深呼吸をして、昇降口を出る。
柄にもなく少し緊張していた。テニス部は男ばかりだし、女マネに馴染めるか分からない。それに、刹那はあらゆる意味で運動部に所属するのに向いているとは言えない。
けれど、突き進むともう決めている。ずっと前から。
部室棟に行くと既に由比が待っていた。刹那を見ると「あっ!」と手を上げる。
「待ってたよー、白凪さん。最初に部室だけ案内しておくね。ここが、二軍と三軍の使ってる部室。で、その隣がレギュラー陣と準レギュが使ってる部室」
「ふたつもあるんだね」
「すごいよねー。全国区だから結構予算も多いんだよー。面接は女マネの更衣室でやるから、ついてきて」
「はい」
彼女の小さな背中を追う。
由比茜は同世代よりも少し背が低く、カラッとしていて話しやすい。物言いはハッキリしているが、口数が多くて人懐っこそうだし、嫌味がなかった。強気な顔立ちも表情がよく変わるから、むしろ可愛らしく見える。
この子が幸村と真田の幼なじみで、2年マネージャーたちのリーダー。
しっかり者そうな印象を受ける。
更衣室は部室棟の端の方に集まっていた。サッカー部の女マネと共有らしい。
「茜ー、お疲れ。その子が?」
「お疲れ様です!今日面接予定の白凪さんです」
「初めまして、よろしくお願いします」
「…ふーん、受かったらよろしくね」
何人かの女生徒が着替えていて、由比のついでに刹那を眺めると部活に向かっていく。値踏みした結果、刹那に興味は出なかったらしい。
刹那は小さく息を吐く。
由比が苦笑した。
「大丈夫?あはは、ちょっと怖いよね。今の人は3年の笹中先輩ね。あとは3年のサッカー部マネの人たち」
「笹中先輩、ですね」
「一軍マネだからしばらくはあんまり関わりないかも!でも、ちょっと上下関係に厳しい人だから、挨拶だけは忘れずにね」
「うん、ありがとう」
入る前から内部事情を教えてくれる彼女に、素直な人なんだな、と思う。
準備してくれたパイプ椅子に座ると、由比と向かい合う。
「緊張しなくていいからねー!あ、お茶でも飲む?」
「大丈夫だよ」
「そう?てかなんか、白凪さんって落ち着いてるねー。なんか私の方がキンチョーしてるかも。面接ってあんまりしないからさー」
「そうなの?」
「うん、体験入部期間以外でやりたいって来る子あんまりいないし。やっぱり友達と一緒に興味本位でって子が多いから」
元気な子だな。口を挟む隙がないくらい話している由比に、刹那はうなずきながら相槌を打つ。人に好かれそうな子だ。
「なんでマネをやろーって思ったの?それも、今の時期に1人でって、やっぱりちょっと勇気必要じゃない?」
ようやく面接らしい質問になった。刹那は気付かれないようそっと唇を舐めた。
「わたし、文芸部にも所属してるんだけど…」
「えっ、そうなの?でもなんか似合うね!」
「ありがとう。それで、文芸部は月に一度出す雑誌があって。海友文誌っていうんだけど…知ってる?」
「ごめん、名前は聞いた事ある気がするけど…」
「ふふ、大丈夫。その雑誌でわたし、小説の連載してるんだけど」
「えっ!小説書いてるの?すごくない?」
一言一言にリアクションを取ってくれる彼女に刹那は苦笑する。
「その連載がもうすぐ終わりそうなんだ。それで、次の題材としてスポーツを書いてほしいって言われてるんだけど、小説って自分が体験したことがない話を妄想で書くとね、それが読者に透けて見えるの。わたし、スポーツをしたことないから、どんな気持ちで向き合っているのか、勝った時や負けた時、それを応援する人の気持ち、色々なことを知るところから始めようと思って、今回テニス部のマネージャーに立候補しようと思いました」
「はーっ…」
由比は感心と驚きが混じった顔でため息をついた。
「ちょっと、初めての理由でびっくりしちゃった。そっかー、なんかすごいね」
「テニスを好きな純粋な気持ちじゃなくて、嫌な気持ちにさせてないといいんだけど…」
「それは大丈夫!別にテニス部の誰かが好きだからーっていう理由でも、仕事をちゃんとするなら始まるきっかけとしては十分だしね。でも、小説で書くって実際にやる方じゃなくていいの?」
「それも考えたんだけど、体力がないから…それに、テニスには縁があって」
「縁?」
「友達が硬式テニスをやってて、ルールは昔から知ってるんだ。だから題材は身近なテニスにしようかなって。それにうちのテニス部は全国区だから。スポーツに対する真剣さが強い方がきっと勉強になると思って」
