて景色がぼやける感覚を受ける。壁のランプだけで店内を照らしているらしい。
 壁にはレトロな雑貨や小さな額縁に入った絵画、写真、時計などが雑多に飾られていて、窓にはステンドグラスが嵌っている。ところどころに黒猫の絵や置物があるのも可愛い。
 店の中もとても気に入った。昭和モダンとイタリアンアンティークが不均衡に混ざりあって独特の雰囲気を醸し出している。

「つーか暗くね?イデッ」
 大人数掛けの席に座ると切原が開口一番にそう言った。すかさず由比が背中をばしんと叩く。
「声デカいっ、てか失礼、切原マジでしゃべんないでよね」
「はいはい」
「メニュー表はこれね」
「オレメニュー決まってるわ」
「みんなは何にする?あ、メニュー見づらいよね」
 カチッと音がして、目の前が優しく明るくなった。テーブルの端の花を象った置物はテーブルランプだったらしい。
「うわぁ…可愛い。ランプがあるなら本を読みに来たり、勉強したり出来そう!」
「ね、細かいところまですごくこだわっててすごいよね!」
 小さな声で刹那と由比ははしゃいだ。丸井と桑原は周りの目を気にしていて少し落ち着かなそうで、切原は「分かんねー。ばばくさくね?」と首を撫でている。この情緒が分からないらしい。

 刹那はアメリカンコーヒーとプリンを頼んだ。あまり夕食前にたくさん食べたくない。だが写真で見たプリンはカラメルが濃厚でつやつやして、そんなに大きくもなさそうだ。
 丸井が食べたいと言っていた期間限定のメニューはシャインマスカットのタルトらしい。たしかに美味しそうだ。
「たけっ」
 切原にまた由比が背中を軽く殴る。
「いやだってオレ金欠なんすもん!」
「分かった分かった、奢るから静かにして!余計なこと言わないで!」
「ラッキー!由比先輩太っ腹!」
 彼にしては小声なのだろうが、切原の声はよく通るからさすがに刹那も視線が気になった。しかも言うこと全部が失礼だし。素直といえば聞こえがいいがただバカなだけだ。悪意がないのがわかるだけにタチが悪い。

「こんないいお店に連れてきてくれてありがとう」
 刹那は話題を変えた。彼女もそれに素早く乗っかってくる。
「気に入った?」
「すごく!雰囲気いいし、今度ゆっくり勉強しに来ようかな」
「勉強ってあたりがえらいよね」
「そう?静かだしはかどりそう。一人席にもランプあるかな?」
「あるけど、えっ、一人で来るの?」
「え?そのつもりだけど…」
「すご!ここ一人で来れる?なんか気後れしちゃわない?」
「んー、あんまり。昔からカフェ巡りするの好きだから、一人でも色々行くよ」
「わー…。たしかに白凪さんって落ち着いてる感じあるもんねぇ」
 感嘆のため息をつく由比に嫌味な感じはなく、本心から思っているのが分かる素直な褒め言葉だった。刹那は「ありがとう」と微笑んでおく。だが切原がジロッと眺めて鼻で笑ったのがわかった。彼のは明確に嘲笑だ。落ち着いてるっつーか地味なだけじゃね?心の声が聞こえてくるようだ。
 地味な装いをしているのは刹那自身だったが、見下されるのは普通にイラッとする。このガキ……。
 思えば最初から切原は態度が悪い気がする。一切話しかけてこないし、たまに投げられる視線には邪魔そうな意思が宿っている。この時期に急に入ったマネが気に入らないのか、地味で大人しいから舐められているのか。

 切原がいる時にわざわざ出しゃばらなくてもいいかと会話を見守り、刹那は店を出るまでアルカイックスマイルを浮かべ、時折相槌程度に会話に混ざるだけで大人しく過ごした。
 機会はまたいつか巡ってくるだろう。

prev back next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -