06
 荒々しくならないようにドアを慎重に締め、靴を揃えて脱ぐ。もう一度リビングのドアの前で深く深呼吸して、不機嫌さと怒りを霧散させる。

「ただいま」
 弾んだ刹那の声に、キッチンで作業していた祖母が振り返ってニッコリと穏やかな微笑みを浮かべた。
「おかえり、刹那ちゃん。声が聞こえたけど、誰かとお話してたの?」
 それに少しドキリとするが、祖母の態度は穏やかなままなので、耳の遠い彼女に会話や雰囲気の殺伐さは伝わらなかったのだと安堵し、刹那は「あー、うん」と曖昧にうなずく。

「小学の同級生とたまたま会って。それよりばぁば、何してるの?」
「明日の朝ごはんの支度をちょっとねぇ」
「そっか。じゃ、洗い物とご飯炊くのはわたしがするから、もう休んだら?」
「あらぁ、いっつもありがとうねぇ。お夕飯はもう食べるの?それならテーブルに出しておくよ」
「自分でするから大丈夫だよ」
「いいの、いいの。させてちょうだい。刹那ちゃんも疲れてるでしょう」
「うーん、ありがとう」
「はいはい、さ、着替えていらっしゃい」

 返事をして階段を昇る。小さな一戸建ての家はもうずいぶん古くなっていて、壁は毛羽立っているし、階段は昇るたびに軋んだ。部屋数だってそんなに多くはない。
 けれど、刹那と祖母のふたりで住むには少し大きすぎる。

 ホワイトベージュで統一した、やや簡素だけれど適度に女の子っぽい私室にカバンを放り投げ、制服からパジャマに着替える。
 洗面所で手を洗ってリビングに戻ると、ホカホカの食事がふたつ並んでいた。
 刹那はそれに眉をひそめる。
「まだ食べてなかったの?」
「どうせなら一緒に食べようかと思ってねぇ」
「いいのに。お腹すいちゃうでしょ?わたし最近忙しいし、待ってることないんだよ」
「いいの、いいの。ばぁばも色々してたら、気付いたらこんな時間になっちゃってねぇ。さ、冷めちゃうから食べちゃいましょう」
「うん……」

 今日は仁王と一緒に帰る日だったから、部活が終わるまで待っていた。帰宅した今は7時を回っている。
 待たせることと、祖母が一人でご飯を食べること、どちらがいいのか悩み、何か言いたかった言葉が形になる前に消えていく。
 刹那がいつも一緒に食べられたらそれがいちばんいいが、仁王のことがなくとも、いつもというわけにはいかない。テスト前は学校や図書館で勉強して帰るし、ミチカと遊んで帰ってきたり、用事が入ることもある。
 刹那が帰るまでは祖母はこの家に一人だ。
 それを考えると、刹那の胸は寂しさでキュッと痛む。

「いただきます」
 手を合わせて挨拶すると、祖母が嬉しそうに目元を緩める。ほんとにいい子ねぇ、と目で語ってくる視線にも慣れたけど、やっぱりまだ少し気恥ずかしくなるのは仕方がない。
 大根によく染み込んだ茶色い煮物と、ポテトサラダ、里芋の煮っころがし。ちょっと色が地味なメニューだけれど、刹那は里芋をつまんで「美味しい!」と白米をかきこんだ。
「やっぱりばぁばの作るご飯は美味しいね」
「そう?可愛いことを言ってくれるのねぇ」
 祖母ははにかんだように笑って、自分も煮っころがしを食べて「上手くいったわ」と満足そうにうなずいている。

 刹那は祖母の作るご飯が好きだった。
 もちろん美味しいし、優しくて安心する味がするけど、それだけじゃなくて、帰ってきて誰かに「おかえり」と言ってもらったり、ご飯を一緒に食べたり、刹那のために美味しいご飯を作ってくれるというのが、新鮮で擽ったくて嬉しかった。
 幼い頃から母は忙しく、父は居らず、家に一人でいることが当たり前だったから。
 祖母と暮らし始めたのは立海に入学が決まってからなので、最初は慣れなかったし、今も少し照れくささや、どこまで馴れ馴れしくしたり、甘えていいか戸惑うこともあるが、この家はまるで刹那のことを包み込んでくれているみたいで居心地が良い。

「桃があるけど、刹那ちゃんデザートに食べる?」
「桃?いいね!」
「そいじゃあ剥こうね。今日、商店街の八百屋さんから安くいただいてね」
「そうなんだ!ラッキーだったね」