「なるほどねー。なんかすごいね、小説書くのってそんなに大変なんだ」
少し考えたあと、由比はニコッと太陽のように笑った。
「私達がテニスに真剣なように、白凪さんは小説に真剣なんだね」
その邪気のない言葉に刹那は声を失った。
用意した理由は聞こえのいい建前だけれど、小説に対するスタンスは本心だったから、照れくさい気持ちになる。それから、本当の真意は利用するためだから、後ろめたい気持ち。
「じゃあテニス部のマネは小説書くまで?」
「あ、ううん。やるなら本気でやりたいと思ってる。そうじゃないと選手にも他のマネにも失礼だし、文芸部は兼部可だから、受かったら卒業まで所属するつもり」
「そうなんだ。白凪さんって真面目なんだね、よかったー」
「そうかな」
「話した分だと、そんな感じ!兼部大丈夫ってことだけど、文芸部の方は活動日は?」
「週2くらいでしてるみたいだけど、締切さえ守れば出席自由だから」
「なるほどー」
手応えはあるんだろうか。分からない。
次の質問に刹那は思わず苦笑した。
「じゃあ、ファンクラブは誰のに入ってる?」
入っている前提なことにも、次点の質問がそれなことにも、立海らしさを感じた。
「柳くんのに一応」
「えっ、それだけ?」
「うん」
「少ないんだねー。なんで柳のに入ったの?あ、理由は言いたくなかったら大丈夫だよ」
「大丈夫だよ。去年、隣の席になって話しやすかったから、他の子に入ろうって言われて入ったんだ」
「あ、じゃあ柳とは友達なんだ?」
「んー、向こうがわたしを覚えてくれてるかは分からないけど、同じクラスだった時はわりと話してた…と思うかな」
「そっかー。他にファンはいない?ほら、うちのテニス部みんなかっこいいからさ」
「かっこいいよね。でも、他に話したことある人はいないなぁ……」
顎に手を添え、考える刹那に由比は猫のような目で注意深く見つめたあと、珍しそうに言った。
「白凪さんって、あんまりテニス部に興味なさそうだね。私にも普通に話してくれるし」
戸惑いを浮かべ、首を傾げる。
由比は焦ったように胸の前で手を振った。
「あ、ごめん。マネ希望の子って基本、誰かのファンの場合が多くって。全然悪いことじゃないけど、私ほら、幸村の幼なじみだから、隠そうとしててもちょっとライバル心?みたいな風に見られること多いんだよね」
「大変なんだね」
「そうなんだよー、わかってくれる?」
「ちょっとだけ。なんか最近、女の子に見られること多くなったから」
「多くなったって?」
「わたし、下の名前が刹那っていうの。仁王くんの彼女と同じ名前みたいだから……」
「あ、そういえばそうだね」
「全然関係ないのに、たまに睨まれたりとかしてびっくりしちゃう」
「うわー、そういうの嫌だよね」
尋ねられる前に、シレッと仁王について織り交ぜておく。
最初に否定しておけば、その印象がずっと後についてまわる。それから、由比に対する下心。
幸村の幼なじみで、2年マネのリーダーで、明るくて活発。さっきの先輩マネの態度を見ても、由比は人望がありそうだった。そんな彼女に取り入っておくのは有効そうだ。
由比は刹那にわりといい印象を持ってくれたようで、サッパリした笑顔だった。
面接は続く。
「私としては白凪さん、真面目そうだしいいなーって思うんだけど、その、ひとつだけいいかなぁ?」
「うん」
「そのー、前髪だけどね、校則違反だと思うし、スポーツには……」
言いづらそうな由比に微笑む。
やっぱり来た。これは突っ込まれると思って、きちんと理由を用意してある。
「これね、わたしの目少し直射日光に弱くて。この眼鏡も遮光性の伊達眼鏡なんだ。ちゃんと学校から許可を取ってあるよ」
「あ、そうなんだ!」
「日光に弱いって言っても、失明とかそんなに重いものじゃなくて、ちょっと痛くなりやすいっていうか。だから外の活動でも眼鏡があれば大丈夫なんだけど、眼鏡をずっとしてると疲れちゃうから、学校以外では外してるんだ。だから前髪を伸ばしてるの」
目が弱いなんて真っ赤な嘘だ。
けれどそういうことに「なっている」。
風紀委員などにも、学校側がそう説明してくれているから、刹那は検査などでもお咎めがなかった。本当は精神的理由であり、学校側がそれを把握して、隠したい刹那の理由を尊重してくれている。
由比は納得したようにうなずいた。
「許可を取ってるなら大丈夫だね。みんなにそう説明しても大丈夫?」
体のことだし…と気遣ってくれる彼女にくすぐったくなる。彼女はいい子なんだろう。それがよく分かる。