 わたしが剥くよ、と言っても座ってなさいといなされるのは分かっていたから、刹那はお皿を持ってシンクにつけると、並んで皿洗いを始めた。
 祖母が手際よく剥いていく桃は、綺麗な白っぽい色をしていて、真ん中はピンク色でつやつや美味しそうだった。
 むせ返るような、とでも表現したくなる甘い香りが広がって、バラ柄の切子のデザート柄に祖母が綺麗に並べ、少女みたいにワクワクした笑顔で刹那を見つめた。
「瑞々しくってとっても美味しそうよ」
「ほんとだね、早く食べよ!」
 明るく答え、小走りでテーブルに向かった刹那は、いつの間にか自分の中から、ささくれだって、嵐のように渦巻いていた黒い感情が溶け出していることに気付いた。

 部屋の窓から夜空が見えた。
 住宅街の光にぼやける氷の欠片のような星が僅かにまたたいている。うっすらと雲がかかり、月が滲んでいた。

 凪いだ心で、絵麻の……泣いていた顔を思い出す。
 あの時に感じた充足感はかつてなく刹那を震わせ、満足させた。
 自分の手のひらをじっと見つめ、問いかける。

 そして、ぎゅっと拳を握った。
 まだ足りない。まだまだ足りない。
 たったあれだけの痛みで、自分が受けた仕打ちを許すことなんて到底できない。きっと、一生。
 精神科から処方された薬を飲み、刹那は目を閉じた。
 夜空が綺麗だ。
 いつになったらわたしは痛みを忘れて、幸せになれるだろう。

*

 6月も終わりに差し掛かっている。
 7月になったら刹那は男子テニス部の見学に行こうと考えていた。今まで練習を見に行ったことすらない。
「ミチカ〜」
「ん?」
 泣きつくような声を出すと、ミチカが「どうした?」と顔を上げた。
「テニス部の練習、一緒に見に行かない?」
 彼女の顔が露骨に嫌そうに歪む。刹那は思わず笑った。けれど、一刀両断はせずに考える姿勢を取ってくれた。
「なんで?に…ピの応援?」
「ううん。練習の内容を観察したくて」
「小説でも書くの?今黒バス再燃してるっけ?ペダル?」
「それならバスケ部の練習見るよ。そうじゃなくてさ、マネになろうと思って」
「マネ!?」
 大きな声で驚き、あわてて声を潜めて顔を近づけてくる。
「えっ?そんな好きなの?」
 それは仁王のことを指しているんだろう。傍からみるとそんなふうに見えるのだろうか。仁王もそう思った?それならすごく嫌だな。
「そうじゃないけど、まぁマネになったら小説にもリアリティ生まれるし…」
「…ふーん?まぁ練習見に行くくらいならいいけど、もうすぐ夏休みなのに遊べないじゃん」

 不満そうにミチカは眉をひそめた。
 運動部、特にテニス部が夏休み返上で練習していることは有名で、夏は色々イベントがある。ミチカも刹那もまだ学生で本を出したことはなかったが、ミチカがいずれコスプレの写真集を出そうと考えているのは知っていたし、刹那も写真を撮りに出掛けるのにけっこう着いていっている。
 イベントやコラボカフェに行くことも、放課後や休日に一緒に遊んだり、これからはあまり出来なくなる。
 それを不満に思ってくれることが、刹那には少し嬉しかった。

「じゃ、今日の放課後に」
「おっけ。たしかにテニス部の見学なんて行きづらいしね。知ってる?見学ポジションにもルールがあるらしいよ」
「あーね」
 よくやるよね、とどこか小馬鹿にしたように言う。刹那も一応柳のファンクラブに入っているからルール自体は知っている。差し入れをしていい曜日だとか、ファンクラブの番号が若い順にいい場所で見学出来るだとか、練習が終わった後に取り囲まないだとか、細かく色々あるらしい。
 でも、仁王や丸井のファンは我が強くてルールを守らない子も多く、同じ柳のファンクラブの子がイライラと愚痴っていたのを聞いたことがある。

 仁王に伝えた方がいいかと思ったが、目当ては仁王ではなく、3軍の練習の様子だからわざわざ言わなくてもいいかと、刹那は取り出した携帯を開くことなくポケットにしまった。

 放課後、野次馬のような気持ちでミチカと連れ立ってテニスコートに向かう。
「うわー、あの中に突入して行くのか…」
 授業が終わり、掃除当番を終えて少しダラダラした後だったからか、既にコートは女子がたくさん取り囲んでいた。遠目から覗くと人が多くてキチンとは見えなかったが、丸井と誰かが練習試合をしているらしかった。
 今年の2年は豊作で、準レギュラーも夏の大会にはほぼ試合に出るらしく、もうほぼレギュラーらしい。特に仁王、丸井、柳生、桑原は新人戦や他の大会で活躍して、練習試合でも勝ちまくっていて、レギュラーは確定らしい。
 大会が控えているせいか、女子たちの応援にも熱が入っていた。いや、いつもこんなもんなのかもしれない。この人垣をかき分けるのは刹那だってゲンナリするけれど、幸いその苦労はしなくていい。