「大丈夫だよ。風紀委員とかには説明されてるから、真田くんとか柳生くんなら知ってるんじゃないかなぁ」
「あ、引っかかっちゃうもんね。じゃ、幸村にはそう言っておくね」
それから由比は練習スケジュールなどを説明した。
基本は部活は18時頃までで、自主練なども完全下校の18時半まで。
月曜日はミーティングのみで、土日も練習がある。第2、第3日曜日は完全オフらしい。部費やジャージの値段など。
「あと何か聞きたいことある?」
「えっと…わたしって合格、なの?」
「あれ、言ってなかった?うん、これからよろしくね!」
由比は輝く笑顔だ。
「部長って幸村くんなんだっけ。幸村くんの意見とかは…」
「大丈夫だよ。マネのことはマネに任せてあるし、学年ごとに分かれてるから、2年マネの合否は私に一任されてるんだー」
「へぇ…由比さんって信頼されてるんだね」
「そうかな」
褒め言葉に照れくさそうにはにかむ。刹那はやっぱり、と思った。睨んだとおり、由比に取り入って損はなさそうだ。
「質問がなかったら、さっそく仕事とか色々教えちゃうね。ジャージ持ってきてる?」
「うん、でも…」
立ち上がりかける由比を制す。懸念事項がひとつあった。
由比はどうしたの?と腰を下ろした。
「わたし祖母と同居してるんだけど…」
「おばあさん?」
「うん、それで祖母が月に2回通院してるんだけど、親が仕事だから、わたしが付き添いをしてるんだ。だから練習を休むことがあると思うの。大丈夫かな?」
「そっか、おばあさん身体悪いの?」
「少しね。歳だから。でも重い病気とかじゃないよ」
「なら良かった。家庭の事情でお休みね、それも幸村に伝えとく!でも気にしないで大丈夫だよ!大事なことだもん。その日は学校もお休み?」
「ううん、いつも放課後に行ってるの」
「了解!おばあさん思いなんだね」
「そんなことないよ」
刹那は首を振った。
遠慮していると思って、由比は小さく笑っているが、本当にそんなことないのだ。
だって、通院しているのは刹那だから。
月に2回、精神科で薬をもらって、カウンセリングを受けている。それを祖母を理由にして、誤魔化しているだけ。精神科に通っているなんて誰にも知られたくなかった。
問題がなさそうで安心した。
ジャージに着替え、由比のあとを着いて回り、色々と説明してもらう。
テーピングやドリンクの位置、洗濯の場所。
刹那は三軍のマネから始まる。
部員への挨拶は練習後になるが、同じ三軍マネには始めに挨拶することになった。
「今日から三軍マネになります、白凪刹那です。よろしくお願いします」
そう頭を下げてみても、返ってきたのは「ああ、うん……」という覇気のない声と、「よろしくねー」と声だけは明るいのに、こちらを見もしない返事で、刹那は笑ってしまった。
いっそ清々しくてやりやすい。
由比は途中までは着いてきてくれたが、紹介したあとは「練習に戻らなくちゃいけないから」と申し訳なさそうに謝って行った。
「白凪さん、一軍に上がってきてくれたら嬉しいな。先輩ばっかりで同い年の子、いないし」
去り際にそう言ってくれたことが社交辞令でも嬉しかった。刹那の印象は良さそうだ。
さて、とマネたちをみる。
ウルフカットの気だるそうで覇気がないのは森先輩、あからさまに興味がなさそうなのはオレンジっぽい髪の宮部さん。
どちらも刹那に教える気はなく、質問したら最低限のことを簡素に教えてくれた。
なんで立海テニス部のマネできてるんだろ。
だが観察していると、彼女たちにやる気はないが、仕事は一応やっている。刹那はウロチョロして彼女たちの仕事を手伝い、やや鬱陶しそうにされながら初日は終わった。
練習終わりのミーティングで、幸村に呼ばれ、全選手の前に立たされる。それにはさすがに心臓がドキドキして、手に汗が浮かんだ。
人目に晒されることには慣れていたが、人前に出されることにはあまり慣れていない。
「この度マネージャーになりました、白凪刹那です。不慣れな部分は多いと思いますが、選手のみなさんをサポート出来るように一意専心して参りますので、よろしくお願いします」
できるだけ背筋を伸ばし、指先まで意識して凛と声を張る。それでも大部分は興味がなさそうだったが、何人かが感心したように刹那を眺めた。
仁王とふと視線が合い、ほんの僅かに……気のせいかと思うほど、僅かに彼が唇の端を釣り上げた。それにずいぶんとホッとし、刹那も微笑みを浮かべる。
辛子色のジャージを見渡し、刹那は「ここからだ」と思った。絶対一軍までのし上がってやるんだから。