「わたしが見たいのはあっち」
 手を引いて連れて行ったのは、悲しくなるほど人がいないコートだった。何人かがポツポツと立っていて、たぶん彼女か誰かが気まぐれで見に来ているだけだ。誰も歓声を上げたり、声をかけたりしたい。熱心に見つめている人もいない。
 練習を眺めながら時折退屈そうに携帯をいじっている人ばかりだ。
 大勢の中に地味女が突入していくのも目立つけれど、ほとんど人がいないコートに1人で突入していくのも同じくらい目立つ。
 3軍の生徒たちがもの珍しそうに刹那たちを見て、顔を見合せて一瞬噂話をしては興味を失ったように練習に戻る。

「居心地悪っ」
「ここじゃなくてもそうだよ、テニス部なんて」
「たしかに」
「わたし見てるけど、アプリしてていいよ」

 興味ないのに付き合ってもらってるし、と思って言うと、遠慮なく、とミチカはさっそく堂々とイヤホンをつけた。一応片耳は外しているが、興味がなさすぎて笑ってしまう。
 立ったままリズムゲームはやりづらいから、違うアプリだ。
 刹那は小さく笑い、熱心に練習を眺め始めた。


 テニスを見るのは久しぶりだった。
 不登校だった小6の頃仲良くなった男の子がテニスをしていた。仲良くなったという言い方は傲慢かもしれない。仲良くなったというより、彼が精神的に大人だったから刹那の相手を仕方なく引き受けざるを得なかっただけだ。
 今は落ち着いたが、傷付いて全てに対して絶望して、憤っていて、その感情を持て余していた刹那は荒れに荒れていた。世界の全てが嫌いで、世界の全てが自分を傷付けて来るような気がした。
 彼は東京に引っ越した時の小学校が一緒だったけど、それがきっかけではなく、知り合ったのは彼の父親が医者だったからだ。といっても、外科医だから直接関わりがあったわけではない。大学病院に務めている彼は接待の付き合いをよくしていて、特にまだ越してきたばかりだった。
 その大学病院の院長が行きつけにしていたのが母がいる店だった。

 刹那はよく母の店に顔を出していた。男がたくさんいて気持ち悪いけれど、1人でいると色々な黒い感情が頭を回って発狂しそうで、でも外に出かけても知り合いはいないし、小学生が1人で出歩いていたら昼でも夜でも補導される。
 夜は店の控え室で勉強して、朝母と一緒に帰る不健康な生活をしているうちに、母を指名していた彼の父親──瑛士さんが、医者として刹那を見かねて、そして母に相談されて声をかけてきたのだ。
 通っていた病院を瑛士さんの病院に移し、なにくれとなく気にかけてもらって、始めは警戒していた刹那も、頻繁に話しかけてもらったり、お小遣いをもらったり、母と食事に行ったりするうちに、徐々に会話に答えるくらいはするようになった。

 彼は本の収集家でよく本を貸してくれた。図書館はずっといると追い出されるから、彼の家に招待されたのは魅力的だった。
 そこで出会ったのが彼の息子だった。

 刹那は娘の絵里奈さんには懐いたが、息子にはもちろん敵対的だった。男だからだ。歳が近いこともあって八つ当たりしやすかったのもある。
 父親に言われて仕方なく声をかけてきていると分かっていたけれど、話しかけてほしくなかったし、関わりたくなくて、仕方ないなら関わってくるなよとあらゆる理不尽な態度をとったが、彼は心を閉ざして刹那を辛抱強く相手してくれた。

 今ではすごく感謝しているし、彼の影響をすごく受けている。伊達メガネも彼の真似だ。

 その彼がテニスをしていて、よく刹那も1人で練習している彼を眺めたり、たまに打ち合ったりしていた。刹那は絵麻が立海に進学するというので神奈川に戻り、彼は東京の氷帝とかいうお坊ちゃん校に進学したから、最近はあまり会えていないが、会うたびにあいつはテニスをしている。
 だからテニスのルールはだいたい知っていた。
 強さのことはあまり分からないけれど、ジュニア大会などでいい成績を取っていたから、彼はたぶん強い方なんだろう。
 それに、真剣度合いが、なんだか違うように見える。

 3軍の練習を見ていて刹那はそう思った。
 素人目でそんなふうに思うのは失礼かもしれないけれど、ラリーを打っていない個人練習をしている人たちはよく休憩を取っているし、軽い試合をしている人たちは勝っても負けても、そんなに嬉しくも悔しくもなさそうだ。
 大会のオーダーはもう決まっているらしい。この前の県大会と同じメンバーで行くようで、当然柳くんは入っている。控えに仁王も。
 もし違うメンバーが出るとしても他の2軍から出るはずで、3軍からはいないだろう。
 だからかもしれない。

 刹那はチラッと近くにいる男女を眺めた。
 どう見ても彼らはカップルであり、タオルやスポーツドリンクを差し入れされたのを照れくさそうに受け取って談笑している。
 遠くの方に見える1軍のテニスコートでは、女子たちと話している生徒はいなかった。

 コートの傍にいるマネージャーは、見える限りでは2人いた。メニューのタイムを測ったり、裏にいったり、ボール拾いやボール磨きをしているが、正直手が足りないように思える。
 刹那はジッとマネージャーを観察していた。
 今日は3軍、特に練習内容とマネージャーの仕事を見に来たのだ。
 彼女たちには覇気がない。
 ますますテニス部のマネージャーに入ろうという気持ちが強まった。
 強豪校でも、いや、強豪校だからこそ結果が目に見えるから、選手も、マネージャーもやる気に差が出るんだろう。この分なら刹那も頑張れば2軍のマネに上がることが出来そうだ。立海テニス部はマネにも階級がある。1軍のマネになれば選手とも相当関わりが多いし、レギュラーメンツと否が応でも親しくなるから、女子から蛇蝎のごとく嫌われたり、憧れられたりしている。
 だけど、選手の役に立っているし、選手と親しいから決していじめられはしない。そんなことをすれば、テニス部の選手が出張ってくるからだ。
 結果を出してテニス部のマネとして仕事を続けられれば、絶対に絵麻は悔しく思うだろう。絵麻が好きな仁王と付き合った上に、ファンをしている幸村と親しくなれれば…絵麻が憧れているテニス部のレギュラーや準レギュラーたちに認められれば……。

 刹那はうっすらと微笑んだ。
 やっぱり絶対テニス部に入ろう。

 彼らを利用することに対して躊躇いはなかった。
 人はみんな誰かを自分の主観で利用しながら生きている。練習のサポートに手を抜くつもりはないし、彼らに害を与えるつもりもない。
 ただ、マネージャーとして仕事に全力で取り組んで、認められたいだけだ。

「ミチカ、帰ろう」
「んぁ、もういいの?」
「うん」

 1時間ほど練習を見て刹那はそう声をかけた。だいたいの雰囲気は分かった。
「テニス部入るの?」
「入る」
「ほーん。物好きだねー」
 私ならぜってーマネなんかやりたくない、とぼやくミチカに苦笑する。
 刹那も意味の無い苦労はしたくないけれど、意味のある苦労なら大歓迎だ。だって、絶対絵麻が悔しがるって分かってる。あの女はミーハーだから。
 テニス部レギュラーにマネとして認められる。そのための道のりは遠すぎるし、結果だって分からないけれど、可能性があるなら刹那は努力を惜しまない。

 付き合ってくれたお礼にパンケーキのお店を奢ると、日がすっかり暮れていた。
 駅までの道を歩きながらミチカがふと言った。
「そういえばもうすぐ授業参観だね。土曜日まで学校とかダルすぎ」
「それなー」
「刹那んちは誰来るの?私んち、どっちも来るって言っててさー」
「…あー、どうだろ。来れないかも。仕事忙しいみたいなんだよね」
「そうなんだ。土日仕事なの?」
「サービス業だから休みは不定期だよ」
「へー、大変だね。でも親来ない方がいいよ。前の時もさ、当てられて答えたら家に帰ってからめちゃくちゃ構ってきてうざいんだよね」
「うわー、やりづらすぎ」

 ふたりの笑い声が群青の空に溶けていく。
 自分が一瞬強ばったことはミチカにバレていないようで安心する。刹那はミチカにあまり家の話をしない。
 父親がいなくて、母は別居していて、祖母と2人暮らし、しかも母親は夜職だなんて人に大っぴらに言えることではなかったし、相手の反応も嫌だ。
 嫌悪されても、同情されても、気を遣われても疲れるだけだ。お互いに。
 刹那は母と仲がいいし好きだけど、思うところはある。
 家庭環境が複雑な自覚はあるから、刹那は人に自分のことを言わない。

 家の事だけじゃなくて、何においても他人に無遠慮に触れてほしくない。それがたとえ母であっても、親友であっても、彼氏であっても、刹那の内側のことは刹那だけのものだ。

 駅でミチカと別れ、背中が見えなくなるまで眺める。振り返ったミチカが手を上げたので刹那もニコニコ手を振った。
 そしてホームに向かうと、ゴミ箱に「授業参観のお知らせ」と書かれた紙を捨てた。

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